「ちゃんと挨拶しろ」みたいな説教って、うっとおしく感じます。で、なぜ嫌なのかを考えてみました。
オレが正しいからおまえは従うべきだ、という上から目線
まず思い付くのは、「挨拶ができない人間は劣っている」という絶対的な価値基準を、押しつけようとしている行為である点。挨拶は「できた方がベター」ですが、別に、できなくても仕事はできますし、生きていけます。
「ちゃんと挨拶しろ」と語る人が、「挨拶はできた方がベターだ」という意味合いではなく、「仕事をする上で挨拶はマストだ」という意味合いで語るとき、ぼくは嫌気を覚えます。別にそんなことないじゃん、と。
人を評価する条件は、人や組織によって変わってくるので、それを悪だと断罪するつもりはありませんが、「仕事をする上で挨拶は必須だ。挨拶ができないやつは一律に人間としてダメだ」と考えている、偏狭でコントロール欲求が強い人と、ぼくは一緒に仕事をしたくありません。
(オレに対して)礼儀を忘れるな、という意識が透けて見える
「ちゃんと挨拶をしろ」という説教は、ようするに「礼儀を忘れるな」と伝えたいわけですね。これは同意しますし、正論です。
しかし、この言葉の何が嫌かって、「(オレに対して)礼儀を忘れるな」という意識が透けて見えているのです。
いっそ気持ちいいのは「オレは正直、おまえの態度の不快感を抱いた。オレに対しては、ちゃんと挨拶をするように心がけろ。その方がオレは仕事がしやすいんだ」と、包み隠さず伝えてくれることです。あくまで個人間のコミュニケーションの問題、ということですね。
それを変に恩着せがましく「”世の中”は挨拶が重要だ。おまえは挨拶に気を配った方がいい。」と、大きな主語で善人ぶって伝えるのは、どうにも「ずるさ」を感じてしまいます。個人対個人ではなく、個人対集団という構図にしてしまう「ずるさ」です。
さらにいえば、きっと彼は内心で「あぁ、オレって親切で面倒見のよい、クールな上司だ」と思っているでしょう(前者の人は、そうは感じていないはずです)。固有の価値観を押しつけて自己満足に浸るという点でも、気持ちわるさを感じます。
挨拶が苦手な人もたくさん世の中にはいる
そもそも、世の中には挨拶に苦手意識を抱いている人も数多くいます。できるに越したことはないことは知っていても、それでも苦手な人たちです。ぼくもどちらかというと、このタイプです(特に、挨拶する対象が忙しそうにしていると、「忙しそうだし挨拶するのは迷惑かな」と思ってサッと身を引いてしまいます)。
何だか日本社会においては「挨拶が苦手」と語ること自体がタブーみたいになっていますが、別に、いろんな人がいていいんじゃないでしょうかね?人の生き死にが関わっているわけでもあるまいし。「あいつはちょっと無愛想なヤツだ」でいいじゃないですか。
「ちゃんと挨拶しろ」という説教に触れるたびに、「たかが挨拶ぐらい、別にできなくてもいいんじゃない?」と感じます。なんせ、ぼくも挨拶苦手ですから。無愛想な人を見ると、かえって親近感すら覚えるほどです。
えぇ、「されど挨拶」とみなさんが言いたいのもわかりますよ。ぼくもそのくらいは、わかって書いてます。でも、あえて「たかが挨拶」でいいじゃないですか、と言いたいわけです。
そうですね……挨拶スキルなんて、エクセルのスキルみたいなものだと考えましょうよ。エクセルはできた方がいいけど、別にできなくても人間的な価値が落ちるわけではありません。同様に、挨拶はできた方がいいけど、別にできなくても人間的な価値が落ちるわけではありません。
みなさんの意見、お待ちしております。コメント欄にぜひ。
(追記:フェイスブックページの方にいいコメントをいただいてます。「#要するに、挨拶は部下から上司、後輩から先輩にするもの、という考えが間違えているだけだと思う。みんなで挨拶しまくればいいのです。」というのは確かに。)