2013年4月14日日曜日

もんじゅ西村成生さん事件、西村トシ子さんへの取材メモ


西村さんインタビュー

 

N:西村 M:私  急いでメモ書きしたもので完全ではない荒荒の内容です。

 

M:警察がからんでいるというと?

 

N:警察がうそを発表した。警視庁に記者クラブが入っているので、それ以外はTV局の人も入れなくなってしまう。もちろん警察は大きく絡んでいると思う。皆警察から情報もらっているから、なにも出来なくなる。警視庁の記者クラブから排除されると。じれったい。やれる範囲内でやるしかないが。

 

N:現場を何回か見に行った。結びつかない部分がある。遺体が8階から飛び降りたものでない。頭がパンクしたり、体がパンクしたり、といったものでなく、なぐられて殺害され、体がパンパンに腫れた状態だった。警察に言って聞いたが、警察は飛び降りに間違いないと言う。

 

N:現場の写真は警察も取らなかった。救急車で運ばれる前に行っているのに。警察で取っている写真は担架に載って、現場の駐車場で道路の手前でうつぶせになり背広を着ているものだけ。固まっている体だった。異常な状態。気をつけした状態で真下を見ていた。普通は横を向けたりするのが、固まっているから首も横も向けられないような完全に硬直している写真だった。それで、警察に「これはなんなの?」とたずねた。

 

M:飛び降りた人の状態ではないですよね。

 

N:飛び降りた人なら、落ちたところを写真を撮っているはず。たくさん取っているはずが、一枚だけしか見せてもらっていない。背広の後ろとズボンにカキザキが入っていた。上から飛び降りてそんなのありっこない。素人が見てもおかしい。靴も、はいたままか、とんでもないところにないとおかしい。それが担架の左右にあった。おかしい。

 

M:警察の怪しげな行動とは?

 

N:こちらから名刺を渡し、立会人も連れて行った。3回目に言った時に、調書を見せてくれた。まずは本庁に言ったが、受け付けられず、後日警視庁の中央署にアポを取っていった。まず名刺を出したが、刑事課長は名刺渡せないという。課長代理の広瀬さんは名刺をくれた。主に課長代理が説明したが、課長ははそばに居て、時々説明に加わる。写真の時に課長が説明しようとした。カキザキを聞いたら、筋肉が膨張して破れたのだという。冬物のウールが破れるものかなあと。説得力ないな、隠しているものがあるなと思った。

 

N:遺体の写真がそれしかないのは、おかしい。他にあるものは出してこない。そんなの説得力ない。どこかから担架に持ってきたのではないかと思った。

 

N:レントゲン写真は5月の始めにレントゲンの写真入手することで来た。それまで一年は警察か動燃かに行っていたがなかった。聖路加国際病院で持っているとは気づいてなかった。先生(医者)に電話したら、なぜもっと早く電話しなかったかと言われた。もしかしたら何かあるのかしらと思った。一週間以内に会った。そしたら、いろいろ話してくれた。「聖路加に運ばれた時は亡くなって十時間たっていた」と言われた。そうだとしたら、ホテルなんて泊まってない。記者会見のときが十時間前でしたから。

 

N:変だなあと思った。聖路加には動燃の人がいっぱいいて先生は近づけなかったと言う。

 

M:先生から西村さんにコンタクトしてくれても良かった。10時間の根拠は?

 

N:深部体温と遺体の写真。写真が一番わかりやすい。書類にも書いてあるが写真がわかりやすい。レントゲンも取った。レントゲン写真も渡したいと言われた。一週間以内に取りに来て欲しいと言われた。一週間以内に取りに行ったら、新聞などで言われた頭蓋骨骨折や胸がばらばらというのは違った。私が見た遺体は全然きれいだった。外で見たら頭蓋骨に骨折なし。法医学教室に行って見てもらいもした。レントゲン専門技師も呼んで説明してもらう。頭蓋骨は骨折していないと。慈恵医大の人だった。

 

N:深部体温は、例えば、直腸体温、聖路加の場合は頭の中央。ここは血液の粘土質があって、体型や性別年齢に関わらず、正確な数字が出てくる。生きている人は37度。なくなると体温下がっていって、主人の体温は27度でカルテに3箇所書いてある。10度下がっているので、10時間前になくなっている。一時間に一度下がる。

 

N:推定死亡時刻が合っていない。死体検案書では朝の5時になっている。ホテルにとまりに行ったのが0時45分と警察発表。すでにその時間にはなくなっている。そうするとホテルに泊まっていた事実が覆される。

 

N:記者会見が105分まで。その後、ホテルに行くちょっと前にはもうなくなっている計算。

 

N:外でなくなった場合と部屋でなくなった場合違う。外の気温は6度くらい。

13日の6時ごろ発見。気温が全部出ていた。一時間後との大手町で測っている気象庁で測っている気温を考えてやると、今度は・・・法医学の教科書があって、時間当たりの直腸温度があって、これを見ていくと、ここは10時間以内。ここは37度、ここが生きている人。27度になっている。10時間はたっている。テキストどおりに見れば27度であれば10時間たっている。細かい計算だが、これはちょうどいい。

 

N:ホテルの外でなくなっているなら、045には亡くなっている筈。ホテルに入る前だ。部屋の中であれば、20度くらいとして、もっと早い時間になくなっている。外で最悪の状態としても、ホテルに入る前になくなっているのだから、:ホテルに泊まったという事が、体温から見ると計算にあわない。

 

N:これがレントゲン写真の頭蓋骨。この横向きのレントゲン写真でおかしいところがあるのだが、この白くなっているところは、空気が入ったら、人間は呼吸できなくなる。脳幹の上のところに空気が入ると人間は呼吸できなくなり、死亡してしまう。

 

N:聖路加の先生によると、花の骨がやられてそっから空気が入ったんでしょうと。鼻から殴られて、鼻がへこんでそして脳幹のところに空気が入ってそれでやられたんでしょうと。先生は最初に見たのだから、わかっている。多分そうでしょうといった。

 

N:ここら辺に筋肉の筋が入っている。生きている人は筋肉の筋はうつらない。横隔膜、肺が破れると空気が流れていく。筋肉に筋が入るのには時間が掛かっているはず。筋肉に空気が入るのに時間掛かる。即死でなくて、亡くなるまでに時間掛かっているはずだと。即死だと空気が流れない。

 

N:アバラも鎖骨も折れてなくて、背筋もまっすぐ。上から落ちたらこんなものですまない。この辺の肋骨が折れているだけだった。その辺がおかしい。警察発表と全然違う。報道機関に持っていっても何食わぬ顔。警察が言っているからと。警察が訂正しないと訂正できないと。どこにいったら本当のことを訴えられるのだろう。

 

N:そのうち自分も体調も悪くなって、精神不安定になって。1年くらいはね。調べだしてレントゲンとか出てきたら、自分自身落ち着いてきた。動燃や警察はいくら聞いても絶対説明してくれなかった。飛び降り自殺と言われても、遺体がそうでなかったからどうしてもおかしいと思った。

 

N: 主人がなくなってから世の中も動燃も警察の動きもおかしかったので、なくなった前後から日記をつけ始め、全部で250ページ以上になった。なかなか刑事事件にならないので、なんとかして自分の経験や耐えてきたことを出せないかと思ったときに、新潮45で出したらどうかと言う話があり、経緯を出すことになった。裁判に関係ないことも日記に書いた。「私の夫は動燃に殺された」というタイトル。

 

N:どうなんだろうと思うかもしれないが、私は誰かに何人かで主人を殺したのではないかと思っている。遺体が飛び降り自殺でない。顔も形も体も全部そのまま残っていた。

 

M:動燃からは、その記事が出た後に修正(訂正)せよと言う要求はありましたか?

 

N:一切ないですよね。私の証人尋問のとき、向こう側が「あなたは夫が殺されたと思っていますか」と。私は「思っている。しかし警察が告訴を受理しないからどうにもならない」と答えた。国のがんじがらめのところでどうにもならないのかな。例えば警察絡んだ事件がなかなか解明できないのは怖い。殺されたのは私としてはうやむやしてはできない。

 

M:私だけでなくて、誰も本当にうやむやに出来ない話。科学的なことのほかに、あと遺書もありましたよね。

 

N:遺書って言っているが、私は遺書でないと思っている。例えば、遺書でおかしいと思ったのは、遺書をこういう社用便箋に書くか?自分の会社での肩書きをつけて書くか?また時間まで細かく書くか?3の数字がまったく別の人が書いているように見える。遺書でなくて始末書のように見える。

 

N:平成81116時に書いている中間とりまとめ。動燃がとりまとめとして科技庁に出した書類。ずっと読んで最後の5ページを見るとまとめの欄がある。そこの文言で、「事故から事件に代えた最大の要因」など、いろいろなところで、遺書と同じ文言が似ているのがいくつか出てくる。

 

「現場の本社役員一丸となって全社総力でこの中間まとめに盛られた方向に沿って実施しこの難局を切り抜けている決意です」というところで「一丸となって」というのがどこかにあった。3つか4つ同じような言葉が出てくる。

 

中間報告は誰が書いたかわからない。最終的には理事長が承認して提出。稟議書があって、最終的に理事長の決裁がある。動燃としてやっていくことが遺書にも書いてあるのは、それは主人が理事長だったら書くかもしれないが、次長だったら、上のほうでもなんでもない。自分が一丸となってと言うなんて、やりすぎじゃないのと私はやりすぎでないかと思う。

 

全社総力とか職員一丸となってとか、そっくりの文言があるが、他の書類にはそういうのはなかった。最近になって知った。主人は動燃の過ちを書かねばならなかったのか?なぜ遺書に書かねばならなかったのかわからない。これからやっていこうと思うと書いておきながら、死んでしまう。死んだからといって動燃のためにならない。なくなるとしたら、ちゃんと説明すると思う。死んで解決にならない。

 

もんじゅ自体が普通の原発と違って難しい。主人は事務畑で、技術畑でない。いくら頑張っても技術の難しい部分は理解できない人だ。

 

この遺書は納得できない。日付や時間がなければ、また動燃の便箋でなければ、まだよいが、こういう形では、あまりにも内容が信じられない。まるで主人が動燃を代表しているような遺書だ。

 

理事長はさらに、遺書を読み上げるとき、内容を変更して読んでいた。その場でこんなに変更できるか。毎日新聞で読んだとおりに全文出したが、オリジナルの遺書と違う。言葉も内容も少し。順番も後ろを先に言ったり。急に変更して読めるものか?別の書類を持って出たのでは。記者会見の場で。そうでないと急に変えられない。

 

理事長は今年613日に亡くなっている。何年か前に証人尋問に出てきた時に、「記者会見の場で遺書を別のものを読み上げるほどの能力があるのか」と聞いてみた。遺書を読むのなら、一字一句間違いなく読んで欲しい。

 

ここなんか面白いですよ。「我々動燃で働く人々は明日へのエネルギー確保のため自負を持ち、これまでもこれからも頑張っていこうとしています。」

 

主人は動燃の代表みたいなことを書く立場ではない。もっと上に人がいるのだから。部長、室長、役員だとか。次長がこんなこと書くか。私は動燃社員だからわかる。やりすぎ。自分が代表したような。理事長が書くのならわかるよ。これはどっかでマスコミで疲労して欲しいために書いた遺書としか思えない。誰が見てもおかしい。亡くなる人が動燃のいく末を考えて死ぬか?

 

私への遺書。340分まで生きていたのかしらと疑問。こんな一枚で、後のこと頼みますなんて。二人の子どもをねえ。冗談じゃないわよと思ったの。そして、動燃の仲間にお世話になって感謝しているなんて。書かされたのではないか。マスコミに対しての怒りの文言。マスコミが異常だったから、自分が怒りを感じて死んだといっている。

 

マスコミが騒いだから死ぬことになったといっている。マスコミに主人は出ていなかった。でもマスコミがどう騒いだからとか、言ってない。主人の記者会見は報道にもならなかった。テレビにも雑誌にも主人はまだ出ていない。実況中継したかもわからない。やっていないと思う。

 

3回記者会見やったが、多分報道になっていない。いきなりやったので。どこかは取っているかもしれないが。。

 

一回目の記者会見はTV朝日が取っている。2回目は理事長記者会見とっている。3回目は亡くなる直前。取っているところはどうだか。報道は縮小されるし。3階も取っているかもしれないが、一切出てきていない。

 

ところどころ、ザスクープなんかでは、一回目と2回目が少し出てくるが。主人が出てきたのは3回目のみ。主人は自殺するまで注目されたり上げ足も取られていたこともなかった。

 

N:主人が亡くなることによって、マスコミも引いちゃいますよね。過熱していたものが。

 

M:なくなる日の朝、新科技庁長官の中川氏のビデオをとってほしいだとか頼んだわけで、普通だったのですよね。

 

N:その頃、匿名を受けていて帰ってこないこと多かった。14日出勤してから、89時ごろと12日1時ころに帰ってきた。夜中の一時に帰ってきた。二日しか帰ってきてない。何が起きたかわからない。もんじゅに出張したり、動燃で徹夜したり。結局話す暇がなかった。

 

12日朝7時半に出社。夜8時から105分に記者会見、それから霊安室。いったい何がこの人に起きたのか?動燃でどんな仕事してたの?と。この紙見たときに、書かされたと思った。会社の紙に書くわけない。上司に提出する書類、別の会社にお願いする時に提出する事があっても普通は持たされない。メモ用紙代わりには使えない正式書類の紙だ。

 

大畑理事が第一発見者ということになっている。説明を聞いたときに、FAXがどこにあるのですかと聞いたら、青ざめてその場からいなくなってしまった。理事長秘書の田島さんへの遺書もあるのだが、飲み屋で遺書を渡されるのが頭にきた。そんなに安っぽい主人の命なのだろうかと。

 

田島さんが週刊誌で答えるのには、遺書の万年筆部分があるのだが、万年筆が見当たらない。また残余の紙もない。遺品の中にないと言うのはなぜ?違うところで書いたのではないか?

 

動燃から午前2時過ぎにホテルに送った5枚のFAXがない。

 

112日の105分までは記者会見。113日の0時45分にホテルにチェックイン。ファックスが2時過ぎ。だがチェックインの宿帳もFAXも出てこない。なぜいまだに一切出てこないのか。受信記録も出てこないし。当初から言っているのに、出してこない。

 

一緒に泊まった総務部担当の大畑理事もそのFAX持っていないという。

 

今回裁判でいろいろわかった。大石理事長となんのためにホテルに泊まったか。大石理事長、安藤理事と渡瀬室長が証人尋問に出た。3人ともホテルに泊まると知らなかったといった。ホテルに泊り、次の日に福井に出張することも知らなかった。聞いていなかったという。

 

3回目の記者会見は安藤理事と渡瀬室長と西村だった。しかし、この2人は西村が福井に行くことを知らなかった。一緒に泊まった大畑理事と田島さん、文書係長の富田さんだけが知っていた。

 

渡瀬室長は広報部長で自分の知らない記者会見はないといっていた。予約をしてないと福井県のほうも開けない。

 

普通は出張する時には下着やハンカチ、その他を持っていく。急に決まったとしても広報部長が知らないわけがない。

 

福井で記者会見があるとしても理事長が発表内容を承認しなければならないので、ありえない話だ。

 

次男の15日の成人式を楽しみにしていた。なにが失敗していたとしても、自分の子どもの成人式を祝ってやるのが親。

 

被害者の家族が裁判費を使って裁判やらねばいけないのかと思うと、日本の制度が情けない。主人の亡くなり方は国が関わっていると思う。それで私たちが、こんなことまでしなければならないかと思うと情けない。

 

解決するかどうか、主人が亡くなったとき何が起きたかを知っている人は動燃職員、科技庁の人も関与しているかもしれない。私のほうでは調べようがない部分ある。もんじゅなんて動かしていたら、このような事件ひとつ解決できないようなもんじゅはあぶなっかしい。

 

私が黙っていたら、もんじゅがそのまま再開するだろうが、すぐ事故が起こると思う。私は社会に役立つかわからないが、なんとかしてみんなにわかってもらいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西村さん インタビュー2

 

なくなった次の年平成9年5月1日に聖路加病院にもらいにいったんです。

 

ここは気管に挿入するために入れる器具が、こういうふうにうつっているんです。

 

遺体を見たときには、頭蓋骨骨折となっているのに、そうも見えないかった。担当の先生も頭蓋骨骨折していないといった。

 

こちらは側面からのもの。気管を開くために救急隊の人がいれたものです。骨折はしていない。どこがおかしいかというと、息をしている人は、ここは(頭蓋骨中心部)は真っ白にうつらない。亡くなって?ここが白くなると息が出来なくなる。西村さんはここが白くなっているから、ここに空気が入ってなくなったのでしょうと。あと、首も異常はないと。警察発表とは違って。

 

こちらは胸のほう。胸郭。生きている人だったらうつらないものが移っている。ここに線が入っている。両方とも筋がすーと入っている。これは筋肉の筋。筋肉は生きている人はこのように残らない。亡くなるのに時間が掛かった時に入る。即死では入らない。亡くなるのに時間が入った。肺か横隔膜に穴が開いていた。

 

一時間以上掛からなければこのような筋は入らない。エアは入らない。

 

打撲を受けて時間掛かってなくなるとこういう映像が残る。放医学関係の人は、これをみただけで飛び降りではないとわかる。胸の骨も鎖骨も残っている。背骨も残っている。8階から落ちるとまず鎖骨がおれ、首から背骨も異常がないのはおかしい。

 

鎖骨は誰でも折れる。ちょっとしたので折れることもある。見ただけで普通の専門家はわかると医者に言われた。聖路加にも法医学の教室にも持っていて、見てもらった。慈恵医大の先生は、法医学の人とレントゲン専門の人2人。刑事事件になると、どっかの大学の法医学の人が鑑定することになる。その時に呼べなくなると困るので名前はふせたい。慈恵医大で法医学というとその先生しかいない。

 

上野正彦さん、「死体は語る」の人だが、一番有名。彼にも見てもらった。裁判になると上野先生が出てくる可能性ある。もうひとり、東京医科歯科大学の支倉先生。はせくら。今はしゃべれないそうだ。(なぜだかわからないが。なくなられたか、御病気?)平成十年くらいにすぐ聞きに行った。

 

 

 

主人が亡くなってからしばらく遺品も見れなかった。主人は何をしていたのだろうと、一周忌過ぎてから、やっと主人の遺品を見た。ダンボールをあけてみたら、いろいろ出てきた。動燃ってなにをしていたのだろうかと。

 

ひとつの箱から動燃が会社ぐるみで選挙応援していたのがわかった。しかも代々続いていたもの。後輩に譲るものと譲らないてよいものが。平成5年くらいの衆議院選挙の対応。こんなこと、動燃がやっていいのか。取りに来ないのも変。私が渡すべきもの?なぜ取りに来ない?

 

5年では東海事業所の管理部長だった。その時の選挙に対する、組織ぐるみでバックアップしているのがわかってびっくりした。梶山セイロクと塚原俊平の票を割り振って応援していた。ここに残っていたのは応援の仕方いろいろ書いてあった。動燃内で二派に別れ、出陣式や食事会など。

 

応援して欲しいとどこに来て欲しい場所。東海事業所と大洗事業所のバックアップ。それと講演会。二派に分かれていた。特殊法人なので、普通はこういうことはやってはいけない。私的な会社なら出来るが、公共的機関では禁止されている。

 

仕事そっちのけでやっているのがわかった。計画表とか、動燃の役員の体制。梶山と塚原を応援する名簿も。会長、会長代理、担当役、事務局。自民党を通すのに一生懸命。書類の中から受け止められていた。

 

梶原セイロクは、後に、主人が亡くなったちょうどその日に官房長官になった。橋本が首相。どんなに不祥事が起きても、梶山が力を尽くした。例えば事故が起きても表に出てこないように、国民にわからないようにということが結構あった。例えば、東海事業所で事故が起きたのにふせられた。うやむやに書いてあるけれど、かじやまのおかげで表に出なかった。これより前の話だ。どっかにでてくるはずだ。95年の事故の前に。

 

塚原は通産大臣なので、そういう意味で力はある。なによりも原子力と直結している大臣だ。私も、ここまで名簿が割り振っているのかと。。。

 

塚原会と梶山会とあって、山之内所長、戸田副所長、大畑部長(一緒に居た人)、高木部長代理、田島課長(理事長秘書の田島)。Kが梶山、Tが塚原。こっちが梶山会、こっちが塚原会。割り振ってあるのがよくわかる。完全に割り振ってある。偏らないように。二人とも当選するように。何ページもある。

 

これ見てびっくりした。普通だったら動燃がとりに来ると思った。貴重だからね。なぜこんなのが残っているのかとびっくりした。

 

会社に置けないからと家に持って帰った。東海事業所から死ぬ3ヶ月前、平成7年9月末に東海事業所の管理部長から本社の総務部次長に10月一日に。その時の荷物だ。開けないでそのままにしていた。

 

どうも東海2区と言うのは、茨城2区、取り扱い注意と書いてある、定員3名のところ5名の立候補予定者も書いてある。前回の平成2年2月12日の得票数も書いてある。梶山は小渕派。34.07% 塚原は三塚派、73057表、22.52%、社会党が大きい。梶山より大きい。大畠。労働者も多いから。日立製作所とか。

 

動燃が選挙対策本部まであるのだから。

 

東海村だったら、動燃と原研が主な。。。若い人がいっぱい居る。東海村には大きな会社はなくって。そこの票を取ったら当選する。社宅もあるし。そこを掌握すれば当選する。常陸太田のほうまで入っているかも。地元かも。

 

必勝出陣式とかあって重要な事書いてある。出陣式はどこでやっていたのでしょう。

 

ここら辺を見ると、役員会議室で何かやっている。石川一夫会長(動燃俊青会)平成6年6月25日より計画している。所対応は中田副所長と西村管理部長。持参品が酒券10本分。一升瓶だか、なんだか。。。よくわからない。ピーナツと言うのもある。50名動員なんて。大変なことだ。

 

動燃俊青会は塚原。これも動燃で別の方が応援することに。笹尾副所長、萩原部長代理。こちらも酒券10本。ばっちり計画を立ててこの通りやるという感じになっている。

 

これはかなりきつい内容。東海事業書総務課、衆議院選挙への取り組み。予想される候補者。総務課は西村さんがいらっしゃった部署。管理部の下に総務課がある。管理部長だから、主人はその下に総務があるから、その中でこういうのが主な仕事だったのかとも。有権者数50万。支援組織、管理職層、梶塚に分割とあって。梶山会と俊生会と。大畠は組合が応援している。社会党が応援している。

 

社会党は応援していないのですよね?-管理職は応援していない。

 

大畠章宏さん(社会党)は推進?-わからない。でも社会党は反対でないはず。。。

 

大畠さんが一番取っている。意外な事実が。37%

 

大畠さんが一人くらい通っても良いという感じかな。後で大畠さんは調べてみます。

 

西村さんがなくなったときのポジションは、本社総務部の次長だから、この辺にいた。文書化はその前。東海事業所に行く前の前。若い時に文書課に。

 

東海事業所が一番多く、この中に管理部があって、その中に総務課、労務課、労働課、経理課があった。本社に移動する前。なくなる三ヶ月前くらいまで。

 

本社に移動したら、先ほどの上のほうまでいったわけ。総務部の次長。次長と言うのはある意味で昼間。責任負わされて厳しい。権限があるようでない。部長並みには。部長は長尾さん。今回の事件には出てきてないが、死んですぐにうちに駆けつけて葬儀の采配をし、その後も遺族担当になって中心に動いていた。

 

見張られていた?-争議の時になんで部長が来るのか、考えられなかった。葬儀の全体的名運営を長尾さんがやった。

 

親戚やお知り合いが追い払われていたとか、インターフォンが壊れていたとか

長尾さんがまず来て、小さい葬儀屋が頼んであって、前金も払っていたのに、棚も花もセッティングしてあって、時間も決まり、帰ろうとしていたとき、長尾さんが入ってきて、びっくりした。

 

駐車場、ハイヤーが6台が入るところがないといけないと。駅のすぐ近くだから駐車場はないと。うちとしては60名でよいと思ったので、いいと思った。6台はよほど大きくないと。それで大きなところを紹介すると、電話を掛けた。たまたま空いていた。それで大きな葬儀屋さんが来て話をしていた。

 

だいたい骨壷とか衣装とか決まっていたのに、またやりなおしかと。

 

長尾さんが弔辞は4名にして欲しいと。葬儀の人が火葬場に間に合わないと、長々と議論。結局4名はオッケーになった。ひとり5分のはずが実際のところは弔辞で大変な時間を締めていた。

 

通夜でもはいりきれないほど人がきた。変に思ったのは、主人の兄が、12月27日になくなった。普通の葬儀だった。それが普通だと思っていた。60名か100名以内。主人の葬儀は、波のように人が押し寄せた。

 

線香も多く、煙で誰が来ているのか見えないくらい。子どもが同級生のお父さんとお母さんも来ているといっても、わからなかった。

 

動燃、動燃に出入りしている大きな企業だとか、弔問の記帳を見てあとでわかった。なんで取締役とかたくさんきているのだろうかと。名前だけ書いてある。原子力産業では有名な人も。(肩書き書かなくてもわかるような)

 

主人はそんなひとにきてもらう筋合いはないのに。政治的なものを感じた。記帳も弔電も残っている。外側の紙をとってもダンボール二箱。250通もある。中の紙だけをとってある。全国から来ている。

会計検査院、阿部事務局長とかおかしくない?

 

常盤会堂ですか?うちのおばあちゃんと同じです。

 

電報重たくて動かすの大変だった。

 

新聞の縮刷版を取っておくようになった。裁判をするようになってから。

 

裁判でどういうことやるのかしらと。法律用語がわからないといけないといけないと思って犯罪被害者の会に入り、裁判をいろいろ見に行った。傍聴に何回も行き、だんだんと言葉がわかるようになってきた。弁護士もとろとろしゃべっている人と何をしゃべっているかわからないひといた。でもうやむやにできないからやらなければと

 

主人は1月13日の朝、夜中だが、政治的なものがからんでいるのではないかと。梶山会とか俊青会とか。切り離して考えられないと思った。当時の新聞を見ると平成8年1月11日、蔵相窪、官房梶山決まった。橋本内閣1月12日。主人の記者会見は1月12日夜。政権交代のときに主人がなくなった。

 

偶然ではなくて必然的に主人がなくなる事が決められていたのでは。橋本内閣が代わると言うのは突然決まったことではない。もともとこのひとたちが1月11日の前は、もんじゅが事故おきて一ヵ月後くらい。橋本の前は村山だった。自民党が奪還するわけ。その時、梶山が官房長官になって、首相の次になって出てくる。選挙の時に動燃がバックアップした。

 

橋本内閣は金権政治。お金がないとのし上がれない。その時期に、1月12日の夜に記者会見、安藤理事(安全担当理事)広報室長、うちの主人がもんじゅの事故ビデオの内部調査の発表をした。橋本内閣の発足と本当に重なるように主人がなくなった。私は偶然でないと思う。

 

具体的には、選挙で動燃が応援している。科技庁長官は中川秀直、その前は浦野さん。新聞に出てくる。警視庁出身である。福井新聞で、福井県知事が浦野長官に詰め寄っている記事。県だけでなく全国も反対。12月24日ごろのデモもすごかった。一般市民が動燃に押しかけた。原子力政策としてはどうにもならない。同年はもんじゅやめてしまえというときに、浦野氏は責任を取らずに中川に代わる。

 

人が亡くなったことで、事故をあいまいにするきっかけに。もんじゅのことが記事からなくなり、新たな生地は新たな内閣のことばかりになった。発足した大臣関係に切り替わっていった。払拭するきっかけになった。マスコミが責めてからなくなったのではなく、マスコミを回避するきっかけをつくった。

 

主人が亡くなったとき、梶山が告別式に来ている。普通は来ない。国政のほうが大事だ。官房長官、田中真紀子、浦野さんの前の人が主賓で来ている。考えられない。それでハイヤー6台かと。SPもついてくるだろうし。

 

 

 

 

 

チェルノブイリ地震説についての考察


チェルノブイリ地震原因説について取材メモ

 

黒は竹野内も論文を読み、科学アカデミー論文に書いてあったとして確認してOK, 赤は生越忠先生書いたもので、どうやら別の文献も調べたのか、科学アカデミーの論文には書いてないもの、青は竹野内が論文を読んで追加。

 

1986426日 (以下の時系列の参考文献は何でしょうか?生越先生の緑の冊子における2ページ目の記述と10ページ目の記述に、数秒の誤差があるのはなぜでしょうか?以下は10ページ目の記述によるものが中心)

 

012335秒:地震発生

012338秒:運転士、冷却池取水口あたりが振動し始めるのに気づく。

012339秒:地鳴りのような音に続いて事故原発の原子炉施設全体が強く振動

012340秒:原子炉管理責任者、制御棒挿入のため、AZ-5のボタンを押す。その2,3秒後、制御棒が最下部まで届かず、途中で止まってしまったのが確認される。

012342秒:原子炉管理責任者が強い振動に気づき、原子炉運転緊急停止ボタン(AZ-5)を押すことを運転員に命令。(同じ生越氏の論文2ページの記述では制御棒ボタンを押したのは、40秒となっている。)それによって制御棒が降下し始めた。

012345秒:振動さらに強くなり、制御棒が最下部まで届かないうちに止まってしまった。

012349秒から59秒:チェルノブイリ爆発、つまり少なくとも爆発の10秒前までに地震が起きた可能性。可能性の高いのは16秒前。

012348秒:炉心の圧力が急上昇し始めたが、この時点では、原子炉の爆発はまだ起こっていなかった。

012355秒:振動がいっそう強くなり、その衝撃によって柱が俺、タイルが落下し、機械室の内部で光がきらめき、窓ガラスが割れたりするなどの自体に立ち至ったため、発電所はコントロールを失うと同時に止まってしまった。

012358秒:原子炉が強い揺れに見舞われ、ついに爆発を引き起こした。

0139分:2度目の大爆発(ただし、この爆発の時神経の記録はない)

014055秒:上記の爆発に続き、2度目の爆発があった。(2ページ目の記述では、この爆発は39分頃となっている。

 

分析の結果、爆発の前に地震が起きていた事がわかる。というのも、地震の波形と爆発の波形は異なること、また、1995年と1996年に計測したチェルノブイリ原発のサイトにおける地震による波形が似ているからである。ちなみにウクライナとベラルーシの地震計は、チェルノブイリ事故前の微小地震を感知するほどの精度はないもので、記録には残っていない。

 

1986427日 ソ連政府、「チェルノブイリ原発事故処理委員会」を設置

1986430日 ソ連政府、「ソ連原子力発電所事故調査特別委員会」を設置

19867月   ソ連KGB、国内主要機関に対し、「事故の新の原因を明らかにする情報は絶対に公表してはならない」という秘密司令を出す。(これの情報源は?)

1986825日 ソ連政府、原子炉低出力試験中に運転員が違反操作を行なった事を原因とする、チェルノブイリ原発事故についての報告書をIAEA専門家会議に提出。

 

198699日 日本の原子力安全委員会が、上記の報告書に基づいた「ソ連原子力発電所事故調査報告書(第一次)」を取りまとめる。

 

1987729日 チェルノブイリ原発元運転員らに有罪判決

1988427日 「チェルノブイリ原発事故処理委員会」の責任者であり、クルチャトフ原子力研究所副所長であった核物理学者レガソフ氏が自殺

1988127日 ソ連南部のアルメニア共和国でM=6.8、死者24817人のスピタク地震発生。

198812月 ソ連のルコーニン原子力発電相、地震の被害は受けなかったものの、スピタク地震の活断層南端から12-13kmのアルメニア原発の稼動中止を決定。また、地震危険地帯(アルメニア、グルジア、アゼルバイジャン、ミンスク付近、オデッサ付近、グラスノダール付近)で建設中ないし計画中の6つの原発の建設を中止すると発表。

1990年 事故の直前に地震示す記録が明らかに(何がきっかけ?)

19911月 ソ連原子力産業安全関し国家委員会の特別調査委員会がソ連邦最高会議のチェルノブイリ原発事故調査委員会の司令を受け、「ソ連原子力発電所事故調査報告書(第二次)」を取りまとめる。原因は第一次とは異なり、原子炉設計の欠陥及び責任当局の怠慢によるもの。(日本の原子力安全委員会は、第二次報告書に基づいた報告書は現在までまとめていない)

1995年 チェルノブイリ地点での地震が事故の原因という論文を書こうとし(証拠は?)、結局発表を断念したた地球物理学者、M.チャタエフ氏、消息不明に。

1995年        モスクワのロシア科学アカデミー、キエフのウクライナ国立科学アカデミー地球物理学研究所、および同アカデミー地球物理学研究所の合同調査班により、チェルノブイリ事故原因説の調査を行い、直前の地震が誘発したと結論。

199565日 上記ニュース、タス通信で配信

199566日 上記ニュース、 毎日新聞記事に。

1996年        同調査班による報告書、上記3研究所、専門家10名の共著として公表。

1997年        ミルトンメディア及びデンマーク国営第2放送局が「隠された要因-ショッキングな真の要因の新しい証拠(The Secret Factors-Sensational New Evidence of the Real Cause)」と題するドキュメンタリ番組を放送。(デンマークでの反応は?)

1997815日 NHK教育テレビで上記の番組に基づいた日本語版の番組を放送。(小出五郎さん{2003年、全くの別件で竹野内は一緒に仕事した事があります。今でも連絡取れます。}も、地震説を否定することは出来ないと言っていた。)

 

 

 

チェルノブイリ原発立地点における諸問題の考察(生越氏が書いたもの)

 

1. プリピャチ川の河岸に位置し、地下水位が高く、湿潤状態。

2. プリピャチ断層という大きな断層(何Km?)にほぼ沿って流れている。(世界の原発全ては、川や海のほとりに立っているのであり、地形的要素や湿潤状態など、同じような地理的要素があるのではないのだろうか?だとしたら、チェルノブイリの他の号機で同様の事故が起きなかったのは、何の疑問も持たないが、今まで世界4百数十基中の他の原発で目立った事故が起きていないのは、全くの幸運ということなのか?)

3. 立地点はプリピャチ断層及びテテロフ断層という2つの活断層の接合点付近に位置しており、現在でも微小地震が発生している。

4. 立地点付近は、活断層の州という言うべき地域になっており、上記の二つの活断層のほかにも、多くの活断層がいろいろな方向に密集して走っている。

5. デンマーク国営放送の番組によると4号機の敷地に合った断層が地震時に変位して起こったものという考え方を明らかにしている。

6. 4期の全期間を通じて垂直変位が40m以上に及んだ場所も知られている。

7. 新第3期から第四期にかけて活動した断層の多くは、断層面がまだ十分に癒着していないので、断層面に沿って香水、融雪水や空気が置く不覚まで浸透し、風化がかなり進行している。

 

 

    当時のソ連当局は、事故発生直前に地震があったことは記録にも正しくとどめられている動かしがたい事実であるにもかかわらず、この事実を頭から否定し、チェルノブイリ地点一帯は地質学的に安定した場所なので、地震が起こるはずはないと主張した。

    一部の専門家は(誰?)事故原発で事故が発生する直前にその付近に地震があったことを否定し、その理由を発電所内で作業に従事していた技術員が地震の発生自国を誤って記録したことによるものとして説明した。しかし、当時発電所ないにはクォーツ時計が備え付けられていて、事故発生の約一時間半ほど前の4252400分に正確に時刻を合わせたばかりだったのであるから、誤って記録したということは考えられない。

    ソ連政府は1985年、事故原発の立地点の西方約100kmないし、180Kmの距離におけるウクライナ楯状地の3箇所に地震観測所を設置し、核実験のモニターのために地震観測を開始した。ここで観測された地震の記録は一斉非公開になっており、事故の原因調査に関わる科学者たちに公開されたのは、事故発生後、9年を経過した1995年のことであった。

 

?追加の質問-以下のチェルノブイリ地震説の否定説をどう思いますか?

 

チェルノブイリ原発立地点について(ロシア科学アカデミー英文の論文を読み、竹野内が追加)

 

MAGATE(ロシア政府からIAEAに提出されたチェルノブイリ原発事故に関する報告書)の勧告としても、付近の地震活動の情報を設計時にきちんとされるべきであったとされている。しかし、付近の地震活動のみを注視していたため、施設の設計とかみ合わせた調査は、十分になされなかったと言う。

 

チェルノブイリ付近でやっと本格的調査がされ始めたのは、1991年になってからであり、この新たな調査の結果として、チェルノブイリ原発が地域にある二つの断層(南プリピャチ断層とテテレフ断層)が交差する上に立っている事が発見された。

 

宇宙からのテクトニクスマップと地域の地震形態より、Neogene-Quaternary期に活動していた断層であることがわかった。特に微小地震が数多く見られる地域は(チェルノブイリ事故当日の地震波とは言っていない)、チェルノブイリから10から15km離れた地域である。(竹野内注:反対論者、カルパン氏は(わざと)混同しているのか!?)

 

この地域での近くに溜まったひずみは、深いテテレフ断層によるものだが、この一帯の岩石圏においていたるところに活断層が存在する。

 

  TV番組用の構成案
 



 

内容

材料および論点


チェルノブイリ事故当時

当時の映像

被害の実態


デンマーク国営放送による「地震説」

ミルトンメディア及びデンマーク国営第2放送局が「隠された要因-ショッキングな真の要因の新しい証拠(The Secret Factors-Sensational New Evidence of the Real Cause)」と題するドキュメンタリ番組を放送


小出五郎氏による教育テレビでの上記放送

小出五郎氏の意見(中立的立場)-地震説が真実かどうかの確証は未だにないが、同時に地震説が真実でないとする否定要因もない。


生越氏による検証

生越氏の意見-地震説は真実だと考える。

1.(地図とCG)立地点はプリピャチ断層及びテテロフ断層という2つの活断層の接合点付近に位置しており、現在でも微小地震が発生していると同時に、立地点付近は、このほかにも、多くの活断層が様々な方向に密集して走っている。

2.(地震計と核実験の映像)ソ連政府は1985年、ウクライナ楯状地の3箇所に地震観測所を設置し、核実験のモニターのために地震観測を開始した。ここで観測された地震の記録は一斉非公開になっており、公開されたのは、事故発生後、9年を経過した1995年のことであった。ただし、事故当時のソ連当局は、事故発生直前に地震があったことは記録にも正しくとどめられている動かしがたい事実であるにもかかわらず、この事実を頭から否定し、チェルノブイリ地点一帯は地質学的に安定した場所なので、地震が起こるはずはないと主張した。

3.(イメージ映像)当時のソ連KGBは国内主要機関に対し、「事故の真の原因を明らかにする情報は絶対に公表してはならない」という秘密司令を出していた。

4.(写真と記事)1988年、「チェルノブイリ原発事故処理委員会」の責任者であり、クルチャトフ原子力研究所副所長であった核物理学者レガソフ氏が自殺

5.(映像と記事)88年、ソ連南部のアルメニア共和国にてM6.8の地震発生、死者2万人超。この年、ソ連政府、地震危険地帯(アルメニア、グルジア、アゼルバイジャン、ミンスク付近、オデッサ付近、グラスノダール付近)で建設中ないし計画中の6つの原発の建設を中止すると発表。

6.(写真と記事)チェルノブイリ地点での地震が事故の原因という論文を書こうとし(証拠は?)、結局発表を断念した地球物理学者、M.チャタエフ氏、消息不明に

7.(当時の映像)95年、モスクワのロシア科学アカデミー、キエフのウクライナ国立科学アカデミー地球物理学研究所、および同アカデミー地球物理学研究所の合同調査班により、チェルノブイリ事故原因説の調査を行い、直前の地震が誘発したと結論

8.(クォーツ時計映像)一部の専門家は事故原発で事故が発生する直前にその付近に地震があったことを否定し、その理由を発電所内で作業に従事していた技術員が地震の発生時刻を誤って記録したことによるものとして説明した。しかし、当時発電所ないにはクォーツ時計が備え付けられていて、事故発生の約一時間半ほど前の4252400分に正確に時刻を合わせたばかりだったのであるから、誤って記録したということは考えられない

 

 
内容
材料および論点
チェルノブイリ事故当時
当時の映像
被害の実態
デンマーク国営放送による「地震説」
ミルトンメディア及びデンマーク国営第2放送局が「隠された要因-ショッキングな真の要因の新しい証拠(The Secret Factors-Sensational New Evidence of the Real Cause)」と題するドキュメンタリ番組を放送
小出五郎氏による教育テレビでの上記放送
小出五郎氏の意見(中立的立場)-地震説が真実かどうかの確証は未だにないが、同時に地震説が真実でないとする否定要因もない。
生越氏による検証
生越氏の意見-地震説は真実だと考える。
1.(地図とCG)立地点はプリピャチ断層及びテテロフ断層という2つの活断層の接合点付近に位置しており、現在でも微小地震が発生していると同時に、立地点付近は、このほかにも、多くの活断層が様々な方向に密集して走っている。
2.(地震計と核実験の映像)ソ連政府は1985年、ウクライナ楯状地の3箇所に地震観測所を設置し、核実験のモニターのために地震観測を開始した。ここで観測された地震の記録は一斉非公開になっており、公開されたのは、事故発生後、9年を経過した1995年のことであった。ただし、事故当時のソ連当局は、事故発生直前に地震があったことは記録にも正しくとどめられている動かしがたい事実であるにもかかわらず、この事実を頭から否定し、チェルノブイリ地点一帯は地質学的に安定した場所なので、地震が起こるはずはないと主張した。
3.(イメージ映像)当時のソ連KGBは国内主要機関に対し、「事故の真の原因を明らかにする情報は絶対に公表してはならない」という秘密司令を出していた。
4.(写真と記事)1988年、「チェルノブイリ原発事故処理委員会」の責任者であり、クルチャトフ原子力研究所副所長であった核物理学者レガソフ氏が自殺
5.(映像と記事)88年、ソ連南部のアルメニア共和国にてM6.8の地震発生、死者2万人超。この年、ソ連政府、地震危険地帯(アルメニア、グルジア、アゼルバイジャン、ミンスク付近、オデッサ付近、グラスノダール付近)で建設中ないし計画中の6つの原発の建設を中止すると発表。
6.(写真と記事)チェルノブイリ地点での地震が事故の原因という論文を書こうとし(証拠は?)、結局発表を断念した地球物理学者、M.チャタエフ氏、消息不明に
7.(当時の映像)95年、モスクワのロシア科学アカデミー、キエフのウクライナ国立科学アカデミー地球物理学研究所、および同アカデミー地球物理学研究所の合同調査班により、チェルノブイリ事故原因説の調査を行い、直前の地震が誘発したと結論
8.(クォーツ時計映像)一部の専門家は事故原発で事故が発生する直前にその付近に地震があったことを否定し、その理由を発電所内で作業に従事していた技術員が地震の発生時刻を誤って記録したことによるものとして説明した。しかし、当時発電所ないにはクォーツ時計が備え付けられていて、事故発生の約一時間半ほど前の4252400分に正確に時刻を合わせたばかりだったのであるから、誤って記録したということは考えられない
 

 

チェルノブイリ地震説を否定する人の見解

(竹野内注:こちら、専門の生越先生にも後で見ていただき、意見してもらう予定です。いずれにせよ、先生は、「反原発の人たちも地震説に対し、根拠もなく否定している態度が非常におかしい!」とおっしゃっています。私も今回地震説の反論をちょっとだけ読んでみてどうもおかしいような気がしています。)

ニコライ・カルパン(KARPAN Nikolay Vasilievich:専門は原子炉物理。旧ソ連の核秘密都市であったクラスノヤルスクやトムスクで働いたあと、1979 年からチェルノブイリ原発に勤務。チェルノブイリ事故が起きたときは、原発の副技師長であったが、発生現場には居合わせなかった。旧ソ連最高会議の指示により、1991 年に事故原因の見直しを行ったシュテインブルグ委員会のメンバー。現在は、ウクライナ原子力規制委員会の嘱託。キエフ在住。(竹野内注:つまりこの方は、立場としては過去も今も原子力推進者

 

チェルノブイリ事故の原因が地震であったと私が最初に目にしたのは、「技術青年」誌の1996 12 月号に掲載されたヴィターリ・プラヴディフツェフの「チェルノブイリ:10 年後」という論文だったが、80歳を超えている彼は事故の開始時刻を15分以上間違えていた。(竹野内注:こちらの論文は割愛します。元の論文を生越先生も読んでいないので。しかし、著者は80歳だから、間違ったことを書いているのではと揶揄しているあたりは、大変ロジカルでなく、また品位のない反論だと私は思う。いずれにせよ、この論文はまだ読んでおりません。次の論文が生越先生の検証済みです

 

1997年ロシア科学アカデミーの地球物理合同研究所、ウクライナ科学アカデミーの地質物理研究所と地質研究所の研究者グループが再びこの問題を取り上げたが、軽率な部分あり。たとえば、論文では、地震が発生した時刻は1時23 39±1秒とされている(秒単位の確かさで!)。この場合、震源距離の不確かさは±10kmとされているが、これを地震到達に関する誤差にすると±3.4 秒に相当する(10kmを地震波の表面速度V=2.9km/秒で割った値)。その他、論文には、地震計の設置されていた場所において、地震波が記録された時刻が示されていなかった。つまり、著者が示している結論の検証が困難であった。何年か後(2000 年)、同じ著者たちがチェルノブイリ事故を再び取り上げている[3]

「弱い地震(MRU=2.6MS=1.4)がチェルノブイリ原発地域にある3カ所の地震観測所で記録された...地震波の予備的な解析によると地震動は自然によるものである」。著者によると、震源までの距離の誤差は、±10km[2]±15km[3]とされている。この誤差は、事象発生時刻にも少なくとも(1±5.3)秒の誤差がともなうことを示しているが、そのことは以前と同じく著者の注意を惹かなかった。(竹野内注:科学アカデミーの著者らは、地震発生時刻はチェルノブイリ地点での発生の4秒前の35秒としているので、この人が勘違いしている気がする。きちんとオリジナルの科学アカデミーの論文は読んだのだろうか?地震は専門外の人(原子炉物理で地震は門外)のはずだが、このような人が科学アカデミーの地球物理学専門のエリート数人で書いた論文に果たして反駁できる力があるのだろうか???おおいに疑問である)

 

、振動と唸り音が6~8秒間あったという証言がある。しかし、それが確かに1時2339 秒にはじまったという記録はない(論文では何も確認されていない)。「唸り音と振動の出現」を“分”の確かさで記憶した人は発電所にはいなかったであろう。なぜなら、それに引き続く爆発は人々を別の問題にまき込んだからだ(証言では1時15 分から1時25 分の間、運転日誌では1時24-25 分である(竹野内注:この部分を読むとカルパンご本人こそ、矛盾したことを言っている。というのも、カルパンの結論は、「爆発における様々な事象と比べると、時系列的に地震が後だ」という主張であり、この主張はまさにあのパニックで頼りにならない運転員の記憶に基づいているからだ。)

 

この地域で震度7の地震はありえない。(竹野内注:ところでこの震度は日本の震度とは違う単位。いずれにせよ、ロシア科学アカデミーは震度2だったといっているのだが、カルパンさんの勘違い。。。?

 

チェルノブイリ原発は設計地震で震度5、最大想定地震で震度6まで耐えられるように出来ていた。(竹野内注:推進側の設計上大丈夫だ安全だという理論を事故後にさえ主張するのは非常におかしい。上記は机上の設計における限られた話で、起きてしまった事故の理由・説明にはならないはず。想定外で起きるのが事故であり、また様々なファクター(共振現象、機器の劣化、中性子脆化、各機器の固有振動の差異、また直下の地質・地盤の問題)に全く触れずにこのような結論を出すのはおかしい。

 

チェルノブイリ原発と震源との位置関係を考えると、原発に地震が到達したのはちょうど1 23 45 秒となる。そうすると、先に述べたように、(1 23 43 秒に)原子炉での破壊的な事故プロセスがはじまった直後に地震がやってきたことになる。つまりは、1986 4 26 日に地震観測ステーションで記録された事象は、チェルノブイリ原発4号炉事故にともなう局所的で強力な震動(衝撃や爆発)であったことを示している。(竹野内注:ロシアアカデミーの著者らは、地震発生の時刻を12335秒、そしてチェルノブイリ原発への到達時刻を12339秒としているので、これも論外の議論である。だいたいカルパン氏は、結論の中でなぜか震源が原発から10から15km離れたことにしているが、科学アカデミーの専門家は東にわずか1kmとしている。いずれにせよ、到達時間推定の元となる震源地を特定するのは地震の専門家でさえ難しいはずだ。にもかかわらず、原子炉物理が専門のカルパン氏の、「推定震源地との距離の計算により、地震が事故の直後に来ているので地震説間違いの根拠である」と強弁する態度は、非常におかしいのではないか?