2013年 04月 14日
「日本の科学者は”怠け者”だ」
岡潔博士
日本はいま、子供や青年たちに「自分」ということを早く教えようとしすぎている。こんなものはなるべくあとで気がつけばよいことで、幼少期は自我の抑止こそが一番に大切なのである。
自分がでしゃばってくると、本当にわかるということと、わからないということがごちゃごちゃになってくる。そして、自分に不利なことや未知なことをすぐに「わからない」と言って切って捨ててしまうことになる。
これは自己保身のためなのだが、本人はそうとは気づかない。こういう少年少女をつくったら、この国はおしまいだ。
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みなさん、こんにちは。
さて、今回は私自身の科学者に対する(科学に対してではない!)印象メモである。
もし音楽家や指揮者が、モーツアルトの有名な作曲だけを知っているとしたら人はどう考えるだろうか? 音楽の専門家が、ごく普通の人たちが知っているようなモーツアルトの曲や人気作品だけを知っているという場合や、比較的新しい作品だけを知っているという場合に、その音楽専門家をどう考えるだろうか?ということである。ベートーベンの場合、バッハやシューベルトでもそうである。
また、現代のミスチルやらJ-Popであろうが、マイケルジャクソンであろうが、何であろうが、テレビやマスゴミの紹介するような曲だけを聴いて、それがマイケルの曲だとか、マイケルの世界だとか、あれがミスチルの音楽思想だとか音楽専門家が言っているとすれば、どうだろうか?
おそらく、みなさんは、そんなの専門家とは言わないというに違いない。当然であろう。
普通の人が聞いたことも無い作品、埋もれた作品、練習曲、実験的作品など、ありとあらゆることを知り尽くしているのが本当の専門家だというだろう。その通りなのである。
ところが、こと話が科学の世界に飛ぶと、驚くべきことに、というか、不思議なことに、これとはまったく逆のことがまかり通るのである。
「ニコラ・テスラの実験」のことや、かつての19世紀の研究者たちが「光より速く伝達する物理的存在」をまじめに研究した歴史があったとしても、そういうものを読んで研究することを邪道だとか、「トンデモ」だとか、「トンデモ科学」、「似非科学」だといい出す始末である。
例えば、ニコラ・テスラは世界最初にナイヤガラの滝にテスラが発明した交流発電モーターを設置し、世界初の水力発電を行った。これが人類史上最初の「商業的な」交流発電であった。これにエジソンが発明した白色電球と結びついて、世界が電化の時代を迎えた。
かたやそのテスラは、ワイヤレス送電やワイヤレス無線の研究も始めた。そのための電源として、超高周波交流電源を作り出した。これがいわゆるテスラ・コイルと呼ばれるものである。そして、実際に無線送電が出来たのである。そのため、いわゆる電波=ヘルツ波以外にテスラ波とも呼ぶべき未知の電波の存在を仮定し、さまざまな研究を行ったのである。
さて、そこで後の物理学者やエンジニアが、こういうテスラの研究を実在の科学の歴史的事実の一つとして、再研究したり、その研究記録を調べたりすることは、非科学的行為だとか、トンデモ科学だとか言えるのだろか?
もちろん、答えはノーである。科学の歴史の意味からも現実に行われたことを調査研究することはそれ自体に意味があるからである。別に、ニュートンやアインシュタインの歴史研究だけが科学史研究なのではないからである。
これは最初に比喩として取り上げた音楽家の場合とまったく同じことに違いない。作曲家も有名な曲も生み出せば、あまり有名とはならなかった曲も生み出す。世間的商業的に成功する場合もあれば、失敗する場合もある。科学とて同じことである。商業的に成功したAC発電もあれば、実業的には軍事技術扱いされて隠蔽秘匿されてしまった技術もある。ちょうどいまの核兵器製造技術がそうである。「核非拡散条約」というのがまさにそういうものの典型であり、軍事技術は政治的に秘匿するのである。テスラの時代は、不幸なことに電波技術がそういう機密事項にランクされたのである。「電波技術非拡散条約」のようなものができ、最先端の電波技術は秘匿されたのである。
さて科学者の話にもどすと、私は最近とくに痛感するのは、「現代の科学者は非常に怠け者だ」ということである。自分の専門分野、それも博士論文に関係した分野、そういったたまたま学んだに過ぎないテーマに関する分野しか学ばずに、下手をすると学者の一生を終えてしまうということである。こういう悪弊を感じるのである。実際に、大半の物理学者は博士になった時の専門分野だけを研究して「最新、最新、最先端、最先端」と自称する、通称「研究競争」をする。
しかし待ってもらいたい。まあ、学生や博士になりたての頃ならそれも致し方ない。ほとんど無知だからである。
しかしながら、少なくとも大学で職を持ち、あるいはそれなりの研究者としての職場に就いたのであれば、自分の学んだ学位に関係ある分野の新しい研究だけではなく、その分野の大昔からの研究論文や昔の古典的論文くらいは学ぶべきだろう。そして、いっぱしの教科を学生に教えるようになる頃には、その分野の歴史上の古典論文や、その分野の創始者たちの論文の主要なものやあまり知られていないものなどをどんどん読み理解しておくべきだろう。そして、できれば、自分の専門分野のみならず、もっと別の分野の論文も読んでおくべきであろ。
なぜなら、教授クラスになれば、年収1000万は軽く超えると言われているほどの高給取りだからである。そのうえ、ある分野の専門家として、国からも税金の研究費を年収の何倍やら何十、何百倍も使用するからである。にもかかわらず、その分野、例えば、統計力学分野であれば、カルノーやらマッハやらジュールやギブズや18世紀や19世紀の物理学者の原論文や古典をそれなりに学んでいるべきだろう。そうした昔の人たちの試みを知った上で、自分の仕事の価値も見つめることが出来るようになっておくべきだろう。
ところが、実際にはまったくそういうことはしない。また年配者の研究者も若手にそういうことを義務づけないし、課さない。だから、世代が戦後第一世代、第二世代、第三世代、第四世代、第五世代と進むに従って、ますます昔の古典を知らずに終わってしまうのである。
そして、結果的に、こういう世代が、ファラデーやケルビンやホイットストーンやテスラの実験のような実験を今見ると、それを「トンデモ」だとか、「トンデモ科学だ」とか簡単に言ってしまうのである。決してそれをまともな科学研究だとは思わない。思えないというわけである。これでは困る。
この原因が、多くの場合、単に科学者の「不勉強」に端を発しているのは明白である。無知なのである。
ここでは何度もメモしたように、我々日本の戦後教育の最大の特徴の一つは、「無知=存在しないこと」、あるいは「自分が知らないこと=存在しないこと」という認識形態を発達させたことである。これが、いわゆる唯物史観を誤解したり曲解した左翼思想やら日教組の教育や、あるいは、戦後日本に住み着き、まったく日本の伝統文化を知らなかったり否定しつつ日本社会に居住するようになった在日朝鮮人から来ただろうことはまず間違いないが、この認識形態のおかげで、逆に「自分が知っていること=だれもが知っていること」というこれまた困った認識形態を発達させたようである。要するに、「事大主義」というものである。物事が善かれ悪しかれ大げさになるのである。
そんなわけで、例えば、「怪しい話ばかりする人は、その人自体が怪しい人だ」というような認識をしてしまうのである。別に、だれかが犯罪のことばかり研究したからといって、その人が犯罪者でも、これから犯罪を犯すわけでもない。犯罪の研究者というものはそういうものである。同様に、私が仮にテスラの研究の話ばかり書いたからといって、私がテスラになるわけでもない。同様に、ここで「陰謀論」やら「陰謀暴露論」をメモしたからといって、私がNWOになるわけでもないし、アノニマスの話を書いたからといって私がアノニマスになるわけでもない。そういうものであろう。
しかしながら、ある一つの専門家ともなれば、話はちょっと異なり、その筋にまつわることなら何でも知っておく必要があるだろう。できれば、それを自分なりに再現できるかどうかチェックしておくことも必要だろう。本当にテスラの実験は再現できるのか、できないのか、そういうことを調べるべきだろう。
とまあ、そんなわけで、私自身は我が国も外国も含めて、昨今の科学者は非常に不勉強の怠け者だと結論せざるを得ないのである。(もちろん、私自身も含めての話ですナ。)
by KiKidoblog | 2013-04-14 12:26 | アイデア・雑多