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兄がヒマラヤの奥地で消息を絶ってから十日あまり。兄自身が行方不明の映画女優を捜索するといって飛び出していったあげくの遭難だ。 「ミイラ取りがミイラに」。そんな不吉な言葉は、兄の捜索を決意した私自身にはね返ってくる。自分自身も「ミイラ」になってしまうかもしれない、という漠然とした不安をぬぐえないまま、わたしは旅路に着いた。 例の女優や兄が遭難した地域に関しては妙な噂が聞こえてきた。曰く、その地域には半人半獣の怪物が生息している。女優はその怪物に連れ去られて消息を絶った。あるいはさらに、行方不明者は皆、何らかの仕方でその怪物の仲間へと肉体と精神を変貌させられ、怪物たちとの間で子孫を作り生きながらえているのだ、等々。 わたしは生理学を専攻した後、神話学や民族学のフィールドワークに進んだ、というちょっと変わった経歴の学者だ。そして、神話や民話に登場する変身譚の少なくともいくつかには、何らかの生理学的な説明がつくのではないか、という、文系の学者からも、理科系の学者からもろくに相手にされない異端の学説を何とか論証しよう、という課題に数年来取り組んでいる。当家の財力だけを頼りにした孤独な研究だ。「金持ちの道楽」という冷たい目だけがわたしに注がれていた。 実のところ、今回の捜索行に参加した背後に、奇怪な噂に対して学者としての好奇心をかき立てられた、という動機がなかったと言えば嘘になってしまう。しかし兄の身の上を案じる気持ちがないわけではない。むしろその気持ちが強いからこそ、自分が同行せねばならないという強い義務感を覚えたのである。噂が本当で、女優や兄や他の犠牲者たちが人外の怪物に変わってしまった、というのが万一事実であるとしたら、学者としてその原因を探り、科学知識を駆使して彼らを救い、どうにかして元の人間に戻すことができるかもしれないのは――少なくともそれに最も近い立場にあるのは――誰をおいても自分しかいないはずだ、という使命感があったのだ。 捜索隊は、小規模だが整然と組織立てられたチームを編成して、該当地域をブロックに分け、系統的な調査を始めた。調査法の考案と実質的な指揮はわたしが行っていた。気象が不安定でただでさえ道に迷いやすい地域だったので、用心深く、念入りで、確実な結果の出る方法が必要だと思われたのだ。仮にこの地域が怪物の生息地域だとしたら、この網に何かは引っかかるはずだ。そしてそこから怪物の棲み処を絞り込めれば、やがて兄や例の女優が発見されるかも知れない。調査隊の誰にも表だっては言わなかったが、わたしにはそのような見通しがあった。 だが、綿密に張り巡らされた網に、兄や女優の足どりはもちろん、怪物の痕跡すらまるで引っかからなかった。もちろん、実のところ、ネス湖の怪物にしろ他の地域の雪男にせよ、これは「よくあること」だった。恐らくこの地域の噂も単なる噂に過ぎず、女優の誘拐は熊か 何かの見間違い、兄は悪天候によるごく普通の遭難に巻き込まれただけで、二人とも今頃は命を落としているだろう、というのが多分現実なのだ。わたしは「夢想」が「現実」に裏切られる、何度目かの苦い思いを味わいつつあった。ただ、今回のそれは兄の命と結びついていた「夢想」であるだけに、ショックは大きかった。 異変は、捜索の打ち切りも間近に迫った頃に起きた。ごく穏やかな、この地域には珍しい天候の日に、捜索隊の人間が一人、忽然と姿を消したのだ。そしてその翌日には、同じような晴天の下、捜索隊のメンバーの四分の三分が、ほぼ同時に消息を絶った。 そしてそのさらに翌日、遂に私自身が彼らと同じ運命をたどることになった。ほぼ最後になる区画を自ら調査していた私は、毛むくじゃらの奇怪な生物に捕らわれてしまったのである。 「この場所はあんたのお仲間に聞いたんだ。そいつは俺たちの仲間になってすぐに、あんたらの行動の予定を教えてくれた。実はそいつを捕まえるまでは、俺たちはあんたらから隠れ続けるつもりだった。なんだか危なそうな気配を感じたからな。でもそいつの話を聞いて、これは一挙に仲間を増やすチャンスじゃないかということになったんだ。あんたもすぐに俺たちの仲間にしてやるよ」 雪男は嬉しそうに、そしてわたしへの善意に満ちた声でそう話しかけてきた。「仲間にする」とはつまり、私を雪女にする、という意味なのだろう――他のメンバーがそうされたらしいように。それを理解したわたしは激しく怯えた。 しかしまたわたしは、雪男の話し方に何となく聞き覚えがあることに気付いた。わたしはまさかという気持ちと共に、どうにか首をひねって雪男を見上げ、そして慄然として思わず叫び声をあげた。 「兄さん!?チョーンシイ兄さん!」 「ん?誰だ?」 「ビオレッタよ!兄さんの妹の!」 「…ああ、そういえば、おまえか。懐かしいな。また兄弟二人で一緒に暮らせるのか。ちょっとうれしいな。実は俺が殺してしまった雪女のつれあいになってくれる女を探していていたところなんだ。おまえならぴったりだ。ぜひ紹介したい。あいつも喜ぶと思うよ」 「やめて!兄さん、どうしちゃったの?あんなに野心家で、…いい趣味じゃないけど、大プレイボーイの兄さんが、人間の女性が一人もいない、こんな山奥でひっそり暮らして、それでいいの?」 「…?…なんだかよく分からないな…?」 「お願い!山を下りて、病院に行って調べてもらって!私も協力する。私がその身体を元に戻してあげる!」 「よく分からん。なんで病院に行く必要がある?この身体のどこが悪いんだい?」 「いや!元の兄さんに戻ってよ!私を雪女にするなんて言わないで!…じゃなければ、せめて私を降ろして!わたしは雪女になんてなりたくないの!放して!降ろして!」 わたしは絶望し、せめて自分だけは人間のまま山を下りたい、という気持ちを兄に伝えようとした。だが、その気持ちは今の兄にはまったく理解できない様子だった。それが分かったわたしは激しく抵抗を始めた。何とか、怪物になってしまった兄から逃げだし、キャンプに戻らねばならない。そう思った。 わたしが容易に抵抗をやめないと察したらしい兄は強引な手段に出た。わたしの衣服をびりびりに破き、わたしを自分の胸に密着させてこう言ったのだ。 「さあ、もうこれでもうおまえは俺から逃げ出せない。俺から離れたら一瞬で凍死しちまうからな。おとなしく俺たちの棲み処に来て、仲間になるんだ。仲間になりさえすれば、おまえもきっと満足するよ」 きれいに全裸に剥かれてしまったわたしは、兄の言うなりになるしかなかった。命が惜しかったし、脱出のチャンスはまだあったからだ。 ――そう、一か八かの切り札がわたしには残されていたのだ…。 怪物は岩肌に開いた大きな洞窟にわたしを連れて行った。本当はもっと狭い洞窟で一人一人「生まれ変わり」の儀式を行うのが作法なのだが、今回あまりに「新参者」が多く、少し変則的な対応になっている、ということだった。 中には大勢の雪男や雪女たちが円をなして立っており、その中央にはわたし同様全裸に剥かれた捜索隊のメンバーが座らされていた。捜索隊のメンバーのほとんどが男性だが、大学院生の女性も少数混じっている。ほとんどの者が、すでに体毛が濃くなり、巨大化を始めていた。そしてうつろな目をしながら、何か発光する物質と雪玉を無心に口に運んでいた。ただし、一人だけ、人間の姿のまま雪男に抱きすくめられ、枯れてかすれた声で抵抗を続けている後輩の大学院生がいた。 「いやあ!こんな怪物になるのはいや!死んだ方がましよ!殺して!いいから、わたしを雪山に放り出してちょうだい!」 自分の容貌とスタイルにだいぶ自信のありそうな女の子だった。わたしは、この子ならば当然の抵抗かもしれないな、と思って彼女を見た。わたしと目のあった彼女はこう話しかけてきた。 「あ、ビオレッタ!とうとうあなたも捕まっちゃったの?あなたもそのコケだけは食べちゃ駄目よ!食べると雪女になってしまうわ。 みんな、食べないと外に放り出す、と脅された。最初は命が惜しくてしぶしぶ従った。でも、一口でも食べてしまうと、止まらなくなってしまうらしいの。完全にイエティになってしまうまで、コケを食べずにはいられなくなるようなの。それどころか、自分がイエティになることを待ち望むようになってしまうのよ! そこのポールとパティだけは最後まで抵抗していた。でも結局食べ始めたわ。『二人でイエティになるなら、きっと幸せよ』ってパティが泣きながら言ったの。でも、わたしはいや!雪女になんてなりたくない!絶対にならない!」 兄は辛そうな顔をして言った。 「困るんだよな。俺たちは優しい種族だ。どういうわけかコケを拒む人間に、やむを得ず、裸で雪山に放り出すぞと脅すんだが、本当を言うとそんな残酷なことはできないんだ。この様子じゃ多分母乳も飲んでくれないだろうし、下手をすると窒息死しかねない。困った。あれをやるしかないのかなあ…」 兄は仲間と目配せをした。それを受けた一人の雪男がコケを自分の口に運んで、それをよく噛んだ。そして、彼女を抱えているもう一体の雪男と手分けして、泣きわめいている彼女を四つんばいの状態にして、肛門を開き、そこに口を当てた。どうやら、口の中のものを中に吹き込んだ様子だった。 「ひいっ!やだ!!やだぁ!!」 彼女は羞恥心で顔を真っ赤にして、全力をふりしぼって抵抗しようとしたが、イエティの万力じみた腕の力で抑え込まれた。 「やだぁ!!!やだ!!やだ!やだ。や…だ…」 彼女の抵抗心が萎え始めてきたことが、はた目にも手に取るようにわかった。そして眠そうな目になり、先程まで自分を拘束していた雪男に自らしがみつき、そしてそのまま眠ってしまった。 兄はそれを見届けてからこう言った。 「多分これで、目が覚めれば他の連中と同じになってくれるはずだ。俺たちとしても、この方法には抵抗があるんだが、仕方がなかった。…そうそう、紹介しておこう。さっきあの人間の尻にコケを吹き込んだあの雪男がおまえのお相手だ。どうだい、いい男だろう?」 兄同様、自分には単なる「毛むくじゃらの怪物」にしか思えなかった。困惑と恐れに包まれているわたしの目を兄は見すえ、こう続けた。 「…さて、どうするね?と言っても、おまえに選択の余地はないんだが…」 そう言うと、兄はヒカリゴケを差し出した。兄の言うとおり、わたしに他の選択肢はなかった。わたしは無言でそれを受け取り、口に運んだ。 一口でわたしの世界は一変した。沸き上がる熱い塊がわたしの肉体を変貌させ、同時にわたしの知性と感情の構造を急激に作り変えていった。目に映る人間やイエティの姿が、コケを口にする前とは全く違ったものに見え始めた。 「ああ…熱い!…熱い!…」 それを聞いた兄はわたしを、イエティの作る輪の中央にある雪の山の前に運び、降ろした。わたしは夢中で雪を頬張り、火照った身体を冷まそうとした。間もなく急激な睡魔に襲われ、わたしは眠りに落ちた。 翌日も、翌々日も、わたしは洞窟の中でひたすらヒカリゴケを食べた。わたしの体毛はどんどん濃くなり、肉体は大きく、頑強なものへと変貌していった。そしてわたしを取り囲むイエティたちの優しさや仲間意識を敏感に聞き取ることのできる「心の耳」のようなものが 生まれ、日増しに育ってきたのを感じた。そして、今やわたしは早く一人前の雪女になりたい。なってあの人と結婚したい、という強い願望に衝き動かされていた。人間だった頃の思い出は急速に色あせていった。 わたしが一人前の雪女として皆に迎え入れられる日が来た。最後まで抵抗したあの女の子とわたしを、すでに成熟した捜索隊のメンバーを含むイエティたちが囲み、祝福した。それからそれぞれの配偶者が前に出て、婚姻の誓いを結び、そのまま「初夜」の契りに向かう、そういう段取りだった。 わたしはそのとき、これから永久に雪女として生きていくことへの喜びに包まれていた。しかし突如、わたしの心に人間としての意志が舞い戻った。わたしはイエティたちを振り払い、貴重な研究材料であるあのヒカリゴケをひとつかみ握りしめると、そのまま逃走した。イエティたちは唖然としていたが、わたしを無理に追いかけることはしなかった。彼らからは「仲間への信頼」の感情が伝わってきた。わたしはその感情に奇妙な罪悪感を感じながらも、頭の中の調査用の地図を頼りに、兄がわたしを捕らえた地点へ、そしてキャンプへと駆けていった。 兄に捕らえられたとき、わたしは兄に気付かれないように、ある「切り札」を使っていたのだった。 わたしは人類学のフィールドワークを進めるかたわらで、人体の「変身」に関する生理学の研究も続けていた。 わたしの仮説は、古代より伝わる人間の「変身」の背後には、人類の染色体上にある未知の遺伝形質の発現が関与しているのではないか、というものだった。仮説に基づいて、わたしは「変身」の生理学的メカニズムと、それを左右する脳内の分泌線を、あくまでも一つのブラックボックスとしてではあるが、特定し、その部位に作用する「逆変身薬」とでも言うべきものの試作品を完成させていた。 予測通りの効果が現れれば、この薬は変身してしまった人間を元の人間へと逆向きに「変身」させる働きがある。もし未変身の段階で服用した場合、完全に「変身」が終わった瞬間から「逆変身」が始まる。 変身した人間がいない以上、そして「変身」そのものを引き起こすすべを欠いていた以上、この薬の効能を検証する手段はなかった。しかし今回の捜索にこの薬が役に立つに違いないと考えたわたしは、この薬を何があっても安全な場所に収めて調査に向かった――すなわちわたしは、薬を入れた容器を秘部の中に忍ばせていたのである。 わたしは当初、兄に対してこの薬を投与するつもりだった。だが、兄の変貌を思い知らされ、そして、それなりに「幸せそうな」兄の姿を見てから、わたしは自分自身でそれを服用して、来るべき「変身」に備えることに決めた。そうしてわたしは、わたしを抱えて疾走する 兄に気付かれないようそっと膣内の薬びんを取り出し、服用したのだった。 人間の心は「未来」を志向し、先取りする。ひとたび肉体がイエティの心に向かい始めると、体より先に心が未来を先取りする。同様に、イエティの心にひとたび人間の心が戻り始めると、まだ心が十分に人間の頃と同じ状態に戻るはるか以前から、心全体が人間としてふるまうようになる。――わたしの二度の急激な「転心」は多分そんな風に説明できるだろう。 山を疾走し、キャンプに戻る途中で、わたしの肉体は急速に人間の体に戻りつつあった。体毛が減り、肉体の矮小化が進んだ。変身のための「経路」が一度切り開かれているため、進行が早まったのだろうと思えた。そして肉体の変貌と共に体内の熱が奪われ、恐ろしい寒さがわたしを包み始めた。筋力が減り、駆ける足の速度も遅くなってきた。 ようやくキャンプが見えたとき、わたしの意識は朦朧としていた。どさりとテントに倒れ込んだ全裸のわたしに、残り少ない調査隊のメンバーが気付いたらしく、飛び出してきた。仲間に抱えられながらわたしは意識を失った。 わたしが捜索隊唯一の生き残りとして生還して、もうじき一年が経つ。 この間わたしは、実質上わたしが「相続」する形になったアサートン家当主である兄の財産の整理と、生化学と人類学に属する、小さな論文の作成に追われていた。だがいずれの作業もようやく終わりを迎えた。 わたしは何通かの招待状を書き、それから旅支度を始めた。二通は生理学と人類学の指導教官で、二人ともその分野の権威である。いずれも最初はわたしを高く評価し、可愛がってくれたが、わたしが異端的な研究を始めて以来、距離を置かれるようになり、数年間連絡が途絶えていた。わたしも、もはや彼らを尊敬などしていなかったが、今のわたしには彼らの社会的地位が必要だったのだ。わたしは彼らに、わたしの招待自体を部外秘にすること、旅費と滞在費はすべてわたしがもつこと、さらにそれ以上の報酬も約束すること、を招待状で告げた。社会的名声の割に不遇をかこっている彼らが乗ってくるに違いない金額だった。もう一通は政界にも顔の利く世界的な製菓会社のオーナーで、兄の友人だった。家族ぐるみで懇意にしていた仲であったこともあり、兄の死の真相を現地で知らせたい、と伝えたら、すぐにオーケーの返事が来た。 一週間後、わたしは三人の招待客と共に、オブリモフ山の中でも比較的アクセスしやすい地域にある山小屋にいた。そこでわたしは自分の計画を彼らに話した。 「今回のこの旅行の真の目的について、わたしは皆様にお話ししないままここまで来ました。これからそれをお話ししたいと思います。 一年前の事故で、わたしは唯一の生存者として帰還しました。そしてローラさんと兄の遺体を発見した後、悪天候の中、私以外捜索隊全員がクレバスに転落し死亡したという報告をしました。囁かれてきたイエティの存在に関しては一貫して沈黙を守ってきました。しかし、今こそ沈黙を破り、皆様には虚言の罪を懺悔せねばなりません。実は、不幸な事故に巻き込まれたローラさんを除けば、兄も、捜索隊の内の誰も死んでなどいません。彼らはイエティに変貌してこの山の奥地で生き続けています」 兄の友人の顔には困惑が、教授たちの顔には嘲笑の色が浮かんだ。わたしは構わず続けた。 「わたしはイエティの集落で暮らし、何体かのイエティをインフォーマントとして、ごく簡略な人類学的調査を行いました。さらにイエティの生理学の秘密に迫る、特殊な生化学的物質の入手に成功しました。驚くべきことに、彼らの祖先はその物質によって寒冷な高地に適した肉体に変貌した人間であり、そしてその集落の成員の多くは、近年になって同じ物質によって イエティ化した登山者だったのです。英語によって簡単に意思疎通できたのも、それが理由です。 現在、捜索隊のメンバーはみなイエティとしての生活に満足し幸福を感じています。…そして、それは近い未来の人類の姿になるはずなのです。わたしもそれを選ぼうと思っています。ただ、わたしには、人類すべてをイエティ化させるための準備の時間が必要でした。そのため、未来の仲間に一年間の暇乞いをし、人間社会に戻り各方面での準備を整えました」 ――わたしは、誘拐による強制的なイエティ化、という実態には触れなかった。それは、人類のイエティへのいわれのない抵抗感さえなければ、本来は必要ない、やむを得ぬ措置に過ぎないからだ。 同じ理由で、キャンプに残っていた捜索隊のメンバーを、わたしが自分の排泄物で栽培したコケによって、本人の同意を得ないままイエティ化させ、イエティの集落へ導いたことにも触れなかった。彼らは結局、イエティ化した後、わたしの処置に深く感謝したからだ。 そしてわたしは、わたしが一度イエティ化した後に人間に戻ったことにも触れなかった。そのようなことが可能である、という知識自体をなるべく隠しておく必要があったからだ。だから「逆変身薬」の研究データと試薬すべても、とうの昔に処分しておいた。 わたしは話の核心に入った。 「気象学者の共通見解によれば、地球はそう遠くない未来、再び氷河期に見舞われます。わたしの尊敬する気象学者の研究では、その時期は予想されているよりもはるかに早く、十年以内に到来し、そしてその期間は二畳紀の大氷河期に匹敵する長く厳しいものになるのだそうです。人類はなんらかの手だてを講じねばなりません。そしてわたしの見るところ、イエティ化のみがおそらく唯一の賢明な選択肢なのです」 三人は困惑も嘲笑も通り越し、唖然とした顔でわたしを見ている。 「ここに、人間をイエティ化させる物質の分析結果をまとめた論文と、イエティの精神生活に関する論文があります。もうじきイエティになるわたしには、理解できなくなる文書です。これをもとに、皆様には、ある事業に加わってもらいます」 わたしの言葉に反応した生理学者が、ようやく言葉を発した。 「『もうじき理解できなくなる』とはつまり、イエティになると知能が低下する、ということかね?君は…よくわからないがそんな猿みたいなものに変わることが人類の幸福だというのかね?しかも君自身が、喜んでそんなものになろうと、そう言うのかね?」 「知能が低下するのではありません。知能の質が変化するのです。イエティはたしかに複雑な科学技術の理解、あるいは理論的思考全般を不得手とします。しかし彼らには、それを補って余りある豊かですぐれた倫理的素質があります。イエティは揺るぎない同胞意識によって結びつきあい、そして罪を憎んで人を憎まない、卓抜な公平さと倫理的分別を持ち合わせています。それは現在の人類には決して見いだされない、素晴らしい徳性です。 私見では、先の戦争での核兵器の登場に象徴されるように、科学技術のこれ以上の進歩は人類に不幸しかもたらしません。氷河期に抵抗しようとして、科学技術に頼り、有限な化石燃料を燃やしたり、危険な核反応を利用したりしても、人類の未来はそう長いものではないでしょう。 だからわたしは、アサートン家の財力をつぎ込み、今のうちに人類を総イエティ化するための計画の青写真を、この一年で完成させました。先生のお二人にはそれぞれ、技術部門と世間への啓蒙活動の部門の責任者になって頂き、社長さんには政策面と実働部門を担当して頂いて、計画を推進してもらいます。詳しい内容は三つ目の文書に記してあります。計画自体は我ながら周到なものだと思います。皆様はただその社会的な影響力を利用し、計画を実行して頂ければよろしいのです」 言うべきことを伝え終えるとわたしはドアの前に進み、衣服を脱ぎ始めた。三人の男性の反応に、もはや興味はなかった。そして全裸になると例のコケから抽出した文字通りの「秘薬」を口にした。あの懐かしい熱が発生し、すでに「経路」のできているわたしの肉体は急激にイエティ化の道を戻り始めた。用意しておいたカロリー補給用の食用油と水とを交互に飲みながら、わたしはかつての恩師に別れを告げた。 「それでは、わたしは懐かしい仲間の元に帰ります。皆様の飲んだコーヒーには、この秘薬を薄め、調整したものを混ぜさせてもらいました。心身の変化は緩慢に、一年ほどかけて進みますが、「同胞愛」だけは急速に芽生えるはずです。そろそろ皆様も、人類のためではなく、 イエティの利益のために行動したくなってきているはずです。同じ方法で仲間を増やし、速やかに計画を進めて下さい。一年足らずしかありませんからね。 ――それではまた、いつか、氷河期の世界で、お会いしましょう!」 いつの間にか穏やかな仲間意識を湛えた目でわたしを見始めていた三人の男性はわたしの依頼を快諾し、涙を流してわたしを見送ってくれた。わたしは豊かな毛に覆われた太い足で雪を踏みしめ、兄と愛しい婚約者の待つ、あの集落へ全速で駆けだした。 ――二十一世紀に生きる読者諸氏には周知のように、その後氷河期は到来せず、地球はむしろ温暖化に向かっているという。 ビオレッタの計画が成功していたならばどうなっていただろう? 総イエティ化した人類は、生命を脅かす温暖化に抗する科学技術を失い、緩やかな滅亡の道を歩んだだろうか?それとも、科学技術を失った時点で、温暖化自体が発生せず、むしろビオレッタが尊敬していた気象学者の言うとおり、地球はイエティに好都合な環境に向かっていたのだろうか? それは誰にも分からない。なぜなら、人類を救う使命を胸に秘めた三人の男性は、帰路の飛行機の墜落によって帰らぬ人となり、ビオレッタの準備した計画も、日の目を見ないまま埋もれていったからである。 だが、それらの問い自体、雪女となったビオレッタにはもうどうでもいいことだっただろう。イエティはそのような遠い未来のことや「もしも」の可能性には気をもまない生き物なのである。イエティ化による人類救済、という計画も、たしかに人間ビオレッタには大きな関心事であったが、雪女となったビオレッタには何の関心もひかないものに変じたはずである。そして彼女は、兄や兄の嫁や愛しい夫と共に、オブリモフ山の片隅で子をもうけ、ときに登山者を誘拐しながら、ほんの少しの仲間を増やしつつ、幸福に生きたに違いない。
<了>
(2007/11/28「【異形化】人外への変身スレ第二話【蟲化】」に投稿)
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