検証・椎名さん捜し
JH2GAA 田畑 節生
2.人間関係。
1.家族構成
◇当時、椎名さんは名古屋弁を話す17〜18歳の女性。(姓のみで名前は不明。)
大正14〜昭和元年?生まれ、現在、74,3歳くらいの女性。
◇お母さんと(母親におんぶされて)妹1人の3人家族で下之一色に居住。(昭和17〜19年頃)
◇おんぶと言っても赤ん坊ではなく、小学生低学年と想像します。伊勢神宮に一緒に行ったのですから。(JA2DHC/1 大橋さん)
◇男性のご家族が同居している気配はイッサイ見受けられなかった。(HL1CO 李OMの返事、 96年4月8日書状から。)
◎男性は軍隊や徴用に行った時代。「椎名」さんの兄、お母さんのご主人はいなかったのだろうか?
中川区役所、南陽支所で戸籍簿の閲覧が出来たのは、在住5年の人が対象であり、戸籍の筆頭者が分からない調査はこれまでにも困難を極めた。
「椎名」さんが在籍したと思われる「正色尋常小学校」も、小出先生がお調べになられたとのことで、当時の船頭場の町内会名簿にも「椎名」さんの名は見つからなかった。
中川区、港区で在郷軍人名簿、婦人会名簿などを再調査する必要があると思う。
2.勤務先
◇愛知航空機(株)<飛行機・D4Y1型雷撃機の羽根を作る>翼工場に勤務していた。
現、愛知機械工業・永徳工場。(名古屋市港区稲永)在籍名簿は残っていないので分からない。
◇郷里(韓国)と李OMの間の手紙のやりとり、お金の補充ルートの秘密中継役を引き受けてくれた。
温かいおにぎりを女性トイレの中に隠れて何回も、何回も食べさせてくれた。
◇一心寮には日本人工員または学徒勤労動員もいたのではないでしょうか。新聞にのせてもらえば一心寮に住んでいた日本人が名乗り出たかも知れませんね。(JA2DHC/1 大橋さん)
◇板きり工場で勤務していた時は、朝鮮人・年少工「木村」と呼ばれていた。
◎現、愛知機械工業・総務部の方の話では、当時の寮の記録は残っていないとのこと。「一心寮」が「維信寮」ではないだろうか?
今の維新高校辺りに寮があったと言われている。との返事だったが、確信は無い。(但し、下之一色に寮があったと思われないとも言われた。)
調査をしている中でも「維信寮」では? とも言われたが、弁天裏バス停に近い多加良浦公園が「維信寮」では無いだろうと否定もされて、こちらに学徒動員生の記念誌があるので調べてみますから、もう少し時間を下さいとのこと。 99年9月20日。
下之一色商店街、船頭場、弁天裏周辺を2,3回歩いて聞いた中では、
1.「椎名」さんが秘密中継役を引き受けることができたのは、韓国・朝鮮人の方ではなかったのか? と逆に質問された。
2.朝鮮人・年少工「木村」の名前を知る人はいなかった。
3.「椎名」さんと言う名前がこの辺りでは珍しい。など情報を絞りにくい面も多い。
3.新聞記事
◇「虐待から守ってくれた女性に会いたい」 戦争中、名古屋で徴用工。李さんソウルで願う。(中日新聞95年9月14日付け)
この記事の中に、“愛知機械に残っている当時の従業員と勤労動員の名簿には、該当者はなかった。
ハム仲間の一人、野田さん(62)は言う。”の一文がある。
◇「下之一色の椎名さんは」(中日新聞96年3月17日付け)
下之一色駐在所・JA0HLE 中井さんが、記事をコピーし配布しながら調査して下さったが、「椎名」さんに関する地元での有力な情報は得られなかった。
◇「願望 半世紀経て」、「戦時の恩人・椎名さんどこ...」(朝日新聞99年8月8日付け)
“当時の愛知航空機永徳工場はいま、機械メーカーの工場になっているが、同社は「名簿は残っていないにでわからない」と言う。
中川区役所も「戸籍が残っていても、戸籍筆頭者の名前がわからなければ調べようがない」と話している。”の一文。
◎“当時の従業員と勤労動員の名簿には、該当者はなかった。”と “同社は、名簿は残っていないにでわからない”の違いをどのように理解するか判断に迷うところです。愛知機械工業・総務部の方の話では、「名簿は残っていない」(99年9月20日。)と言う。
以前にも「寮」の問い合わせがあったとの応対なので、“名簿は残っていない”と判断したいと思います。終戦直前に稲永一帯も空襲に遭い、その後、伊勢湾台風でこの近辺も大被害を受けていることなどからです。