流氷
帽子岩と流氷
網走市街と流氷
吉村昭「破獄」
中山正夫の「北海の虎」が 収録されている著作
高橋揆一郎と戸川幸夫
三浦綾子の「続氷点」
流氷
流氷
流氷
流氷
「北の話」
船山馨文学碑 (生田原町文学碑公園)
流氷
流氷で埋まった能取岬
村松友視「流氷まで」
「青年よ。大志をいだこう」 が掲載されている雑誌
三木澄子の「晩祷」
流氷
椎名誠の「日本細末端真実紀行」
流氷
流氷
流氷
流氷
能登裕峰の「句集花ぐもり」
高辻郷子の「農の一樹」
オホーツク文学紹介の本
|
10.流氷の海に魅了される作家たち
オホーツク海独特の特異な風景である流氷の海は、作家にとっても魅力のある自然であり、小説、紀行文、エッセイに流氷が描写されている。たくさんの作家が網走を訪れているに違いないが、私たちの目に触れている作品の中から、網走に関わる流氷描写を取り出してみよう。
『雪の夜語り』長田幹彦(大正3 )
文学作品の中で、最初に流氷を描写した作家は長田幹彦である。大正三年(一九一四)四月中旬に網走へやって来た長田は初めて流氷を目にした。この体験を元にした「網走港」が「雪の夜語り」の中の一編である。
主人公は宿について夕食の後、宿屋のどてらを二枚かさね着し、その上に外套とらくだの襟巻で身を包み、町を見物に出て流氷の海を目にする。
|
『茫漠とした砂原は何処を見ても燈火ひとつ見えない。そして渚から沖にかけてさながら柩衣を敷きつめたように流氷が海の面を閉ざして、あるものは高く、あるものは低く、その間に岩層の断面のようなすさまじい起伏を見せながらほの白く闇に浮き上がってみえる。――私は少時の間あっけにとられてその壮大な光景に見惚れていた。――一片の氷も遂に百万の人の力を超越している。十数尺乃至数十尺の厚さを持った氷原が何十里ともなく繋って極地の方から吹き流されてくるそのすさまじい光景、それを想像しただけでも私は戦慄せずにはいられなかった』 |
大正三年の四月中旬、遠ざかっていた沖合の流氷が再来し、長田幹彦が目にしたような光景が展開された。大型木材積取船「弥彦丸」が流氷の海に閉じこめられ、時折鳴らす汽笛が町にひびいていた。氷原を柩衣と表現した作者の寂寥感が伝わってくる。長田幹彦には「青春時代」(昭和27)という短編集があり、その一編の「奈良の尼寺」にも「網走港」で書いている流氷のことが次のように出ている。
|
『そこ(宿屋)は網走川の河口にあって、二階からの広い砂浜が荒涼と見えている。いわゆるやませ風の季節なので、千島の東方から流氷がぐんぐん流れよって、その寒さといったらない。僕はその時生れてはじめて。絵空ごとでない北海の暗澹たる風景を見て、ゾッとみぶるいした。流氷といっても厚さ二尺ぐらいあって、一夜のうちにかさなりあって陸地へ目茶苦茶ににのしあげてくる。その色はまるで青玉のように真青で、上には寝雪が白く積もっている。それが網走湾内へ見渡すかぎり押し寄せてくるのであるから、全く凄愴そのものである』 |
『嵐のなか』島木健作(昭和14)
札幌に生まれ、代表作「生活の探究」で知られる島木健作の「嵐のなか」では、網走にやってきた主人公蔭山雄吉が、古い旅館に入って休んだ後、宿を出る。昭和十四年(一九三九)春のことである。
|
『網走川の上にかかった橋の上に立ってしばらく海の方を眺めてゐた。海はオホーツク海である。流氷は今日も岸に非常に近く流れよってゐる。水と天の連るところにも、びっしり張りつめて真白になってゐる』 |
雄吉は、網走川の土手に下りて川に沿い、赤燈台に向かって岸壁の上をどこまでも 歩きだす。帽子岩の近くまで来て思わず立ち止る。
|
『それは残照の美しい一瞬なのだった。能取岬の陰に隠れようとしてゐる日が、最後の光茫を放ったのだった。そしてその光茫は能取岬と遠く相対してゐる知床半島の山々にまで反映した。――その色は山女の肌を陽にすかして見る時のやうな美しさだった。そしてそれは雪山ばかりではなく、雪山は、漂ふてゐる流氷とも相映じてゐるのであった』 |
島木健作は、明治三十六年(一九〇三)札幌で生まれた。十代半ばで小説家を志し苦学の後、農民運動で投獄を経験した。長編小説『嵐のなか』を「評論」に連載を開始したのは三十六歳の時だった。島木健作は昭和二十年(一九四五)に、肺結核のため四十二歳で死んだが、敗戦の日から二日しかたっていない八月十七日だった。
網走の旅の感動を書いている主人公蔭山雄吉の思いは、そのまま作者島木健作の感動であった。
『破獄』吉村昭(昭和58)
「網走港」も「嵐のなか」も、作者が訪れたのは早春四月である。流氷が退去している時期に流氷が残っていたのだ。流氷到来も現在より早かったのだろう。
昭和十九年(一九四四)の流氷到来は、正月であったのか。網走刑務所の脱獄魔と呼ばれた男を描いた吉村昭の「破獄」は、次のように書く。
|
『一月五日朝、町の者たちは絶えずきこえていた波の音が突然消え、町に深い静寂がひろがっているのに気づいた。かれらは或る予感をいだいて海の見える場所に急ぎ、岸から沖合まで流氷群がひろがっているのを見た。例年になく早い流氷のおとずれで、一夜のうちに海岸へ押しよせ結氷したのである。漁は休漁となり、春のうみあけまで漁獲は絶える。
降雪の日がつづき、流氷の上を風が吹き荒れ、町は吹雪で白く煙った』 |
『北海の虎』中山正男(昭和28)
海の男と流氷の海を勇壮に描く「北海の虎」。作者の中山正男が網走管内佐呂間町出身でオホーツクの海を知り尽くしているからだろうか。
|
『天候は快晴だった。西北の強風が船の行手をさえぎった。濃い藍青の海面が大きく破れてそこから揺りかえしてくる波が、ときどき船腹をこえて後部甲板のあたりへひとかたまりにおちてきた。飛沫がとんで、その水滴はすぐ硝子玉のように凍った。
流氷群は沖合三浬のあたりを遊弋していた。濃紺の天際とはっきり白一線をくぎっているのがそれだ』 |
「北海の虎」の主人公の大林七五郎は網走に住む捕鯨船員である。第一北斗丸の砲手である彼は、その侠気から「北海の虎」と呼ばれている。
中山正男は「馬喰一代」で知られる作家であった。昭和二十八年(一九五三)に網走新聞に連載されたこの小説は、その年に映画化された。網走市内の港や、網走神社、網走小学校などでロケが行なわれ、多くの市民がエキストラで出演した思い出を持つ。中山正男が書いた物語の冒頭は流氷退去の春である。
|
『春呼風――このにしん風が吹くと、流氷は沖へ去った。季節風がひっくりかえって東北風になると、またこの流氷が舞いもどってくることがあった。しかしそういうことは全くまれだった。にしん風が吹けばしめたもの、春は海から来る――北見の山野には春の息吹がはじまりだす。深山に風倒木が音なりたてて倒れるのと、牧柵に馬がおどりでていななくのと、いろいろ春来声がきかれる。すべて北見の気候は流氷によって支配されるのだ。冬をもってくるのも流氷。冬を持ちかえるのも流氷である。
流氷が去ったら出港だ――これが港の漁師たちの合言葉だ。早く流氷が去ってくれ、漁師の全部の願望だ』 |
『漂流』戸川幸夫(昭和35)
戸川幸夫の「漂流」は、昭和三十五年(一九六〇)の五月、網走港から出漁したトッカリ船(アザラシ猟の船)の北洋丸の遭難という事件を素材にした小説である。正確には北洋丸に搭載していた二隻のボートに乗って、アザラシ猟のため氷海に出た四人が行方不明になった。半月後に漂流していたボートが発見されたが、四人は死亡していたという事件である。
サハリン沖の五月の流氷が小説の中で描写されている。
|
『――海は、オホーツク特有の、墨汁を溶かしこんだような黒さを湛えている。――黒い海に白い氷。そしてすべてのもの音は氷の粒々に吸収されるのか、氷海の中は死後の世界のように静かだった。氷帯を包みこむオホーツクのうねりも、氷の盤や山から溶かし出す低温の液に触れると魔法にかかったように力を喪って眠たげな表情に変わった。
風すらが死んだ。氷帯の中に大胆に入りこめるのは時たま訪れる太陽の光だけだった。光の束だけはまっ直に到着して、銀色の斜面にぶち当たって思い思いにはね返った。そしてその際に温かい忘れ物をした。太陽熱は氷の面をとろとろと溶かしていくつもの氷柱をつくり上げ、窪みをこしらえた』 |
このような流氷の海で、寒気と飢で遭難死した四人の行動を、少数民族ギリヤーク人との葛藤を混えて書いている。戸川幸夫には、このほかに「氷海の民」という、戦後網走に移住してきたギリヤーク人の男を書いた作品もある。
戸川幸夫は網走に縁の深い作家で、かつては毎年のように訪れていた。市内には戸川幸夫と交遊を持った人も多く、今もなお親しまれている。
オホーツク文学公園(生田原)の文学碑には名作「オホーツク老人」の一部が刻まれている。除幕式の日、戸川幸夫は公園を歩きながら「知床も流氷を、その当時は命がけの取材だったんだがね。先を行く者はいつだってそうなんだが、もう遠いものになってしまいました」と私に語ってくれた。
『続 氷点』三浦綾子(昭和46)
三浦綾子がデビューした作品「氷点」は、妻の不貞を疑う夫は、妻への復讐のために、娘を殺した犯人の遺児を養女にを迎えるという衝撃的な設定で、人間の原罪を問う小説である。続いて書かれた「続氷点」は、物語の結びを網走に設定し、流氷原に主人公陽子を立たせている。
右手に帽子岩が見え、宿のすぐ前が流氷の海というから、そこはオホーツク水族館の前であろう。
|
『突如、ぽとりと血を滴らせたような真紅に流氷の一点が滲んだ。あるいは、氷原の底から、真紅の血が滲み出たといってよかった。それは、あまりにも思いがけない情景だった。―― やがて、その紅の色は、ぼとりと、サモンピンクに染められた氷原の上に、右から左へと同じ間隔を置いてふえて行く。と、その血にも似た紅が、火焔のようにめらめらと燃えはじめた。
(流氷が!流氷が燃える!)』 |
ヒロイン陽子は、血の滴るように流氷が滲んで行くのを見て、天からの血と思い、キリストが十字架に流した血潮を見てるような感動を覚える。三浦文学の奥底にある信仰が、「続氷点」の結びで、主人公に「なんと人間は小さな存在であろう」と思わせ、神の存在を肯定する場面は、なんと象徴的であろうか。
それにしても、血の滴るような赤という表現は、この小説のプロットと同じく衝撃的である。
『虹』澤野久雄(「農業北海道」昭和47)
白一色の流氷が、光の加減で見せるさまざまの色合いを、作家たちの感性が見逃す筈はないのだ。三浦綾子は赤と表現したが、澤野久雄は「虹」のなかで、妖しい虹の色と書く。
|
『不意に、陽の光が流れはじめた。と、目の前の氷塊は、妖しい虹を吹き上げるかのようである。黄が多くなる、橙色がまぶゆい。樹氷のような氷塊の根の辺りには透明な青がにじみはじめていた。氷の底の、潮の色を映しているのかもしれない。――』
『――金色に輝く部分は、歩くにつれて、夕方の陽を映して火のように燃え立った。樹氷のような形をした氷に近づくと、今度は次の、塚のような氷塊のそばまで行って見たくなる。そこまで行くと、次には巨大な岩石のような氷が現われる』 |
「虹」は、スウェーデンから二年ぶりに帰国した伊川という男が、千冬という女と網走で待ちあわせる。妻と夫に去られた男女という設定である。観光ホテルに泊まった二人は、翌日、二ツ岩の近くの流氷原を見る。伊川は「あたしと一緒に死んで‥‥ 」と言われる。
流氷原はまた、死のイメージを持つ。「虹」では伊川と千冬は二ツ岩の海岸を海に向かって氷上に出る。陽が落ち夕べが近づいている。
|
『彼は千冬の肩を抱いたまま、また岸を背にして歩きはじめた。三キロほど歩けば、果たして青い水のほとりに出られるのだろうか。しかし、そこまでは歩けまい。疲れて休む。すると、睡くなるかもしれない。千冬と一緒に、この氷の海で眠るなら、それもいいだろうと思った。深い眠りのあとに待っているものは、もう死の世界だけであろう。そう思うと、不意に胸がふるえた』 |
知床の山は薄れて、もう見えなくなっている。死の予感で短編は終わるのだが、男女の結末と流氷原のイメージと重なっている結びである。
『晩籟』高橋揆一郎(昭和57)
小説に登場する流氷の見所は、どうやら二ツ岩海岸が多い。高橋揆一郎の『晩籟』も二ツ岩である。
|
『――現実に見るオホーツクの海は、すでに祭りのあとといった趣きである。流氷の大軍は去り、とり残された大小の氷塊が無統制に、まるで標本でも見るように浮かぶだけの、おだやかで明媚な銀青色の海だった。
沖合遠く、太い白銀の帯が延びていて、それが去りつつある流氷の一群であろうか。それが確実にオホーツクの海明けがはじまったことを示している』 |
冬の終り近く、中年の男が札幌からやって来て、北の海辺の宿で女を待つという設定だが、オホーツクの海明けは「それなりの舞台効果を持つものだ」と作者が書く通り、男女の愛の舞台にふさわしいのだろう。
澤野久雄には、もう一つ「漂泊」(昭和45)という流氷の網走を舞台にした短篇がある。「虹」の二年前に書かれたもので、二つの作品はよく似ている。
妻があり、夫がある中年の男女が網走に旅して人生を確かめ合う話だ。駅からタクシーで、宿のオホーツク荘に向かう途中で海を見る。女は「これ、雪の‥‥原っぱですの?」と聞く。そして氷海は次のように表現される。
|
『その海は、凍っていたのだ。凍った上に雪が降るから、初めて見る者には雪の曠野に見える。いや、実際は、そこで凍った海ではないのだそうだ。大きな流氷が流れて来る。接岸してそれぞれが繋がってゆく。そのうちにはそこにあった海の水も凍ってしまうだろう。その上に、雪が降る、また凍る。そして海は、一枚の巨大な氷の盆になってしまうのだった』 |
二人は夕暮れの氷原に出る。そこで唇が激しくふれあう。
|
『氷の山影から出てみると、二百メートルほど先に、オホーツク荘の灯が輝きだしていた。。夜は、その辺りの家々から、後の山を覆いかけている。氷の上だけが、ほのかに青白かった』 |
「虹」と違って、二人にはそれ以上何事も起こらなかった。オホーツク荘というのは二つ岩の水族館のそばにあるホテルである。
『オホーツクの鴉』船山馨(北の話・昭和45)
船山馨が取材旅行にやって来た時のエッセイである。二つ岩そばのオホーツク荘から海を見る。
|
『ここから見渡す白い氷の海は。かつて覚えたことのない強い衝撃で、私の心を揺さぶった。流氷という言葉からの連想は、海に浮游している氷群である。だが、私が見たものは、海そのものが見渡すかぎりの平坦な氷原と化している異様な光景だった。――ところどころに、氷塊が雑然と積み重なってケルンのようになっている氷丘や、その集積で小さい山をつくっている坐氷丘が点在するほかは、眼の届くかぎりの氷原であった。その果てに、行きをかぶった斜里岳のおぼろな姿が、遠い蜃気楼のようにかすんでいた。そうして、岸の近くにおびただしい鴉が群れていた』 |
<私>は氷原の鴉を観察する。群の中の一羽が沖を目指して飛び立っていく。どの辺から引き返して来るだろうと眺めていたが、夕陽に染まった氷原の上を、黒いしみになり、点になって見えなくなる。
|
『私は狼狽に似た一種の緊迫感で、胸をうたれていた。氷原は数十キロもつづいている。そうして、その先は波の荒いオホーツクの海である。彼はまるで、死へ向かって飛び去ったようなものであった。氷丘のうえから沖を見つめていたとき、いったい彼は氷原の果てに、なにを見たのであろうか。白い海の果てに、抵抗しがたい誘惑か、彼のやみがたい悲願が見つかりでもしたような、迷いのない一図な飛び去り方だったように、私には思えた』 |
流氷原には死のイメージがあると、船山馨は感じ、そこへ向かって飛び去る鴉に決意を見ている。それはこの取材を元に書かれた「美しい説得力をもった悲恋物語」(小松伸六)の「見知らぬ橋」につながっているのだ。
『見知らぬ橋』船山馨(昭和46)
|
『やがて車が海岸へ出ると、名緒子は眼を奪われた。
遥かな沖に、黒い海の色があるにはあった。だが、その黒い帯状の海に行きつくまでは、いちめんの氷の荒野だった。
海岸に近いあたりは、押寄せる流氷の圧力に砕かれて、盛りあがり積み重なった氷塊が、おびただしい白い岩石の山をつくっている。それは、海というよりは、途方もない規模をもった火山の、溶岩の累積が、行きに覆われて展開しているかのように、名緒子の眼には映った。
「内地からおいでになった方には、珍しい眺めでしょうけれど、土地の人間には頭痛の種です」
初老の痩せた運転手が云った』 |
物語は網走で始まり、アラスカの氷河で遭遇する悲劇で終る。並河はクレバスに落ちた妻を助けるために死を選び、奈緒子は並河へ愛を凝縮した能面を持ってひとり氷河へ向かっていくのである。
二人が網走の流氷原を見た時、風景の起源という言葉が出る。
|
『「風景というものが、こんなに単純で力強くて、そしてこんなに怖ろしいほど美しいものであり得るなんて、何ですか信じられないくらい。心のなかに雪崩が起きそうな感じですわ」
「それはね、君がいま、風景というものの起源のなかに立っているからなんだ戦慄のなかの陶酔とでもいうのかな」』 |
『愛と別れの街』夏堀正元(講談社・昭和59)
夏堀正元の「愛と別れの街」は、「ダイヤモンドダスト」という題名の新聞小説だったが、後に改題された。女は男を誘って流氷を見るために、東京から網走を訪れる。女は網走出身であった。
|
『<新しい男を連れて、わたしは決別するために、網走にいくのだ。二度と網走に帰らないために、わたしは大西さんと一緒に氷の海をみにいくのだ‥‥>』 |
夏堀正元は連載に当たって、取材のため網走を訪れているが、この時私と会って話し合いをした。「――彼らはセックスによって、新しい生き甲斐――それぞれの価値を見つけだそうとしたのである」と作中で書いているように、流氷の街での二人のむすびつきにこだわっていた。
二人は能取岬に出かけて、流氷の海の眺望を前にする。
|
『「きびしい眺めだな。美しいとか、素晴らしいなんて言葉は甘すぎて、ここでは使いようがない‥‥」
大西は全身を寒さに硬直させながら、うなるようにいった。
「駄目よ。まだこんなものじゃないわ!」麻子が怒ったような声をだした。
「夕方の光りのなかでみるせいか、わたしにはきびしさなんて感じられないわ。薔薇色の夕陽が、優しい眺めにしてしまっているのよ。ほら、ごらんなさい。海でぶつかりあい、せりあがった流氷の原野に、やわらいだ陰翳が装飾のように貼りついちゃっている。――朝も、昼も、夜も、流氷に敷きつめられた海は、こんなに柔和な顔をしてないのよ」』 |
反骨精神を持つという作家が見つめる流氷の海が、表現されているような気がする。
作品の中で、流氷とともに網走へ入って来た古代オホーツク人のこと、流氷鳴りのこと、流氷は温かい蒲団であるということなどが、詳しく描写され語られる。これらは私から取材したものである。
夏堀は小樽出身の社会派作家で、骨太い作品の「罠」「海鳴りの街」などで知られる。平成十一年(1999)の一月四日に余話世を去った。
『流氷まで』村松友視(文藝春秋社・平成4 )
この小説も新聞小説での題名「流氷の墓場」が改題された。
|
『「流氷の墓場ってしってはる?」
ミサが、不意にそんなことを言った。
「さあ‥‥」
麻子にとって、それは聞いたことのない言葉だった。
「流氷にも墓場があるんですか‥‥」
「わたしが、京都からここへ来る途中のどこかで一緒になった人の言葉やったんやが‥‥」』 |
ミサというのは、流氷にひかれて毎年京都からやってくる老女で、麻子は東京からやって来た若い女である。
物語の中で、オホーツク海にある北見大和堆の海域で氷解する流氷の様子が説明されている。村松友視も取材のため網走を訪れている。私は会っていないが流氷の墓場という言葉も、大和堆の状況も、私の流氷記録を下敷きにした描写である。
興味深いのは、流氷を背景にした小説の多くが、若くて美しい女性が、東京か札幌からやって来る。網走は最果てであり、流れ着く街であり、男女は流氷の街で愛を確かめるという筋書きである。
愛の結末や終焉の地が網走であるということの多い小説だが、過去やしがらみから脱けて、新しい出発を模索する地でもあることが描かれている。最果ては出発の場所でもあるのだ。
『青年よ。大志をいだこう』佐江衆一(文学界・昭和44)
「広大な雪の大地の果てに横たわる冬のオホーツク海が見たくて、私は旅に出た
だが、――」と始まる中編小説は、三十七歳のパパ学生である私が上野を発ち網走へやって来る。列車は遅れ、午前零時過ぎに網走駅に着くが、旅館を断わられながら網走川の上流に向かって歩き、ようやく灯のともっている旅館を見つける。
私の旅は、妻の道代と過ごした青春のかがやきの裡から、ゆっくりと復帰してくる自分を見つけようとするものだった。翌日、宿を出て海の方角へ向かう。
|
『突然、私の視界に来たの海の広大な眺めが展けた。空は晴れわたり、海は絶え間ない白いかがやく咆哮をつづけていた。水平線にきらめく純白のきらめきは、いま、この北の果ての町へおしよせてこようとする流氷の一群かもしれなかった。
私は岸壁の端へ走り、雪のなかに立ちつくして、こころの裡にのぼってくるあらあらしい塊りのようなものを、待った。二本の肋骨の失われている私の胸の裡で、巨大な氷塊の触れあう音がたからかに軋み、私を前の方へと突きうごかそうとした。
「ほら、これが流氷のオホーツクだよ、道代」
と私は声に出して話しかけた』 |
この小説の結びには、「私たちはあの海の彼方へ相変らず「五十歩百歩」の旅を続けようとしている」と書かれている。作者が思う人間の日常は、茫漠たる氷原のようなものであり、模糊とした未来への営みなのだろうか。「青年よ、大志をいだこう」は、第六十一回芥川賞の候補作品となった。
『晩祷』三木澄子(平成10)
東京から網走湖畔に移住し、十四年後に没した三木澄子は、ジュニア小説作家として知られた人だが、網走で同人誌「文芸網走」に加わり、文学活動を行っていた。晩年に遺作となった私小説「晩祷」を発表していた。老夫婦の愛と葛藤を描く傑作だが、作中夫婦は何度か流氷の海を見に出かける。
|
『――峨々たる大巌石のようだったり、重厚な扉のようだったり、ピラミッド形だったり半球形だったり、粗く砕けたりして、重なり合い犇めき合い、流氷は接岸している。そのような氷塊群が水平線まで埋めつくしている。青空のもと、透明な日光にきらめき渡る白銀の曠野に、私たちは強く魅せられた。氷の断面のほのかな翡翠色もなんという美しさだろうと語り合った』 |
オホーツク、とりわけ網走の自然をいとおしんでいた三木澄子の描写である。後に鬱 病に苦しむ夫の圭三は、コートの背をまっすぐに伸ばして、長い間立っている。<私>は、その姿を若者のようだと思う。
『これくらい想像を絶するものはないね。写真にも絵画にも撮し取れるものじゃない』やがて自死に至る圭三はそうつぶやくのである。
『流氷の話』相神達夫(北の話95・ 昭和55)
三木澄子は地元網走に住んで、実際に流氷を見た人だが、相神達夫も小学生の頃、三年ほど網走に住んだ。昭和三十年代である。その思い出を次のように書いている。
|
『元旦には流氷はまだ姿を見せていない。その年の正月も、波打ちぎわで凍結した浮氷が、海岸から数十メートルにわたって張り出している程度だった。できたての浮氷だから波風にもろい。浮氷のあちこちには、二、三十センチ、ところによっては一メートル近い亀裂が走っている。なかにははぐれ雲のように沖合に流れていくものもある。この浮氷の上を走り回り、筏のように揺らせて喜ぶというのが、悪童たちのスリル満点の遊びだった――』 |
これは、その時代に子どもにはやった流氷乗りである。当然学校から固く禁止されていた。流氷乗りを本人が書いた文章はまれである。
|
「――目の前の開水面が一メートル、二メートルと見る間に広がっていく。もう飛び乗ったはずみに二つに割れたらしい”わが土地”はゆっくりオホーツク海の波間に没していくのである。長靴の入口から、ゆっくりと海水が入ってくる。ヒザ小僧から腰へと、まるでスローモーション映画を見るように海面がゆっくりせりあがってくる。あとはもう無我夢中である。ずぶぬれになって目の前の氷の大陸に泳ぎつくまで何秒かかったろうか』 |
『日本細末端真実紀行』椎名誠(昭和59)
小説ではないが、流氷を書いたエッセイも多い。「日本細末端真実紀行」の中の「網走は今日もさむかった」は、昭和五十年代に網走へ流氷見物にやってきた椎名誠が、女満別空港からバスで網走市内にやって来る。食事をした店の親父に聞いて、川向いまでやって来て、「くわばら」という洋品店で千二百円の帽子を買って、海岸町の海で流氷を見て感動するという話である。
|
『――しかし、目の前に流氷がひろがっているものの、まったく正直な話、こういうものを一人でいつまで見ていてもあんまり面白いというわけのものではないのでありますね。
「なるほどここは北の果て、流氷なのだ‥‥」
とは思うけれど、そのあとがどうもあまりうまく続かない。「そうなのだ、これはオホーツクの流氷だ、そうしてそうして‥‥」』 |
この感想はかなり正直なのでないだろうか。流氷というものは面白いようで面白くないのものでもあるのだから。
『木鷄の記』小林金三(平成2)
北海道新聞論説主幹をつとめた小林金三のエッセイ集は次のように書く。
|
『網走で、やや沖合にある流氷の帯の輝きをやっと見ることができた。アメリカに依頼した人工衛星の写真によれば、氷はオホーツクの全域の半分以上を埋め尽くしているという。風が変われば、それが不意に、一夜にして岸に迫ってくる。オホーツクに臨む町々は、いまひたすら忍従をしいられている。息苦しいまでの静けさだが、やがて流氷が去れば、爆発的に動きだす。そう思うからこそ、刺すような寒気にも耐えられるのであろう』 |
流氷期の忍従と海明けの活動は、小林金三が言うとおりであった。が、しかし、それが流氷の変化と、観光によって、オホーツクの町々に変化が生じていることも事実である。
『流氷』柏倉竣三(昭和37)
『そこはオホーツク海の沿岸。さきほど網走の駅を這い出した汽車は、まもなくオホーツクの海辺に出ていた』
とエッセイで書き、つづいて流氷原を描写するのは、北大文学部長であった柏倉竣三である。柏倉は一夜にして氷原に変わってしまった海を前にして、次のように書く。
『このきびしい光景を前にしては、卑小な人間は襟を正すよりほかない』
『汚れなき目のオホーツク』佐木隆三(北の話182 平成6 )
佐木隆三の短文には、「死刑囚・永山則夫」の取材のため、網走へ来たことが書いてある。
|
『――永山則夫は、オホーツクの海を眺めて、物心ついたのである。満六歳になる前に、福祉事務所の手で青森県へ送られたが、――』
『――捨て子状態にされて、一冬を過ごしたにもかかわらず、網走川の川口から見たオホーツクの海を、いつまでも懐かしんでいる』 |
佐木隆三は、幼い汚れなき目で見たオホーツクの海が、唯一の安らぎの場所なのだという。
永山則夫は網走市字呼人に生まれた。五歳まで網走で育ったが、最後の一冬は父母に捨てられるような境遇を過ごした。後に連続射殺事件を起こしたが、死刑囚として獄中で文学作品を執筆し、作家として評価された。
佐木隆三がいうように、永山則夫は遺骨を網走の海に流して欲しいと望んだほど、海に執着していた。遺骨は願いの通りオホーツク海に撒かれたが、彼が幼い時に見たオホーツク海は、どのように脳裏に残っていたのだろう。
凍りついた網走川から、河口の先に見える流氷の海が、記憶の奥に埋めこまれたのだろうか。永山則夫の執着したオホーツク海は、流氷の海であるというは断定過ぎるだろうか。
永山則夫自身は「なぜか、アバシリ」という作品の中でつぎのようにいう。
|
『あの流氷が見える網走は、心のアバシリにつながっているのか、それとも空き腹を抱えたアバシリにつながっているのか、未だ分かるようで分からない気持ちにさせることが実にしばしばある』 |
『母 住井すゑ』増田れい子(平成10)
流氷の音を聞きたいと言って、聞くことのできなかった作家がいる。被差別の人々の闘いを描いた長編小説「橋のない川」第七部までを書いて、世を去った住井すゑである。
娘である増田れい子の「母 住井すゑ」の中に、
|
『――旅嫌い、であった。もっとも、網走をたずねて、流氷のきしむ音だけはこの耳で聞きたい、と洩らしたことはあった。しかし、その音も、ただ聞きたいだけの好奇心からではなく、網走をたずねた孝二の耳にきかせるための、あるいは熊次郎の耳底にひびく地球の音として、聞かせたかったからではないか、と私は想像する』 |
と、住井すゑが網走行きを希望していたことが書かれている。
取材の旅と講演の旅以外には、いっさい出歩くことをしなかった住井すゑが、網走で流氷鳴りを聞きたかったのはなぜか。
理由は「橋のない川」の第七部の終末にある。作中で、米騒動の折、被差別部落民の先頭にたってたたかった川島熊次郎は、網走刑務所に収監されている。熊次郎の十五歳の息子熊夫が、父を訪ねて網走に行くことを希望する。
作品の主人公孝二はそれを聞く。
|
『――「わし、熊ちゃんといっしょに、網走に行て来るワ。」どーんと、背後から突き飛ばされるような気持ちだった。口走ってから、孝二はあらためて溜め息をついた。あらゆる意味で、網走行きは、なかなか思い仕事だったのだ』 |
大正十五年(一九二六)大正天皇崩御の年である。第七部は、長い旅に出る所で終っている。そのあとがきに「又々、野望を起こして「八部執筆」を覚悟しました」と書くが、平成九年(一九九七)六月、住井すゑは、ついに九十五歳で生涯を閉じる。八部も、網走の旅も、流氷鳴りを聞くことも幻になったのだ。
増田れい子は、母が流氷の音を聞きたいと言ったのは、作品のためだったという。住井すゑという作家が、流氷鳴りを聞こうと望んだのは、ただ一点、作品の完成に向かっての願いだったのである。
『幻の流氷特急殺人事件』辻真先(昭和61)
推理小説の中にも、流氷を力を入れて書いているものもある。「幻の流氷特急殺人事件」は、湧網線が地元の熱意でよみがえり、稚内まで鉄道がつながる。開通式の日の特急「流氷号」が網走を出てまるごと消失するという話だが、ここでは流氷の鳴き声が書かれている。プロローグは次のように書く。
|
『流氷は鳴く。
まるで生きているかのように、声をたてて鳴く。一度でもその声を耳にした者は、死ぬまで忘れることができないだろう。それは単に、氷がきしりあう物理的な音として、片付けられるようなものではない。
その硬質なすすり泣きを聞くたびに、私は思うのだ。
あいつらは、本当に生きている、と』 |
網走市郊外の旅館”オホーツク荘”三日続けて泊まっている「私」は、ついに流氷の接近に遭遇し、月明りの流氷原を目の当たりにする。そこで聞く流氷鳴りだが、この後にも流氷鳴りを描写している。
『句集花ぐもり』能登裕峰(平成6 )
小説やエッセイばかりではなく、流氷をテーマにした詩歌も多い。
流氷の去る日本の雪を積み
この句は大岡信の「新折々のうた2」(岩波新書)の中の<春のうた>に所収されている。作者は地元俳人であるが、古来からの名句と並んで取り上げられているので、特に取り上げてみたい。
大岡信の解説は次のようなものだ。
|
『「花ぐもり」所収。大正十二年北海道網走生れ。京大法学部出身で、多年網走刑務所の篤志面接委員、同時に俳句講師をしてきたという。「古暦強くけさるゝ語句の壁」など、このような経歴でなければ作れない句がある。一方、故郷への愛着が右のような柄の大きい句を生ませている。「流氷に乗り流氷を貰ひきぬ」「雪の犬大海鳴りに四肢張りぬ」。これでいて、俳句との出会いは四十歳後半だったという』 |
『歌集農の一樹』高辻郷子(平成 9)
氷泥をだぶんだぶんと打ち上げて結氷を告ぐる海の肉体
同じ地元歌人の高辻郷子の歌で、雄大できびしいオホーツク海が表現されている。
高辻は平成五年に、第一歌集「農の座標」で北海道新聞短歌賞を受賞した歌人である。その歌集のあとがきで、「ようやく三八〇首あまりを拾い集めた。自然を相手にした単調なサイクルの、いわば営農日記とでも言おうか」と書いているが、オホーツクの大地にがっしりと根を下ろした農民の作品は胸を打つ。
短詩型文学では、地元の作家が多く、特に流氷の作品ではすぐれたものが多いが、「地元の人たちの文学活動」の章で、説明していきたい。
網走中学に勤務(大正12〜15)した神原克重は若山牧水の門下で、牧水の没後「創作」の選者をつとめた。
流氷かまことあらずか沖つべのくすしき光目交ひに見ゆ
没り方の日は寒く澄み海のうへの氷まぶしく光りいでたり
南ケ丘高校の校歌や中央小学校の校歌を作詞しているが、南高校歌は「澎湃たる波 /すさべる嵐/日本の東端/オククの岸べ」と難解であるが傑作といわれている。
次に網走を訪れた著名作家の作品をいくつが上げてみる。
流氷のへりより氷柱垂れゐたり | 林 徹 |
流氷に磨かれし貝拾いけり | 松崎鉄之介 |
夜は子の眼しきつめ流氷期 | 松澤 昭 |
流氷去り耳のうしろの寂しい木 | 新出 朝子 |
氷海へ水路は藍を絞りたり | 金箱才止夫 |
流氷のいたるところに朝日出ず | 勝又木風雨 |
白炎をひいて流氷帰りけり | 石原 八束 |
流氷の無垢の大陸接岸す | 伊藤 彩雪 |
流氷やわれから知って死装束 | 石川 桂郎 |
オホーツクの朝の海にたつ海市 流氷海を鏡像とせり | 上田三四二
|
( 文・菊地慶一 )
|