変化     日陰から「表舞台」へ

▲陸上自衛隊那覇駐屯地に掲げられた、急患空輸と不発弾処理の実績数
 ●要請届かず
 自衛官として国防にささげた半生。その自負を貫く、那覇市の桑江良逢さん(79)は一回だけ上官の命令に背いたことがある。
 一九七二年十二月、陸上自衛隊那覇駐屯地に「離島で男児が呼吸困難」との連絡が入った。現地司令官の桑江さんはヘリコプターに待機を指示し、出動に必要な沖縄県知事の正式な要請を待った。「検討中です」。県庁に何度、電話しても同じ返事が戻ってきた。
 自衛隊は、その年に本土復帰した沖縄に配備された。住民の四人に一人が亡くなった沖縄戦。住民に銃を向けた日本兵の姿と自衛隊は重ねられた。「日本軍は帰れ」。桑江さんは着任直後から連日、デモや集会に取り巻かれた。
 要請は依然なかった。「自衛隊反対」の立場にこだわる革新県政。桑江さんは防衛庁からは「絶対に手続きを踏みはずすな」ときつく念をおされていた。
 幼い命と命令違反。踏み切れないまま過ぎた三十分間。桑江さんはついに断を下した。「行け」。沖縄で初めての自衛隊の急患空輸。自衛隊法違反のヘリが飛び立った。

 ●嵐から29年
 物議をかもした急患空輸は二回目から正式な要請が届き、搬送者は今年九月、六千人に達した。
 嵐(あらし)のような反対運動で迎えられてから二十九年。沖縄の隊員の四分の一は地元出身。かつて厳しい視線を浴びた制服姿を街で見かけることも珍しくない。
 一万人以上が集まった反対集会、隊員の住民登録拒否…。部隊には桑江さんらの体験を「昔の苦労話」と受け止める世代も増えた。
 それでも、市町村の半数近くは広報紙への自衛官募集の記事掲載を断る。小船で競漕(きようそう)する那覇市の伝統行事「ハーリー」に、陸上自衛隊が「陸自」のチーム名で参加を認められたのは今年が初めてだった。
 沖縄は、本土復帰に伴って日米安保条約の枠に入った。広大な米軍基地は復帰後も残り、そこに安保体制を具現する形で、新たに加わった自衛隊。次第に受け入れられながらも、まだどこか日陰の存在であるのも事実だ。

 ●複雑な視線
 「指示には従ったが、これも割り切れない思いが残った」。桑江さんが沖縄に着任後、防衛計画の作成を命じられたときのことだ。「米軍の存在は抜きにして考えてくれ」。桑江さんは上司の言葉に耳をうたぐった。
 侵攻を受けた場合に沖縄をどう守るのか。当時、沖縄に駐屯する陸自は千数百人。米軍は海兵隊だけで一万六千人。防衛に米軍の協力は不可欠だったが、あくまで独自で計画を作成するしかなかった。
 時代は進み、米軍に対する自衛隊の幅広い支援を定めた新ガイドライン関連法が施行。有事法制も政治スケジュールに上った。
 「一歩ずつ改善されている」と桑江さん。在日米軍基地の75%が集中する沖縄。それをかなめに、連携を一段と強める日米安保体制。その先に、かつての体験を重ね合わせる人もいる。「本当に守ってくれるのか」。表舞台に踏み出そうとする自衛隊を見つめる沖縄の視線は複雑だ。


 ▼沖縄の自衛隊 復帰前年の1971年、久保・カーティス協定で配備を決定。陸、海、空で約6000人が勤務。施設面積は復帰当初から4倍に増えた。領空侵犯機に対し、スクランブル(緊急発進)するF4戦闘機や地対空ミサイル、掃海艇を保有。離島の急患空輸や沖縄戦で大量に残る不発弾処理も重要な任務。嘉手納基地を拠点とする在沖米軍18航空団と空自は79年から毎年、共同訓練を行っている。