スペイン継承戦争  War of the Spanish Succession


スペイン継承戦争とは。スペインのハプスブルク王朝の断絶に伴い、その後継者をめぐってフランスと神聖ローマを核とした
諸国間で行われた戦争である。西ヨーロッパの主要国がほとんど参戦し、戦場もスペイン、イタリア、南ドイツ、オランダ、大
西洋、北海と広範囲に及び、第一次世界大戦と呼んでも良いほどの規模である。


スペイン王室の状況                                                               
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ではまずスペインの内部状況について解説していこう。1516年のカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)の
即位から、スペインは代々ハプスブルク家の支配下にあった。ところが、三十年戦争以降スペインは弱体化の一途を辿り、
更に1655年わずか4歳で王位を継いだカルロス2世は病弱で精神的にも不安定、世継ぎが生まれるまで生きられるかど
うかも危ういときた。そんな状況だから、カルロスの即位直後からヨーロッパ中の視線がスペインに注がれていたのである。
おまけにカルロスが成人すると、勢力拡大を狙う諸国はスペインにおける自国の影響力を深めるため、ここぞとばかりに縁
談を持ち込んだ。一人目の花嫁候補はマリア=アントニア、神聖ローマ帝国のレオポルト1世の娘である。ところが彼女は
まだ6歳であり、幼すぎる事を理由に縁談は破棄された(カルロス2世の母、マリアーナ・デ・アウストリアは神聖ローマ出
身なのでこの縁談に乗り気だったが、カルロス自身が拒絶した)。

二人目の候補はフランスのルイ14世の弟・オルレアン公フィリップの娘マリ=ルイーズである。カルロスは彼女の肖像画
を見て一目惚れ、縁談は成功した。こうしてカルロスの夫婦生活が始まったわけだが、肝心の世継ぎは中々出来ない。王
室に仕える医師たちがありとあらゆる方法を尽くしたものの、功を奏さない。そんな中、王妃マリ=ルイーズが27歳の若さ
で亡くなってしまう。次にスペイン王妃となったのはマリアーナ・デ・ネオブルゴ。彼女は子供が出来ないと分かると、侍医
と共謀し、妊娠したが流産したと嘘をつき、それを繰り返した。カルロスはカルロスで、自分が世継ぎを残せないのは妖術
にかけられているからだと信じ込んで悪魔払いの祈祷師まで呼ぶ始末である。

そんなスペインの様子を見て、諸国はいよいよスペインの後継者問題に頭を悩ませるようになるのであった・・・。

スペイン王位を狙う者達                                                              
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では、カルロス2世の後継者と目されていたのはどのような人々だったのだろうか。

まずはフランスのルイ14世の孫、アンジュー公フィリップ。次に神聖ローマ帝国のレオポルト1世の次子、カール。最後は
バイエルン選帝侯ヨーゼフ=フェルディナントである。なんと言ってもルイ14世の母親アンヌ・ドートリシュはスペイン王フェ
リペ3世の娘、王妃マリ=テレーズはフェリペ4世の娘、つまりカルロス2世の姉にあたる。はたまたレオポルト1世の母親
マリアもフェリペ3世の娘、ベラスケスの絵画で有名な皇后マルガリータ=テレサもまたフェリペ4世の娘。そんでもってバ
イエルン公ヨーゼフ=フェルディナントの母親マリア=アントニアはレオポルト1世の娘だから元を辿ればスペイン王家の
・・っていちいち言っててもややこしい事この上ない!というわけで、下図を見てもらいたい。


■王位継承権主張理由■
*アンジュー公フィリップの場合

ルイ14世がマリ=テレーズと結婚する際、彼女がスペイン王位継承権を放棄する代わりにスペインから持参金50万デュ
カを得る事になっていたが、窮乏したスペイン国庫からそんな大金が払えるわけが無かった。つまり、代償を得ていないの
だから、マリ=テレーズスペイン王位継承権を放棄する理由は無いというわけだ!だからルイは彼女の血を引くフィリップ
に正当な王位継承権があると主張したのだ。

*カール大公の場合

母親はマルガリータ=テレサでは無いが、レオポルト1世の母親はスペイン王家の出であるため、彼もちゃんとスペイン王
家の血を引いている。また、フェリペ4世は妹のマリア(カールの祖母)に王位継承権を認めている。

*ヨーゼフ=フェルディナントの場合

一方マルガリータ=テレサはレオポルト1世に嫁ぐ際に王位継承権を放棄しなかった。彼女はスペイン王位に就く権利があ
ったのである。よってその直系であるヨーゼフ=フェルディナントもまた、王位を要求する権利があるのだ。

候補者達は分かったけど、結局王位を誰に譲ればいいんだ?スペイン宮廷は混乱する。そんな時、待ったをかける勢力が
現われる。



スペイン分割相続案                                                  .

ここで動いたのがウィリアム3世治下のイギリスとオランダである。彼は一人が単独でスペインの王位を継承することに恐
れを抱いていた。スペインを継承して得られるものは何も本国だけでは無いのだ。王位継承者の手中にはかつて「太陽の
沈まぬ大帝国」として無敵の威容を誇ったスペインが現在も所有するイタリアの大部分、南ネーデルラント、中南米、メキ
シコ、フロリダ、さらにフィリピンや西インド諸島などの広大な植民地までもが収まってしまうことになる。それに、オランダ
は神聖ローマから独立したばかり。おまけにフランスによる侵略戦争を経験している。オランダ側から見ればどちらの勢力
が強大化するのも心配だし、一方イギリスは海上権を自由に行使するため、三十年戦争以降ひたすら勢力均衡の維持に
専念していた。ていうか正直イギリスより強い国が出てくるのは困るのである!というわけで、ウィリアムは複数の王位継
承者によるスペインの分割を試み、1698年にはルイ14世の発案で、レオポルトの承認も経た次のような案が作成された
(※1)。

バイエルンの取り分 スペイン本国、ネーデルラント、海外植民地
フランスの取り分 ナポリ、シチリア、ギプスコア(スペイン北部)
神聖ローマの取り分 ミラノ侯爵領

大体こんな感じである(※2)。ところが、1699年ヨーゼフ=フェルディナントが死去。急遽第二案が組まれた(1700年)。

フランスの取り分 ナポリ、シチリア、ミラノ侯爵領
神聖ローマの取り分 スペイン本国、ネーデルラント、海外植民地

何が不満なのか、これに神聖ローマが反対。しかしなんといっても一番怒ったのはカルロス2世である。いくら病弱とは言
え、自分は国王だ。それなのに自分の知らないところで国土分割案を勝手に作成するなど何事か!結局スペインの分割
相続はなされず、諸国はカルロスの遺言が出来上がるのを待つ事になった。

しかし!さすがというべきか、ルイ14世は抜け目が無い。なんと彼はフランス領バルセロナをスペインに返還。更にフラ
ンス大使を通して宮廷内に親フランス勢力を形成させたのだ。そして親ハプスブルクのリーダー・オペローサ伯の失脚後、
親フランス派の優位は決定的なものとなり、結局カルロスは1700年10月30日、フィリップに王位を譲るという遺言を残
し、その2日後の11月1日にこの世を去るのであった・・。

※1 スペインの分割相続案は以前にも1668年に一度ルイ14世、レオポルト1世間で提案されている。このときの決
   定では、フランスがオランダ、ナヴァラ、フランコ伯爵領、ナポリ、シチリア、フィリピンを、神聖ローマがカステ
   ィリア、アラゴン、インディアス、北部イタリアを所有する事になっていた。
※2 1696年に発表されたカルロス2世の最初の遺言では、ヨーゼフ=フェルディナントが後継者として指名されてい
   た。そのためスこの案ではペインの主だった部分が彼に与えられる事になっている。


ルイ14世のとった行動                                                            .

アンジュー公フィリップは晴れてスペイン王「フェリペ5世」となり、ルイ14世はフランス宮廷においてフィリップをス
ペイン王として紹介した。その時スペイン大使は「もはや両国の間にピレネー山脈はございません」と言ったとされる。
そして2月18日、フィリップはマドリードに入城するのであった。

さて、カルロス2世の遺言では、フィリップがスペイン王となった場合にはフランス王位継承権は放棄されるという条件
がついていた(※1)。しかし、ルイ14世はこれを無視した。丁度この頃フランスはアウグスブルク同盟戦争に敗北して
領土拡大製作が頓挫していたため、どうしてもここでスペインの王位を手に入れて権威を回復したかったのだ。そこで
ルイは1701年、フィリップのフランス王位継承権を主張し、ネーデルラントの要塞に侵攻して手中に収め、更にスペ
インでの奴隷貿易独占権をフランスに認めた。

こんなルイの行動に当然方々で反対の声が上がる。神聖ローマはもとより、非戦論者だったウィリアム3世も商業上の
問題から開戦を決意、1701年9月7日に神聖ローマ、イギリス、オランダ三国は反仏連合「ハーグ大同盟」を結成。ル
イ14世はこれに恐れをなすどころか、名誉革命で追放されたイギリスのジェームズ2世の息子・ジェームズをイギリス
王として承認するという措置を持って大同盟側にあくまでも反抗の意を示した。

こんな事になっては、もう戦は避けられない。対仏大同盟の中心人物ウィリアム3世は1702年3月に没したにも拘らず
1702年5月に大同盟はフランスとスペインに正式に宣戦布告を行う。また、プロイセンを始めとしたドイツの小国も大同
盟に参加。ルイ14世側についたのはバイエルン公とサヴォイア公のみ。おまけにフランスはルイ14世の度重なる軍事
行動のせいで国庫は底をつきかけていたし、軍隊を指揮する有能な指揮官が少ないという難点も抱えている。

ハーグ大同盟若干有利の中、いよいよスペイン継承戦争が始まるのであった。

※1 カルロス2世の遺言で王位はフィリップに譲るとなっていたが、その次にフィリップがそれを辞退した場合は王位を
   レオポルト1世の次子、カールに譲る事が定められていた。もちろん、その場合にはカールの神聖ローマ帝国の帝
   位継承権は放棄される事になっている。


プロイセン王国の誕生                                        .

前段で少しだけ触れたプロイセン。この国名は後々重要になってくるので、ここで解説しておこう。1700年11月16日、レ
オポルト1世は対フランス戦に備え、ブランデンブルク−プロイセンの助力を求め、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ
3世にプロイセン公国の「王位」に就く権利とその承認を与えた。フリードリヒにとっても願っても無い申し出であり、彼は
フリードリヒ1世としてプロイセン王国の初代国王となった。ところで、この所謂「王冠条約」に不安を抱く人物が一人いた。
神聖ローマの名将・オイゲン公である、彼はプロイセンが先々オーストリアの強大な敵になる可能性を懸念していた。こ
の心配は後に現実となるのだが、それはまだ先のお話…。



初期の諸戦闘                                            .

開戦後、まずフランス軍はイタリア北部、ライン川上流、ネーデルラントに侵攻。対する同盟国側は神聖ローマのオイゲン
公やイギリスのマールボロ公などの優秀な指揮官の元で奮戦し、1701年にマルピ・キャリの戦いで、1702年にはクレ
モナ及びルツァラの戦いで勝利した。1703年にはサヴォイ公が同盟国側に寝返り、ポルトガルも商業上の利害からイギ
リスとメシュエン条約を結んで参戦(※1)、イベリア半島における同盟国側の拠点を提供した。とはいえフランス軍も負け
ておらず、ヴァンドーム公やヴィラ−ル将軍の活躍で戦況は一進一退を繰り返していた。しかし、1704年に転機が訪れ
る。ブレンハイムの戦いである。双方の死者・捕虜・負傷者合わせて3万9千人を数えるほどの激戦で、この戦いでフラ
ンス軍は決定的な敗北を喫し、バイエルンより撤兵。フランス軍の占領地も回復されてしまう。この後オイゲン公はイタリ
アに侵入し、1705年にはカノッサでヴァンドーム公を破り、1706年のトリノの戦いでイタリアでの決定的勝利を得た。一
方マールボロ公は北ネーデルラントに侵攻、同じく1706年にラミリーでフランス・バイエルン連合軍を撃破した。

では、ここで西方、スペイン方面に目を向けてみよう。
カール大公は「カルロス3世」を名乗り、1704年5月にまずリスボンに上陸してエストマドゥーラ地方に侵攻。イギリスは
同年8月にジブラルタルを急襲し占領、地中海のフランス勢力を駆逐した。大同盟側がポルトガルからカタルニアに入る
と、カタルニアとバレンシアはカールを王として承認(カタルニアの中心都市・バルセロナは商業上の理由でフランスと対
立していた)。こうしてスペイン内にはカルロス3世を戴くバルセロナ、フェリペ5世を戴くマドリードの二つの首都が存在す
るようになった。1706年にはイギリス、ポルトガルがマドリード入城を果たして、スペインの主要都市はハプスブルク家
のものになった。ところがカスティリアの住民は大同盟側に反発してゲリラ戦を展開。一方スペイン宮廷はフランスから
派遣された能吏たちの指導のもと軍事や財政の改革に着手。1707年のアルマンサの戦いでバレンシアとアラゴンを奪
還した。

再び東の情勢を追うと、イタリアでの戦役を終えたオイゲン公はイギリス軍と合流。1708年のウーデナルドでヴァンドー
ム公率いるフランス軍を撃破し、続く1709年のマルプラケの戦いでも勝利を収めた。しかし、マルプラケの戦いでの損失
は双方とも激しく、フランスのヴィラール将軍は戦いの後ルイに向かってこう言ったという。「陛下、敵がもう一度このように
勝利すれば、向こうもおしまいになります」イギリスにおいて講和を求める意見が増えてきたのもこの戦いの後である。

※1 メシュエン条約は1703年イギリス−ポルトガル間で結ばれた通商条約。イギリスはポルトガルのワインを低関税で
   輸入する代わりに毛織物などの輸出を認められた。


講和への道                                            .

戦争が始まってから10年ほどが経過し、さすがに和平を求める声が多くなってきた。すでに1705年以来ルイ14世は
非公式にオランダ政府に和平を持ちかけており、1709年には大臣コルベール・ド・トルシをハーグに送って正式に和平
交渉を開始した。しかし、フランスは提示された条件(※1)のうち「スペインからフィリップを排除する際の武力行使に協
力する事」の項を拒否した為、これはおじゃんになってしまった。マルプラケの戦い以降1710年に交渉が再開されたも
のの、同盟国側の拒絶によって破局。結局ルイは国民達の愛国心に訴えて士気を向上させ、再び戦いに臨んだ。以降
フランス軍は優勢に立ち、1710年にはスペインのビリャビシオサで大勝し、カルロス3世をマドリードからバルセロナま
で撃退した。

こんな戦局の変化に加え、同盟の提唱者であるイギリスがやる気をなくしてしまったのだ。というのもイギリスの目的は
勝利ではなく自国の利権を確保する事。加えてマールボロ公とアン女王が不仲になり、1710年にはとうとうマールボロ
公の指導する主戦派のホイッグ党政権が倒れ、翌年には彼自身も収賄と公金横領の疑いで国外追放されてしまったの
だ。非戦派のトーリー党が実権を握った以上、イギリスがまともに戦うわけが無い。

さらにさらに!スペイン継承戦争の終局に決定打を与えた大事件が発生する。なんと、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世が
天然痘のために死去。ヨーゼフ1世には子供が無く、この時点で帝位を継ぐ事が出来るのは弟のカールだけだった。こ
れがどういうことかわかるだろうか。スペイン継承戦争の発端はそもそもフィリップがスペイン王位についた場合のフラン
スとの併合を危険視しての事だったが、カールが神聖ローマ皇帝「カール6世」となった事によって今度は神聖ローマと
スペインの合併という新たな脅威が生まれてしまったのだ!本末転倒とはこのことである。同盟軍はすっかりやる気を
なくし、世情は和平に傾いた。

※1 その他の条件とは、1.ジェームズ3世の追放、2.ダンケルク港の破壊、3.カール大公のスペイン王位継承の
    承認、4.アルザスとストラスブールを神聖ローマに割譲、5.リール、モーブージュ、ヴァランシエンヌをスペイ
    ンに返還 である。


ユトレヒト条約とラシュタット条約                                                      .

まずイギリスとフランスは1711年10月にロンドン予備条約を締結し、1712年1月からオランダのユトレヒトで和平会議
を開催する事を提案。同年7月にはデュナンでフランス軍に敗れたオランダもこれに賛成し、1713年4月にようやく講和
条約が結ばれる事になった。いわゆるユトレヒト条約である。ではこの条約の内容を簡単に見てみよう。

■ユトレヒト条約■

1.フィリップの即位を承認する。ただし、フランス王位は継ぐな。
2.フランスからジェームズ3世(フランスで亡命宮廷を営んでいた)を追放せよ。イギリス王位に干渉するな!
3.イギリスに対して、スペインはジブラルタルとミノルカ島を、フランスはニューファンドランド、アカディア(ノヴァスコシア)、
  ハドソン湾をよこすこと。
4.オランダに対して、スペインはスペイン領ネーデルラントの数市をよこすこと。
5.サヴォイ公国に対して、シチリア王国をよこし(※1)、さらにサヴォイ王国の王号を認めること。
6.プロイセン王国の王号を認めること。
7.ルイ14世時代に得た土地は維持しても良いぞ。
8.30年の期限付きで「アシエント(奴隷供給契約)」をイギリスに譲り渡すこと。

とまぁこんな感じで、スペイン継承戦争は丸く収まった。・・・ただ一国、神聖ローマを除いては。神聖ローマはこの結果
にすぐには納得せず、結局1714年3月6日に一足遅れてラシュタット条約を結び、ナポリ、サルディニア、ミラノ、南ネ
ーデルラントを得た。しかし、カール6世も気の毒である。長年スペイン王になることだけを夢見て戦い続けた結果がこ
れ。だから彼は1720年までフェリペ5世を認めなかったし、スペイン王になれなかった反動で自国の政治をおろそかに
するようになってしまうのである。

※1 サヴォイ公国は1720年にロンドン条約でシチリア島とサルディニア島を交換し、サルディニア王国になる。この
   サルディニア王国がのちのイタリアの元となる国である。

スペイン継承戦争の意義                                     .

この戦争は一体世界史にどんな影響を及ぼしたのだろうか。まず、よく考えてみよう。一番得をしたのは?・・・イギリスで
ある。この戦いによって、イギリスには自国を脅かすほどの敵がいなくなり、さらに植民地やアシエントを得る事によって
海上の優位が確定したのである。そして、サヴォイ公国とプロイセン公国の王国への昇格である。サヴォイ公国はのちに
サルディニア王国となり、19世紀にはイタリア王国になる。プロイセン王国もまた19世紀にはドイツ帝国となる。つまり、
スペイン継承戦争によってイタリア、ドイツという現在の主要国が誕生する事になったのだ。これも外す事が出来ないだろ
う。


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