2012-11-09
死にたいにゃんSS-2
僕は火星へ行く。
火星へ、あのヴェネツィアの残り香へ、僕を乗せた宇宙船は宇宙の茫漠な虚無の中を弧を描いて飛んでいく。
現実感の無い、緩やかな倦怠感の中で、向かい合った女の子を見た。
「何?」
「いいや、なんでも無いさ」
そうやって笑ってやると、彼女は少しだけ不愉快そうな目線を僕に向けた。
まるで何にも思っていないかのように、そこには小石一つ、根を張るものひとつ無いかのように、彼女は宇宙の外側を向いて黙り込んだ。
まるで打てば響くかのように取られる不快さの表明は、僕にとって少しだけ新鮮に思えた。
「君はさ、何であんな辺鄙な土地へ行くんだい?」
「話しかけないでちょうだい。私は今音楽を聴いているの。今いいところなんだから」
「いいだろ。そんなの何時だって聞けるさ」
「良くないわ。この宇宙船で、火星につくまでの間に聞くことに、この曲は意味があるの」
ため息と共に、まるで観念したかのように彼女はイヤホンを外して僕に向き合った。向かい合わせのようになっている薄紅色のソファーに深く腰掛けて、今ではもう誰もすわなくなったような銘柄の煙草を一本取り出して火を付けた。
「私はね、火星で生まれたの。地球に行けば、いいことがあると思った。でも何も無かったから、こんなものしか、いつか思ったの。私は、結局思い出一つ一つ埋めていくしかないんだって」
「興味深いね。生憎、僕は地球から出たことがないからその気持ちがわからないや」
「ふうん。そんな感じね。あなた、そんな感じがするわ。ぬるま湯の中で、きっと何も、目に入るなにも起こってないって顔をして、誰かが泣き叫んでも、誰かが辛い思いをしたって、きっとあなたは気づかない」
「会ったばかりなのに、そこまでわかるのか」
「わかるわよ。ええ、すぐわかったわ。だってあなたみたいな人間が嫌になって、私は火星に帰るんだもの」
彼女は苛立ったように灰皿に煙草を押し付けて、新しい一本をケースから取り出した。
昼と夜の概念が相対的になった世界で、もう既に意味の無くなってしまった機械仕掛けの時計が八時を指した。
淡い音の点灯と共に、乗務員が運んできた食事を口にした。
僕はクラムチャウダーを、彼女は紅茶の味のするスティックを何も言わずに食べた。
二人とも何も言わない。
人工的な集積物に囲まれた中で、ただひとつ生物である事を主張する咀嚼の音が響く。
僕はメモ帳を取り出して、そこに書かれた文章を見ながら、思考を巡らせた。
あの海岸線に張り巡らされた電波塔のこと、あの日の黒色の雲の行方、僕を残して消えたメンヘラが、最後の瞬間に言った言葉。きっとこれからも、こうやって一つずつ考えて、それでも何かの拍子に増えていく言葉を大切なものを扱うような手触りで、一つ一つ撫でていた。
「ねえ」
「なんだい」
「あなたの事もしゃべってよ。私ばかりしゃべってたたら、まるで馬鹿みたいじゃない」
「何かって、何を? 僕には人様に話すような何者も無いんだ」
こればっかりは本当で、僕には何も誇る事が無い。
変節も、裏切りも、何でもやった僕には、僕として語ることがないと、その時の僕は思っていたんだ。
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないさ。それより僕にも煙草を一本くれないか。君が吸っている所を見たら、どうしても吸ってみたくなったんだ」
「馬鹿みたい。馬鹿馬鹿しい」
「なんとでも言いなよ。言われなれてるしね」
彼女口元を手で押さえて、そこで少し微笑んだ。
「初めて見た」
「何が?」
「君が笑う所」
「あなたみたいな人は始めて。しみったれて、死んだような瞳をして、それでもただ生きて、石や木のように、何も感じない人間ばかりだと思ってた」
「よくそう言われたし、そんな地球の人間の中でも、僕はとびっきりそうなんだ」
「へえ、そうなの」
沈黙。
今度のそれは重苦しいもので、耐え難いほどに喉が渇くほどでも、静けさの中の沈黙に焦がれるほどのものでもなんでもなく、柔らかくて、声を出していない只中にあるような、ただそれだけのものだった。
「あなたの名前を聞かせて。きっと火星に行っても、私はあなたに会いたいわ」
「僕の名前かい? 僕の名前はいっぱいあるんだ。生まれたころに付けられた名前は、多分思い出の洪水の中に残してきたんだ。砂浜に着きたてたおもちゃのスコップと一緒に、波打ち際にあったそれは流されてしまったんだ。二つ目についた名前も、三つ目についた名前もそうだ」
「詩的な表現はいいの。だってあなたはこの宇宙船に乗れているんでしょう? 名前が無いはずなんてないわ!」
「そうだな。ここで君にであった事で、僕の中に生まれた連続的な変化が、名前をきれいさっぱり消し去ってしまったんだ。だからここで僕はこう名乗ってもいいと思う」
そうやってメモ帳を取り出した。
斜線。文字。笑顔の女の子の絵。
夥しい密度でボールペンのインクが塗られたページを一枚一枚めくり、途中の、ある瞬間からまったくの白が広がるページを開いて、そこに一行書き加えた。
「僕は死にたいにゃん。そうだ、僕は死にたいにゃんだ。ここで生まれ、この宇宙船の中で死んでいく存在。そう、僕は死にたいにゃんだ」
一瞬の空白の後に生まれた喧騒。
騒がしい男たちの乱入する宇宙船。そこで僕は足を組んで、彼女からもらった一本の煙草に火をつけて、耳元で流れる音楽に聞き入った。
その曲のタイトルは、光の旋律。僕がずっと好きだった曲だ。
「火星までまだちょっと時間がある。だからもう少しだけ、死にいく僕ともう少しだけ話をしよう」
蒼ざめて、冷たくなってしまいそうな彼女に僕はそう話しかけて、喉の奥に広がった煙を思いっきり吐き出した。
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