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高浜虚子と心の闇

2012-12-23

abc 1

22:10

1

 飛行船が空を飛ぶ。

 学校帰りに階段を上った先の神社から、海沿いに建てられたステーションから打ち上げられた飛行船が、紅に染まった空と雲を突き抜けて登っていくのを何時も見ていた。

 宇宙と地球が近くなってから数百年。

 既に人類は手軽に近隣の惑星までいけるようになって、それからどうなったかというと、また少しだけ離れた。

 遠くへいったところでここと変わらないと、そうやってみんな言うし、僕の周りの大人もそう言っている。つまるところ、ぼんやりとした自覚の無い停滞感だけがある。

「宇宙には希望がある」

 古びた考えだけどね。と、少しだけ恥ずかしそうに笑う祖父の顔を、ちょっぴりの羨望を込めたその言葉を、僕は登っていく宇宙船と、その先にある星を見るたびに思い出す。

 結局、人間は宇宙へと近づいたのだろうか。ほかの何かになれたのだろうか。

 それはきっと何も変わらないと思う。

 何かが、ここでは無い何かで、きっと何者かになりたかった人たちは海を渡って、空を駆けて、それでも何も変わらなかった。

 だから僕は空を望む。

 階段の段差に腰をかけ、紙パックの牛乳を啜りながら、変わらない毎日の中で何かを望むように僕は空を見上げた。

 ふと思いついたのは、ここではない何処かへと消えたがっていた、あの日の彼女の顔だった。



2

「ここは薄汚い場所で、私のいるべき場所はきっとここじゃない」

「だったら? 本当の自分は何処にいるのさ」

火星

火星?」

 がらんとした図書室の、陽の当たらないカウンター席に並んで座った僕たちは、いつもこんな下らない会話をしたり、本を読んだりして時間をつぶしていた。

 たまたま図書委員になってしまった僕たちは、こうやって用事のない放課後の時間をつぶすことに慣れきっていた。

 こんな図書館にやってきて本を借りるような物好きは、わざわざ僕らに尋ねるまでもなく借りる方法を知っている。

 長い黒髪を耳にかけ、彼女はかばんからノート型のデバイスを取り出して開いた。

 凛とした、年相応にはとても見えないような醒めた目つき。軋むように細い体躯に、彼女は見合わないような奇妙な性格の持ち主だった。

火星には何だってある。私の欲しいものだって、本物の私だって、そして私の事を見てくれる人だって」

「都合のいい妄想のように見えるけどね」

「あら、事実だもの」

 キーをタイプする音が静寂の中に響く。

 クリーム色の背景の中で、彼女はいくつかの文面に目を通して頬を緩めた。

「誰とメールしてるの? 彼氏?」

「そんなくだらないものじゃないわ」

「下らない、ね」

 ディスプレイを少しだけ僕のほうに向けて、写真をひとつひとつスクロールしていく。

 くすんだりしていない、完全な青。水に沈んだ都で、誰もが笑顔を浮かべて暮らしている。

 夕焼けに沈む海、水路にかかった石造りの橋、ゴンドラを漕ぐ華奢な手。

「これは、火星?」

 彼女はにやっと笑って、僕の方を見た。

 まるで悪巧みするような表情で、うちに秘めた何かを閉じ込めておくことが我慢できそうにないという表情で僕を見た。

 火星

 それは近くて、それでいて遠い土地。

 人類がいつか夢見た宇宙進出のきっかけとなった土地で、地球と宇宙を決定的に分つ事になった原因。

 端的に言ってしまえば、地球の人間はおいていかれたのだ。

 緩慢な死の中に、やがて朽ち果てるものの中で、完成された構造物の中で、僕たちは何も成し遂げることなく死ぬ定めを受け入れさせられる。

「うん。たまたま知り合って、私にメールを送ってきてくれるの。この人はずっと地球に住んでいたんだけど、特例が降りて火星に行く事が出来たの。彼女は言ってたわ。地球にはないものが、火星にはあるって。そして何かに初めて成れたって。私は彼女に似ているの、だから私は彼女に近づきたいと思っている。私は何かになるの。火星で、こんなちっぽいけな場所で、下らないしがらみで埋没していくことだけじゃなくて、私は何かにならなきゃいけないの」

「わかっている。けど君は彼女になれない。だってそんな許可は特例なんだろう? 普通は降りないさ」

「わかっている。わかっているわよ」

 そういって彼女は爪を噛んだ。

 夏の終わりの、少しだけ冷たくなった空気が静寂とほどよく交じり合って、刺した影が青白くあたりを多い尽くす。

 僕は立ち上がって、骨董品めいた本の棚に向かった。

 そこにはもう廃棄予定の本がつみあがっていて、確かそこにあったはずだ。

「ええっと、これだ。火星の歴史」

「え?」

「やっぱりさ。着の身着のままにいっても、何も始まらないと思うんだよ。僕はこの本を何度も読み返して、授業でやる何倍も勉強した」

「え、あなたも?」

「うん、いや、僕は少しだけ違うかな? けど僕たちの望みは同じだ。火星に行く。火星にいって、何かになる。ただそれだけだ。だから、もっと火星を知る事からはじめよう。それからでも遅くないだろう?」

 出来る限り自然な笑みを作って彼女に笑いかけた。

 僕は以前にも見たことがある。

 何かになりたくて、火星に行こうと思っている女の子を。もしかしたらメールをしている相手が、その子だったのかもしれない。

 彼女は絶対に誰にもなれない。

 生きていないのだから、生きることなんて出来ない。取り巻いているすべてだって、輝いているはずの何かだって、磨耗した感性に働きかける何かがあると思うんだ。

 つまり彼女たちには当事者意識がない。

 劇場で、ステージの下で、何かを見たからといって、彼女が主役になることはない。

 同情や感情移入を超えた何かを彼女は求めている。

 必然的に訪れる自分を、彼女は求めている。だけどそれは永遠に訪れない。

「行こう。火星へ。何年かかったっていい。何年かけたっていい。僕たちは火星へ行くんだ」

 だから僕は彼女の手をとる。

 彼女の手をとって、自分を植えつけるための苗床として彼女を利用する。

「ありがとう」

 透明な何かが頬を流星のように流れ落ちて、僕は冷め切った頭でその光景を見ていた。

 ただ、それだけの話だった。

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