空庵つれづれ

宗教学と生命倫理を研究する中年大学教師のブログです。



話題は、日々の愚痴から、学問の話、趣味(ピアノ、競馬、グルメ)の話、思い出話、旅行記、



時事漫談、読書評、などなど四方八方に飛びます。


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昔はよくテレビでNHKの相撲中継を観ていたが、最近はさっぱり観ないので、

幕内力士でもずいぶんと知らない相撲取りが多くなった。

そんな中、例の朝青龍問題、時津風部屋の力士死亡事件などで、ワイドショーに

頻繁に登場するのが下のお二人。

言わずとしれた、

北の湖理事長(元横綱北の湖・左)と高砂親方(元大関朝潮・右)である。

北の湖理事長
高砂親方

ちょうど、私がテレビで最もよく相撲を観ていた、高校生から大学生にかけての時期

というのは、いわゆる 北の湖全盛時代 であった。

史上最年少横綱、幕内50場所連続勝ち越し、横綱勝星数など数々の大記録をもち、

そのあまりの強さに、「憎たらしいほど強い」と言われていた当時の横綱北の湖であるが、

対戦成績から言って最も苦手にしていたと思われる力士が、右の 朝潮 である。


なにしろ、あの強い北の湖が、本場所の対戦では朝潮に7勝13敗(うち1つは不戦敗)

と負け越しているのだ!

理由はいろいろ噂されているが、かなり大きいのは、朝潮の 
立ち合いまでの超スロー・マイペース にあったのではないか、

と私は思う。

派手にいっぱい塩をまくことで有名だった水戸泉(朝潮の部屋の後輩)など、大体

高砂部屋の力士は、立ち合いに至るまでのスピードが遅い力士が多い。


朝潮も、顔をぱちぱち叩いたり、まわしやお腹を叩いたり、歩くのはのそのそ、

仕切りに入ってからも相当動作がのろいタイプだった。


気の短い北の湖は、これにかなりイライラしていた様子が、実際の取り組みの映像を

観てもよくわかる。

それで、立ち合いのペースを相手に乱され、しかも「自分は横綱だからドンと受けて

立たねばならない」という責任感(=横綱の美学)が強かった北の湖は、自分が不十分

なまま立ち合いに臨むことが多く、それで朝潮のペースに嵌ってしまたのであろう。

(ふつう、北の湖の前に出ると、そんなにふてぶてしくマイペースで仕切れないものなの

だが、朝潮の強心臓、マイペースぶりは群を抜いていたとも言える)


もう一つ言えるのは、朝潮が、北の湖とは違う一門(相撲部屋の集合体)の力士なので、

一門の連合げいこなどであまり顔を合わせていなかった、ということが両者の心理上、

大きかったのではないか、ということだ。

北の湖は、もちろん本場所でも思いっきり強かったのであるが、

稽古場での強さはそれ以上だった とよく言われている。

並み居る幕内・三役力士たちが、まるで幕下か三段目の力士のように

北の湖にバッタバッタところがされているところを見て、「この横綱に勝てる力士など

いるだろうか・・・」と皆が思うほどの強さだったようだ。


それゆえ、当時、北の湖と同じ出羽海一門(出羽海・春日野・三保ヶ関の三部屋、当時

上位力士の数が最も多かった)の力士などは、稽古場でこてんぱんにやっつけられて

いるため、北の湖を顔を見るだけで萎縮して、とても本場所で「勝てる」などとは思えなか

ったようである。

事実、朝潮のような別の一門の力士にはポロっと負けることがあっても、

北の湖は、同門の力士(同じ三保ヶ関部屋の増位山(元大関)以外は本場所で対戦が

あった)には、ほとんど無敵だったのである。

そんな中、

同じ一門の春日野部屋(元横綱栃錦の部屋)に、対照的な二人の力士がいた。

栃赤城 と 栃光 である。


二人とも、将来は大関、と嘱望された力士であったが、

「栃赤城」が同門ではただ一人、と言っていいほど、本場所で北の湖を何度かやぶり、

常に善戦していたのに対し、「栃光」は本場所での対北の湖戦29戦全敗、という

不名誉な記録を残したぐらい、北の湖にはまったく歯が立たなかったのである。

(あまりにも実力の違う力士同士は、本場所で対戦するということもないわけで、

29回も対戦して、片方が全勝、などということは普通はありえないのである)


まず、栃赤城であるが、


当時の相撲ファンなら、「ああ、そう言えば・・・」と覚えている人が多いだろうと思う。

その柔らかい身体と運動神経を駆使して、土俵上で動き回り、

「土俵上のサーカス男」と異名をとった力士である。
彼が勝った時の決まり手がまた面白くて、「寄り切り」「押し出し」「上手投げ」「はたき

込み」といった通常よく目にする決まり手はほとんどなく、「すそ払い」「逆とったり」など

めったに見ないような技が多かった。

栃赤城は、相撲取りの間では「変人」として有名で、

趣味はクラシック音楽(バロック音楽が特に好きだったようだ)とオーディオ。

いわゆるタニマチとの付き合いも嫌いで一切しなかったらしい。

(彼が、大関まであと一歩のところまで行った有名上位力士であるにもかかわらず、

年寄り株を取得できなかったのはこれが原因らしい。そのため、怪我で持てる力が

まったく発揮できなくなって以後も引退せずに、幕下に落ちてまでも相撲をとり続けた)



もう一方の栃光は、


いわゆる「エレベーター力士」の典型のような相撲取りであった。

幕内中位~下位ではめっぽう強く、10勝以上の勝ち星をあげられるのだが、

三役や幕内上位に上がるとほとんど勝てず、幕内番付の上位と下位を行ったり来たり

するので、「エレベーター」と呼ばれるのである。

(逆に言うと、他の力士の実力を測るのにもってこいの力士であり、いままで勝てなかった

栃光に勝てるようになれば、その力士は相当力をつけた証拠であり、すぐにでも大関が

狙える力士だ、ということがわかるわけだ)


この栃光も、結局(同期だった)北の湖に一度も勝てないまま、だんだんと力が衰え、

十両に落ちて(しこ名を本名の「金城」に戻し)、しばらくして引退した。


引退後、

栃赤城の方は、実家の呉服屋を手伝っていたようだが、

43歳の若さで、心筋梗塞で急死。ゴルフのプレー中だったという。


もう一方の栃光は、ちゃんこ屋「栃光」を経営していたようだが、

49歳のときに、同じく心筋梗塞で急死している。


運命、と言えばそれまでだろうが、

人生の悲哀 を感じざるを得ない二人の最期である。



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