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最終更新:2013年4月15日(月) 18時50分

「水俣病」終わらぬ闘い、16日に最高裁判決

 日本の公害の原点とされ、今から50年以上も前に起きた水俣病。その裁判が今も続いています。国の基準が厳しすぎて水俣病と認めてもらえないという訴えに対し、司法の判断は揺れ動いてきました。16日、ついに最高裁が判断を下します。

 「この辺が全部埋め立て地ですね。元港の」

 熊本県水俣市。有明海の前に整備された公園は、今や「恋人の聖地」と呼ばれる地元の観光スポットになりました。しかし、ここはかつて「死の海」と呼ばれていました。

 日本の公害の原点とされる「水俣病」。1950年代後半、住民が次々とまひなどの症状を訴え亡くなりました。化学企業の「チッソ」の工場から排出された水銀が有明海を汚染し、魚などを通じ“水銀中毒”が広まったことがその原因でした。発生から50年以上が経たった今も、裁判は続いています。

 「どれだけの人が亡くなりましたか、認定されて死んだ人が何千人ですかね。認定されずに死んだ人も大勢いる」(溝口秋生さん)

 水俣市に住む溝口秋生さん(81)は、母親の水俣病認定を求め闘ってきました。母親のチエさんに症状が現れたのは1974年のこと。

 「ここに座ってて、よだれをだら〜としてね。タオルをかけてやっても拭かない。うちの家内が『ばあちゃん』と言って拭いてもまたしばらくしたらだら〜と」(溝口秋生さん)

 発症から3年後、チエさんは亡くなりました。チエさんは亡くなる前から水俣病と認定するよう熊本県に申請していました。ところが県は長年、判断を示しませんでした。「チエさんは水俣病ではない―」。県がそう通知してきたのは、申請から21年後のことでした。

 「そこの人も認定された、あそこも認定されたその人たちの何倍も魚を食べているのです。水俣病に似た症状であると、水俣病ですよ」(溝口秋生さん)

 なぜ、チエさんは水俣病と認められなかったのか。国は1977年、水俣病について、手足のしびれなどの感覚障害のほか、運動失調や、難聴、視野が狭くなるといった“複数の症状がある人だけ”を認定する、いわゆる「77年基準」を制定しました。チエさんは難聴と視野に関する症状を示す診断書がない、として認定されなかったのです。

 これまでに症状を訴えた人は6万3000人に上りますが、国が認定したのはわずか3000人に過ぎません。

 「認定基準を狭くして認定患者の数を減らす。そして補償金額の総額も減るので補償の完遂にもつながる。認定基準をいじると国の政策全体を変えることになるので、いじらなかったんだろうと思います」(熊本学園大学 水俣学研究センター 花田昌宣教授)

 母親を水俣病と認定してほしい。秋生さんがついに、裁判を起こしたのが2001年12月。1審の熊本地裁は「水俣病と認める証拠がない」として訴えを退けましたが、2審の福岡高裁は「国の77年基準は水俣病かどうかを判断する上で不十分」と指摘し、チエさんを水俣病と認める判決を言い渡しました。

 しかし、ほかに水俣病の認定を求めた訴訟では、高裁で原告が敗訴しています。16日の最高裁判決は、国の認定基準のあり方について最高裁が初めて統一判断を示す見通しです。

 「そんな被害がひどいのに国、県はそこまでくるのに何もしなかった。6万5000人ですよ、どうするのか」(溝口秋生さん)

 1977年から一度も変わることのなかった国の認定基準に、最高裁はどのような判断を示すのでしょうか。(15日14:44)

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