HOME >> 日本フレーバーの軌跡
| 1911年 明治44年 | 山崎喜久太、横浜にて国内初の国産エッセンスを製造 【 時代背景 】 明治32年以降、我が国における清涼飲料、製菓産業は盛んになりましたが、フレーバーを始め、殆どの原料は輸入に依存しておりました。明治という時代は、外国でできるものが日本でも出来ないものかという国内勧業振興思想の旺盛な時代でした。そのような気運の中、山崎喜久太は持ち前の高い化学知識を活かし、国内初の国産のエッセンスの製造を始めました。 |
|---|---|
| 1912年 明治45年 | 山崎喜久太、山崎香料店を横浜にて創業 果実エッセンスの製造販売を業としました。その3年後に世界大戦に突入。 戦局が長引くにつれて輸入品の入荷が困難になり、国産品を扱う山崎香料店は商売繁盛となりました。 |
| 1936年 昭和11年 | 広島県大芝に大芝農場を開設 原料の柑橘精油を生産するために、国内初のレモンの栽培を企業化させました。 翌年には横浜市に柚園を開設。 |
| 1939年 昭和14年 | 尾道工場設立 レモン栽培農業のある広島県尾道市に工場を設け、同じ年に「山陽果工株式会社」を設立し、 「山崎香料店」の果実加工事業を継承しました。 |
| 1941年 昭和16年 | 「山崎産業株式会社」と社名を変更し、製造したエッセンスを主に満州へ輸出。 |
| 1944年 昭和19年 | 有限会社日本フレーバー研究所を設立 |
| 1950年 昭和25年 | 「日本フレーバー工業有限会社」を「日本フレーバー工業株式会社」に組織変更 |
| 1955年 昭和30年 | 第1回 フレーバーショウ開催 業界紙12社の協賛のもと、東京都産業会館を皮切りに、全国9会場にて開催。 その後第5回(昭和34年)まで続く。 【 時代背景 】 昭和30年代前半、日本のフレーバー業界にとって大きな変換期となりました。戦後に生じた物資不足に乗じてブームを起こしたイミテーションの飲料や菓子に飽きた消費者が、より高級な食品へと嗜好を広げていきます。この消費者の要望に応えるべく、各メーカーが暗中模索を続けていた時期でもありました。 |
| 1956年 昭和31年 | 月刊『フレーバー』創刊 1966年12月1日発刊の81号まで 1956年に渡英した故高田精一郎会長は、戦前『FLAVOUR』なる雑誌を創刊していたフレーバー技術研究会、W.R.Littelejohn氏と親交を重ねるようになりました。故高田会長は廃刊になったままの『FLAVOUR』誌を日本で出版したいと相談し、月刊『フレーバー』を創刊。フレーバー技術研究会は他に、フレーバー技術に関する調査研究、研究会・講演等の開催、関係図書の刊行、研究援助等も行っておりました。 フレーバー技術研究会で使用されたテキスト |
| 1961年 昭和36年 | フレーバー試作実験設備付き宣伝カーの導入 各種試作実験設備を備えた宣伝カーを導入し、お客様のもとへこの実験カーで訪問し、フレーバーの使用方法等を説明しました。 |
| 1966年 昭和41年 | 故高田精一郎会長、「フレーバー その科学と技術」を月刊『フレーバー』に連載開始。 |
| 1967年 昭和42年 | 隔月刊『ニューフレーバー』を創刊 1966年12月1日発刊『フレーバー』81号の後を引き継ぎ登場。 |
| 1971年 昭和46年 | 第1回フレーバー技術セミナーを開催 西宮工場内にフレーバーショールームを開設。 テーマ「フレーバーと和洋菓子」 |
| 1972年 昭和47年 | 故高田精一郎会長・著『フレーバー その科学と技術』19世紀編 刊行 ¥1,800 中国・ヨーロッパ・日本の食物、柑橘の歴史からフレーバー科学の誕生、日本のフレーバーの初期までを詳述。 ¥4,000 道修町の発展、日露戦争の科学史観、合成香料化学の離陸と日本の関わり、日本の菓史まで。 ¥5,000 戦前戦後の日本を取り巻いていた社会情勢や、関東大震災後に生まれたフレーバー産業の人物史。 |
| 1996年 平成8年 | 月刊『ニューフレーバーフェニックス』創刊 |
| 2012年 平成24年 | 10月 創業100年 |