抗う:原子力発祥の地で/3 変革へ、大衆の声届ける 女性参加、新たな兆しも /茨城
毎日新聞 2013年04月05日 地方版
<抗(あらが)う>
「原発は毒。我々には、次世代によりよい社会を残していく責任がある」。3月29日、日本原子力発電茨城総合事務所前。県庁から退庁してくる職員や県開発公社ビルに買い物に来る人々が通りかかる中、石岡市の大工、小山省悟(61)は抗議の声を上げた。傍らには妻の律子(62)がいた。
昨年9月ごろから、石岡市内から車で約1時間かけて抗議行動に参加している。律子から「みんな来てるから行こうよ」と誘われたのがきっかけだ。
当初は70人程度集まっていた原電前抗議行動も、最近は30人台にとどまる。足早に通り過ぎるサラリーマンも多い。それでも小山には「行動する人がいる。その後押しになりたい。集まって市民が声を上げないと社会は変わらない」という信念がある。視線の先には、行動の中核を担う女性たちの姿があった。
律子も3月10日、東海村であった講演会「原発に頼らないまちづくりは可能!」に参加し、同村の女性たちが協力し合って活動を続けていることに、自信を深めたという。「若いお母さんが声を上げ始めている。原発事故前とは変わった」
同村の再処理工場建設反対運動に関わり、73年の東海第2原子力発電所の原子炉設置許可取り消しを求める訴訟の原告団にも加わった根本がん(80)は、当時を振り返って言う。「自分たち市民の力で対話し運動を作っていくことができなかった」
動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)が再処理工場の安全審査を国に申請した2カ月後の68年10月。「水戸対地射爆撃場返還・再処理工場反対」を掲げる市民大会が勝田市(現ひたちなか市)で開催され、約5000人が参加した。同じころ根本は再処理工場反対のビラを阿字ケ浦から東海村まで配布して歩いたり、講演会を開催したりした。しかし「市民的な広まりにはならなかった」という。
当時、市が主催した市民8人と川又敏雄市長による再処理工場を巡る座談会では、こんな会話が交わされた。
区長「恐ろしさがピンとこない」
農家「反対しても結局は造られてしまうという意見が反対意見を抑圧している。反対する人を思想的に見るということがある」