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thessalonike5
「立憲主義」の言説が幇助する橋下徹の憲法論のデマ
憲法改定の動きが活発になり、96条改定をめぐる論議が佳境を迎えている。この情勢について観察と検討を加えたいが、まず、今日の
天声人語
に注意を惹く情報があった。橋下徹が自らの憲法観を維新の所属議員に次のように語っている。「憲法というのは権力の乱用を防ぐもの、国家権力を縛るもの、国民の権利を権力から守るものだ。こういう国をつくりたいとか、特定の価値を宣言するとか、そういう思想書的なものではない」。この見解を捉えて、朝日の論説記者は、「憲法とは何なのかというそもそもの問いへの通説的な答えである」と言い、「橋下氏のいう立憲主義的な発想は公明党も民主党なども共有するが、自民党はかなり異質である」と評価している。この議論の中に、いわゆる立憲主義の言説の問題性が端的に現れている点を指摘したい。ここで、朝日は明らかに長谷部恭男的な立憲主義の立場に立っている。そして、橋下徹の主張を自らと同じ立憲主義だと言い、「通説的」だと肯定している。さて、この認識は正当なものだろうか。考えなくてはならないのは、日本国憲法は、橋下徹の言うように、「こういう国をつくりたいとか、特定の価値を宣言するとか」を書いた文書ではないかということだ。前文を一読すれば答えは明瞭だろう。憲法は、戦争のない平和な国家を建設すると宣言し、高らかに平和主義を謳っている。平和憲法という代名詞が付される由縁だ。(橋下徹的な表現に即して言えば)明らかに「特定の価値を宣言」している。
橋下徹と橋下徹に共鳴しているマスコミの右翼論者は、「価値」という日本語を頻繁に使う。そこに、本来なら「政治思想」とか「政治原理」とか「社会理念」とか「イデオロギー」の語で指さなくてはいけないものを、何でもかんでも「価値」なり「価値観」の語に押し込んで乱暴に使い回している。正確な意味を正確な用語で示そうとせず、単純化した大雑把な日本語で代替させて済ましている。これは、橋下徹や維新の面々の知的水準の低さを窺わせる一端ではあるけれど、注意しなくてはいけないのは、そこにオーウェルの「1984年」に登場したニュースピークな言語操作の作為があり、「政治原理」や「社会理念」や「イデオロギー」の語を大衆の意識から抹殺し、概念そのものを希薄化させる狙いがあることだ。おそらく、彼らは意図的にやっている。橋下徹と橋下徹に追随する右翼マスコミが言い散らすところの、「価値」と「価値観」の語法に警戒を促したい。元に戻って、結論から言えば、橋下徹が説明するところの、憲法とはこういう国をつくりたいとか、特定の「価値」(政治思想・社会理念)を宣言するとか、そうした類のものではないという断定は、嘘でありデマである。事実と明白に相違する。憲法は
前文
において、フランス人権宣言以来の人民主権を人類普遍の原理として定置し、パリ不戦条約を平和的生存権の確立にまで徹底させたラディカルな平和主義が宣言されている。まさに特定の思想が宣言された思想書だ。
およそどの国の憲法でも、この国をこう建設するという理念が例外なく打ち立てられている。橋下徹の言説の意図は、現在の日本国憲法から理念性の中身を消し、憲法一般の表象をスリ替え、理念の宣言書たる憲法を否定して無機質化するところにある。特にこの男が否定したいのは、9条の思想や25条の思想だろう。橋下徹のこの憲法論が、デマであり、狡猾な欺瞞の言説であり、危険で悪質な政治目的を孕んだ議論であることは、ここまでの説明内容で十分ご理解いただけただろう。だが、問題なのは、その橋下徹のデマを「立憲主義」だと言って評価し、「通説」だ「常識」だと言ってお墨付きを与えている朝日の論説である。否、事は朝日の記者の無神経や不注意に止まらない。朝日の記者がどれほど憲法に無知でも、憲法が絶対平和主義の理想を強烈にメッセージし、それを日本国民の決意として確定した宣誓の文書であることを知らないことはないだろう。しかしながら、その朝日の記者が、橋下徹の主張に(まんまと騙されて)頷いているではないか。何故そのような倒錯が起きるかと言えば、そこに「立憲主義」の語のマジックがあり、観念の惰性と拘束があるからである。「立憲主義」の表象と観念が、橋下徹のデマと詭弁に盲目となり、それを正論だと認めてしまうのだ。私が、長谷部恭男やマガジン9条を批判しながら、「立憲主義」の言説を検証する必要を執拗に訴えているのは、こうした実害があるからであり、それに無自覚な者が多いからだ。
「立憲主義」の言説は、憲法のラディカルな思想性をスポイルする。巷で一般化している「立憲主義」の強調が、憲法の中にある、決意や祈念や宣誓といった人間の主体的契機を稀釈し、それら精神のコミットメントの要素を曖昧にしている点は決して否定できない。「立憲主義」の言説を認めてしまうと、結果として、憲法の持つ原理性や理念性が剥奪され、何か無味乾燥な、生身の市民にとって疎遠な官僚法典に性格づけられ、恰も市民生活には直接には無関係の、市民には無関心でよい存在へと意識が誘導される。つまるところ、橋下徹的な憲法の捏造と歪曲を正当化する機能がある。現在、私は樋口陽一が1995年に書いた
論文
に遡って、「立憲主義」の言説と動機を追跡する作業を試みているが、やはり、護憲学者のはずの樋口陽一自身が、憲法からラディカル・デモクラシーの思想性を抜き取り、人間主体の精神性を捨象した疑いは拭えない。憲法の概念における一要素でしかない「権力の制限」のみを極端に浮き上がらせ、その方法で憲法を再定義し、その言説を広めて行った張本人は樋口陽一だ。迂闊にも、私はこれまで、その事実を知らないままでいた。脱構築主義の過誤と弊害を言い上げ、社会科学の変質と堕落を糾弾しながら、それが護憲派の憲法学にまで及び、左派の市民言論に浸透し、憲法認識を変えてしまっている問題を見逃していた。急に「立憲主義」の言説が流行になった状況に戸惑い、素人の抵抗を呟くのが精一杯だった。簡単に言えば、これは護憲派の憲法理論の変節としか言いようがない。
この問題は、また別途、樋口陽一の論文に即して中身を明らかにし、そのイデオロギー性を批判することにしたい。憲法の本質は立憲主義であるという考え方だけが一人歩きし、憲法が没理念的な法典表象で固められて通念として定着すると、憲法改定に対する危機感や不安感が市民の中で薄れざるを得ない。橋下徹も「憲法は国家を縛るもの」と言い、朝日も民主党も同じことを言い、長谷部恭男がそう言い、樋口陽一がそう言っているのだから、この正論は普遍的なもので、橋下徹と樋口陽一の憲法観は同じだという見方になる。したがって、条文が少し変わったところで、立憲主義の憲法たる基本は不変なのだから、条文を少し改変しても特に大きな不都合はないではないかという発想に行き着く。頑固に反対するのは左翼で、一言一句守り抜けというのは時代遅れの左翼だという感覚に導かれる。自民党的な、愛国や国防や親孝行を徳目として説教し、国民の義務として上から押しつける古色蒼然たる憲法でさえなければ、立憲主義であれば何も問題はないという安心感が醸成され、それがミニマムの改憲合意のような空気ができて、改憲を容認する世論として既成事実化されるのだ。実際には、橋下徹の「立憲主義」は言葉だけで、その狙いは9条の廃棄であり、現在の憲法とは全く違う中身に作り変えることである。大阪の学校や役所で思想調査と口元チェックに勤しみ、労働組合を迫害し弾圧している橋下徹が、日本国憲法の人権カタログをそのまま継承するとは到底思えない。が、徴兵制施行を言い、市職員の思想信条の自由まで傲然と奪い取って開き直る橋下徹を、「立憲主義」の語は「常識のある憲法論者」に浄化してしまうのだ。
「国家権力を縛るもの」の常套句は、こうして朝日に橋下徹を正当化させ、橋下徹の正体を隠し、極右の憲法論者を左派のそれと同一視させる錯覚を生じさせるのだ。人々が「立憲主義」のシンボルに即けば即くほど、安易に「立憲主義」の語に頷けば頷くほど、日本国憲法の基本思想はスポイルされ、憲法のラディカル・デモクラシーは左翼のレッテルを貼られて不当視され、排撃され、右翼が策動する改憲が正当化されることになる。今、「立憲主義」は改憲を押し進める側の道具になっていて、それを阻止する武器にはなっていない。政治情勢の方に目を移すと、その橋下徹が4/9に官邸で安倍晋三と
会談
、96条の改定で一致した。早速、自民党の保利耕輔(憲法改正推進本部長)が、96条改定の国会発議について、参院選前でもいつでも出せると
発言
、今国会での憲法改定案提出の意欲をマスコミの前で吹聴した。これは、96条改定に慎重な公明党への揺さぶりで、参院選前に96条改定に賛成の立場に転じないと連立を切るという脅しだろう。公明党の中にも、
漆原良夫
のような96条改定に賛成の右翼もいる。3月に公明党の党内で暗闘が続いたようだが、結局、漆原良夫を使って公明党を改憲に転ばせる安倍晋三の策動は頓挫したようで、
山口那津男
は、96条改定は参院選の争点にはならないとの立場を崩していない。4/9に安倍晋三が橋下徹を呼んで会談したのは、公明党に対する示威と圧力の政治だろう。NHKの
世論調査
では、96条改定に賛成が39%、反対が21%となっているが、このところ、テレ朝の報ステなどで憲法の最高法規性が説明され、反対論の方も徐々に高まっている。
「中身をどう変えるか明確にしないのに、改正要件のハードルを下げる手続だけ先行するのはおかしい」、「国会で過半数取った勢力が自由に改憲できると、コロコロと無闇に変えられてしまい、最高法規たる憲法の意味がなくなる」といった意見である。このNHKの賛否の報道は勇み足で、もう少し両者が拮抗する数字になるだろう。橋下維新の支持率が低下の傾向にあり、そのことも少なからず96条改定の政治に影響すると思われる。
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thessalonike5
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2013-04-11 23:30
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Commented by
mori
at 2013-04-11 19:20
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護憲派の言説はそろそろ本格的に総点検されるべきでしょうね。
「護憲」の「検討」というと、右翼系のものが多いわけで、そうではなく、果たして「護憲派の言説」が「護憲主義」なのか、それに役立っているのか、という視点が必要になってきていると感じます。
樋口陽一氏でいえば、1973年の『近代立憲主義と現代国家』、1979年の『比較のなかの日本国憲法』(岩波新書)、1994年の『近代憲法学にとっての論理と価値――戦後憲法学を考える』など立憲主義や日本国憲法に限っても論著は数多く、もっと総合的に彼の研究を俎上に乗せるべきでしょう。そして彼独自のものなのかどうかということで、他の護憲派系憲法学者や、憲法思想史系の史学者も色々調べてみることが必要ですよね。ここ最近急に惹起したというよりも、どの地点でどのような変容が起こってくるのか、というのを明らかにしてみたいところです。もしかしたら日本国憲法制定直後まで遡る病巣があったのかもしれないし、どこかの時点で本当に変節していったのかもしれない。いずれにしても知識人の責任が問われるべきだし、知識人のいない現在についても「知識層」の責任が同じく問われるべきです。
Commented by
立憲主義者
at 2013-04-11 19:47
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私は立憲主義は大切だと考えてきました。しかし御指摘は正しいと思いました。立憲主義を強調して、脱構築の相対主義の詭弁で現行憲法が粉々にされようとしていたとの指摘にはうなづけました。96条の改定は、相対主義で超党派、同床異夢で進む。小選挙区制導入のように。
Commented by
カプリコン
at 2013-04-11 22:41
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帰宅後、新聞を読み進めていくとと「改憲への動きが加速」のようなことが書かれていて,やるせない気分になっていました。おまけに、教科書検定のことも。「自虐史観だ・・」とか「今の教育基本法に沿った指導内容でない」とか。でも改正教育基本法が憲法違反って話もあったような記憶があるんですけど・・。
あまりにも気分が悪くなったので昨日の砂川事件の記事を再読し、今日の記事と会わせて読んで,「統治行為論」とか「立憲主義」の意味合いと今の改憲への政治の動きなどが自分なりにつかめたような気がします。
「伊達判決」しびれますね。どうして、戦後20年経っていないときの日本(人)の方が主体的に生きて、司法も判断できていたのに、現在の日本の方がよりアメリカに盲従しているのか不思議です。でもふと考えると、このような事件のたびに、正論をいう人達が政府やアメリカに潰されてきたことの繰り返しが戦後の日本の歴史なのかなとも思いました。
高校のときの社会科は「倫理社会」と「世界史」を選択したので「政治・経済」はよく分からないことが多いです。経済関係の記事とあわせ、新しい知識を得ることができて、ありがたいです。
Commented by
ゆたか
at 2013-04-12 03:33
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>「憲法というのは権力の乱用を防ぐもの、国家権力を縛るもの、国民の権利を権力から守るものだ。
>こういう国をつくりたいとか、特定の価値を宣言するとか、そういう思想書的なものではない。
前段の理屈がいつ通説になったのか知りませんが、後段の主張とつなげると通説の悪用になります。
1 前段の理屈で96条を変える
2 改正のハードルが低くなる
3 で、本丸の9条を骨抜きにする
これが彼らのシナリオですから。
96条から手を着けるってとこが悪質ですよね。
「占領軍の押しつけだから変えたい」って言ってた連中にはまだ可愛げがあった。
>前文を一読すれば答えは明瞭だろう。憲法は、戦争のない平和な国家を建設すると宣言し、高らかに平和主義を謳っている。平和憲法という代名詞が付される由縁だ
「憲法前文の主旨にもとる改定は憲法違反」
前文を読めば、現行憲法はそういう制約があらかじめビルトインされた憲法であると考えます。
Commented by
長坂
at 2013-04-12 03:37
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まさに、おっしゃる通りです。
”多様な価値観、世界観を認め”、”国家権力を縛る”立憲主義という言葉に、私のような”絶対平和という非現実的な共同幻想”を抱いている”平和ボケ左翼”は惑わされてしまいます。
トオルは確信犯。
崩壊寸前の原発と16万の避難民と半径20kmの領土喪失なのに、参院選の争点は96条の改定って”ボケてんのはオマエだろ”と。
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