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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読む(2)
新刊の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、現在、多くの書店で品切れになっていて、入手が困難になっている模様だ。Amazonのサイトを見ると、中古出品に1900円の値段がつけられている。定価は税込みで1785円、初日に抜け目なく店頭で買い、一気に読み、ネットで売り捌いたら儲けが出るという異常な状況。発売前に50万部を刷りながら、発売2日で書店分は売り切れとなった。本の帯に、村上春樹のインタビューの言葉が載っている。「ある日ふと思い立って、机に向かってこの小説の最初の数行を書き、どんな展開があるのか、どんな人物が出てくるのか、どれほどの長さになるのか、何もわからないまま、半年ばかりこの物語を書き続けました」。やはり、ストーリーについて精密な構想を立てず、全体のプランを設計せずにアドリブで書いている。だから、書き出しが抜群によく、前半に面白さが凝縮され、後半の進行に従って流れが澱み、物語の世界が小さく萎れる作品になったのだ。イントロと、それからつくるの体重が激減して形相が一変する懊悩の描写は、小説というよりも完成された詩の表現そのものだ。だが、例えば、名古屋でビジネスセミナーの会社を経営するアカ(赤松)が登場する場面となると、描写が単調で、そこに文学的な観察や想像力の厚みが乏しく、村上春樹が多くを準備せずに、経過点としてこの章を書き流していることを感じる。
意図的にそうしているのかもしれないが、前半すぐに登場する灰田との関係の場面が、村上春樹的な、豊饒で濃密で深遠な世界が描き込まれている章だ。昨日(4/14)の朝日の読書面に、
佐々木敦
が短評を書いている。と言っても、そのほとんどは話の筋の要約であり、本の宣伝のための紹介に近い内容だ。映画の予告編のようであり、朝日のコラムに書く機会を利用して、文藝春秋と裏で話をつけていたのかもしれない。要約(予告編)としてはよくできた文章である。佐々木敦自身の作品への批評はどうかというと、沙羅がつくるに語った「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」の言葉をポイントに据え、こう言っている。「そう、過去はどこかに存在し続けている。だからいつかは必ず、勇気を出して、それに向かい合わなくてはならない。たとえそれが悲嘆と絶望、解けない謎に満ちていたとしても、そうしなくてはならないのだ。村上春樹は、おそらくそう言っている」(12面)。果たして、そうだろうか。それがこの作品のテーマとメッセージだろうか。このシンプルな結論といい、文章の大半を占める予告編的要約といい、何やら、中学生か高校生に向けた読書案内のようであり、夏休み課題図書としてこの一冊を挙げたときの推薦文のようだ。中学生や高校生にこの本のテーマを言うときは、この健康的で文科省指導要領的な結論でよいだろう。だが、マチュアな村上春樹の読者に向かってこう断言するのは、批評を職業とする者にすれば、少し安直にすぎる説明に聞こえる。
この佐々木敦の書評(結論)に納得するほど、つくるが「巡礼」の旅で得たものは大きくないのではないかと、そう言わざるを得ないほど、ラストのカタルシスが小さいのだ。欲求不満のまま物語を閉じるのである。クロ(エリ)がつくるに語った謎解きに頷き、そこにインスピレーションを感得できれば、佐々木敦のコメントにも肯首できる。謎を解き明かすということは、シロ(ユズ)の事件の意味をつくると読者に説き語り、啓示と諦観を与え導き、感動を盛り上げることに違いない。どうもそこが成功しているとは思えないのである。佐々木敦的に、「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」の警句を作品のキーフレーズとして措定し、過去と向き合って真実と意味を発見する勇気の重要性が訴えられた作品だと頷くなら、もう少し、クライマックスのクロ(エリ)の言葉に厚みと深さがないといけない。つくるを愛していたのだという告白に迫真性が必要だ。中途半端な感は否めず、穿った見方をすれば、クロの証言は言い訳の嘘が入っているかもしれないと、そう訝る解釈もできなくはない。辻褄を合わせているが、実際には支離滅裂じゃないかと感想することはできる。沙羅に導かれるままつくるは「巡礼」の旅に出たが、「巡礼」を諭した沙羅はつくるを裏切っているかもしれず、もしつくるが沙羅に裏切られ、クロに嘘をつかれたのなら、つくるの「巡礼」は失敗で徒労だったということにならないか。大人の読者は、そんな意地悪な観察も可能だ。
この作品のテーマとメッセージは何だろう。村上作品でキーワードになるのは、「喪失」である。『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』。『1Q84』をめぐる議論では、「
物語
」という言葉がキーワードになった。一人一人が持つ「物語」の重要性。『1Q84』の作品を「物語」の語で説明することは、正鵠を射ていると私は思う。今回の新作については、「喪失」もあり、「物語」もあり、両方の要素があるけれど、それがキーワードだと言われると、どちらもインパクトが弱い感がする。説得的に響かない。作品とは全く関係のない話題に逸れるが、高校を卒業して故郷を出て、仲睦まじくした同級生の仲間たちと離ればなれになり、音信不通だったのが16年後に対面するということは、リアルなシチュエーションを考えれば、個々において相当に困難な事情もあることだろう。36歳と言えば、高校卒業時が1997年だ。山一と北拓が破綻した金融危機の年。そこから日本経済は奈落の底に落ち、若者たちには厳しい就職氷河期が待っていた。各自は忌まわしい格差社会の住人となり、正規と非正規に運命が分かれ、十代の頃には想像もしていなかった息苦しい現実の中で暮らしている。つくる的な、不条理に仲間に排除されたとか、あるいはいじめを受けた過去がなくても、大都会に働きに出て、いちど音信を途切らせた者が、カムバックして地元の同窓会に顔を出せるようになるのは、相当に試練的な状況があるに違いない。この16年間、個々は生きて歴史(過去)を作ったが、向き合うことが容易でなく、納得も検証も、確認も巡礼も難しい過去(歴史)を持つ者は多いだろう。
さて、今回の作品では名古屋が舞台になっている。非常にセンスのいい当を得た設定で、さすがに村上春樹だと感心させられた。なぜ名古屋なのか、名古屋でないといけないのか。そこには理由と意味がある。調和のとれた正五角形の共同体、失われた心の理想郷、それを、特に東京とのコントラストで強調するのは、名古屋こそがベストの選択なのだ。大阪では都会すぎてこの主題に合わない。仙台でも、この設定に合うには地方すぎる。地方はどんどん疲弊し、日本は「東京と地方」の経済社会になった。すべての都市、すべての人々の居住空間は、「東京と地方」の構図の中にある。東京か地方か、どちらかであり、この場合、大阪は(意味的に)東京に含まれると考えていいだろう。地方は東京に支配され、従属し、自立せざる植民地として支配され、東京の一部としてすっぽり包み込まれている。すべての地方がそうだ。やむなく「うどん県」だの何だの言い、東京に媚を売って生きている。東京と地方とはそういうワンセットの関係構図になっている。ここで、唯一、名古屋だけが違うのだ。独立している。東京に従属せず、この構図からはみ出している。東海地方は日本の製造業の中心地であり、日本経済のボディの主たるを構成している。東海地方には世界一の製造業が活動し、同時に農業も盛んで、農工バランスは決して工業が圧倒的というわけではない。名古屋は都市であり農村である。名古屋の人たちは思うのだ。自分たちが自然に生きていて、経済も生活も日本の普通の姿が名古屋なのだと。ここの人たちは真面目に生産をしている。きちんと日本人らしく仕事をして価値を生み出している。
生産と労働に自信を持っている。自分たちが日本経済の主役でクオリティの支柱だと思っている。中産層的なものが生きている。グローバリズムではない生き方がある。で、名古屋の町の地味な風景を見て、東京の新しくどんどん建つ高層ビル群やどこも同じ顔をした新しい商業集積を見ると、これは嘘だなと見破るのである。地方から収奪した分をここに資本投資しているのだと。東京のいかがわしさ、やましさ、うそ臭さを看破するのだ。そして東京に生きている人間の限りない虚飾と欺瞞に気づき、地に足の着いてない繁栄の危うさを直感するのである。10年ほど前、名古屋駅前の交差点で、あの大名古屋ビルヂングの前に立ち、桜通口から横断歩道をこちらに歩いてくる人々を見てハッと思ったことがあった。雰囲気が東京と違う。そこは、東京で喩えれば、丸の内北口から大手町方面に大量の人が吐き出されている現場だが、歩く人のリズムが違う。隣の人に顔を向けて話しながら歩いていたり、肩が揺れていたり、地に足を踏みつけた感じで、生きた人間が闊達に歩いている。東京の丸の内北口や渋谷のスクランブル交差点がブロイラーの集合の動きだとすれば、名古屋駅前のそれは、冊で囲った地面を自由に歩きながら餌をついばんでいる元気な比内地鶏だ。一人一人に個性らしい個性が見え、洗練されていない地が顔に出ている。4人が名古屋にとどまった理由がよく分かり、その共同体空間の居心地の良さが分かる。名古屋でなく、仙台や広島なら、いずれは東京に出なくてはならないとか、東京への憧れに牽引されるとか、そういう物語になり、東京から独立した共同体の地にならないのだ。
東京から収奪され東京に消費される地方は、否応なく東京と向き合わされ、東京と同じ時間が流れる。「うどん県」の時間が流れる。けれども、名古屋だけは別の時間が流れる。東京と同じ時間が流れない。疲弊せざる地方、名古屋。村上春樹の洞察に感服する。
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thessalonike5
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2013-04-15 23:30
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NY金魚
at 2013-04-15 23:29
タイトル :
ひとりの中にあるふたつの主題 − 村上春樹の正論原理主義批判
春樹新作の話題のなか、古い評論で恐縮ですが「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」ロシア語版序文から、ふたつ以上のサブジェクトのことを書きました。多層的主題を飛び跳ねる物語に世界が共鳴する「ひとりの中にあるふたつの主題 − 春樹の正論原理批判」 村上春樹編集長による「少年カフカ」なる週刊誌風古文書を手に入れた(2003年・新潮社刊)。「海辺のカフカ」発刊にともなうネット上の膨大な数(1220通)の読者メイルに編集長自らがひとつづつ、実にていねいに答えるという趣向である。春樹氏と読者諸......
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