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★ アスペクト(1): 自分の中の、関係性 ★
********************************* アスペクト(ASPECT)とは、占星術用語で「座相(…ざそう?読み方は知らないです。この言葉自体も、日本語としては私は知りません。無知でスミマセン。)」という意味で、「座」はポジション、「相」は互いの、ということで、「お互いのポジション:位置関係」ってことですかね。 ようするに、ある天体が他の天体から見て、「同じ場所」や「ちょうど90度のポジション」などにある場合に、他の状態(ちょうど162.4度のポジションにある場合など)よりも、特別に考慮する、というようなことです。 これは、たとえばクラス内の人間関係と同じで、「べったり仲のいい二人」や「何かにつけて対立する二人」というのは、他の「お互い特に関心も持たず、対立もしない」間柄の人たちよりも目立ちますし、クラス内の雰囲気や運営への影響力が強いですよね。ホロスコープ上の天体もそれと同じで、ホロスコープがひとつの「クラス」だとすれば、天体は「クラスメート:児童」ということです。で、前回10天体の項で、「天体は自分の中の機能」だという話をしましたので、言ってみれば、児童を成長させ、さまざまな行事をこなしていく「教師役」が自分自身であり、クラスをまとめていくためには、児童(天体)のことをよく知り、彼らの関係性(相関)についてよく知っておくことが大切です。 ●アスペクトの種類と性質● アスペクトは、2種類のものがあり、「メジャー」と「マイナー」です。野球の一軍二軍みたいな感じですかね。これは、影響力の強さの違いのようで、メジャーはわかりやすく(言動の傾向として出やすく、出来事としても起こりやすい)、マイナーは少しわかりにくい、ということだと思います。 これは、天体の「わかりやすさ」とも似ていて、月や太陽、水星金星のような天体は、人の性格や行動パターンに出やすく、本人も自覚しやすいし、他人からもよく見えますが、小惑星や軸、ドラゴンヘッドなどは、キャラクター付けとしては「隠し味」的な影響なので、他人から見てすぐわかるような出方はあまりないようです。けれど、本人の中にはその影響力はたしかにある。月や太陽が「メジャー」、小惑星は「マイナー」ということです。 で、「メジャー・アスペクト」は上の4つです。 大意をまとめると下のようになります。
20年くらい前の占星術の教科書には、「吉角」と「凶角」というのがあって、トラインのように「たがいにノビノビ楽しくやれる角度」を「吉」とみなして喜び、スクエアのような「相手の動きを反転させる角度」を「凶」とみなして恐れたり疎んだりするような傾向が時々ありました。最近の教科書にはどのように書かれているのかわかりませんが、アスペクトは、その性質を知って「先を読み」、「使えるものは使う」、というものだと思うので、吉凶という見方は不要だと思います。 「使えるものは使う」とはいっても、何でもかんでも「自分がコントロールできる」と思ってしまうのもまた間違いですが、これは天体と同じように「翻弄されないでいる」ということで、そういう姿勢が大切だ、ということです。 天体というのは、自分の中の意識ですが、それらには「視点」目線」というものがあります。「見ている意識」「ものの見方」です。そして、この「目線」は、ホロスコープ内にある他の天体にも向けられています。この「他天体への目線」がアスペクトだと考えてもいいと思います。 ですから、オポジションはお互いが向かい合って「見つめあっている」状態、スクエアは斜めから見ている状態(だから、相手の盲点やスキが見えている)、トラインは「相手が一番美しく見える角度」、合は「お互いのことは見ていない、でも同じものを見ている」といったところでしょうか。 合は、同じ場所に立って、同じ方向を見ている状態です。なので、オポジションのような「干渉」はないし、スクエアのような「横やり」もないのですが、たとえば金星と土星が合の場合、金星が何かを見る時、土星も必ずそれを見る、ということです。そして、金星がロマンチックな気分に浸っている、そのすぐ横で、身も蓋もないような辛辣な「事実の指摘」をして、金星の浮かれた気持ちに水をさすのです。 しかし、当の金星は、スクエアの場合のように、「土星のヤツに嫌なこと言われた」とはならずに、「なんでだろう、なんとなく、フワフワした気持ちが静まってしまった」という感じになるのですね。これは、相手(土星)の姿が見えていないからで、他者として認識していなければ、それは自分の内なる声のように感じる、というわけです。 で、土星の方も、同じように金星に感化されていて、「たまにはオシャレ楽しむというのも、悪くないわね♪」などと思っているミンチン先生(「小公女セーラ」に出てくる、厳格で貞淑な女教師です)、のような印象がありますね。そして、このミンチン先生は、華美ではなく、質素で地味な中で、「自分なりのオシャレ」というものをそっと楽しむわけで、この「地味な中で、そっと楽しむ」というのが「土星流のオシャレ(金星)」というわけです。つまり、自分の枠を壊さずに、色をにじませるようにして金星を取り込む、といった感じになるのが「合」ですね。 まあ、それぞれのアスペクトについては、個別に取り上げたいと思いますが、天体のことを考える時、アスペクトを通して考える、というのはとても面白いものです。アスペクトを通して考えることは、絵や写真(イメージ)を使って天体を考えるのとはまたちがったアプローチになり、人が関わる相手によって、思いも寄らない側面が引き出されるのと似ていて、同じ金星でも、土星と関わっている 時と、天王星と関わっている時とでは、印象がまったくちがっているものです。だからといって、「人が変わってしまった」とかいうことではなく、人も天体も、それぞれ、本当に多彩で無限大な可能性を秘めている、ということなのだと思います。 さて、次は「マイナー・アスペクト」です。 ここで取り上げるのは、「セクスタイル(60度)」と「インコンジャンクト(150度)」の二つのみですが、実際には「セミセクスタイル(30度)」「ノビル(40度)」「セミスクエア(45度)」「キンタイル(72度)」「バイキンタイル(144度)」といろいろあります。ついでに、もしかしたら、「セクスタイル(60度)」はメジャー・アスペクトかもしれません。あまり詳しくないし、私自身は、自分がふだん使っているアスペクトについては、メジャーとマイナーの区別はしていないので、よくわからないのです。 アスペクトの構造は、ホロスコープの内角(360度)を「何分割しているか」ということです。つまり、コンジャンクション(合)は「1分割=0度」、オポジションは「2分割(半分)=180度」、トラインは「3分割=120度」、ということです。 ですから、この「分割数」に着目して、アスペクトの持つ性質を、「分割数の数の性質」として解釈する占星術家もいますね。各アスペクトの「分割数」と「数の性質」は以下のようになります。
ただし、ここに書いてある「数の性質」は、私が漠然と把握しているだけのものなので、参考にとどめる程度にしておいてくださいね。ここで書いている「数の性質」が、イコール「アスペクトの性質」ではありません。 私は、アスペクトは先の「メジャー」4つと、セクスタイル、インコジャンクトの合計6つしか詳しくありません。あとのものは、数の性質から「なんとなく憶測している」だけです。キンタイル、セプタイルなどの「とってもマイナーなアスペクト」については、洋書や、「アメリカの占星術」みたいなタイトルの和訳シリーズ、あとは、松村潔氏の著書などに、触れているものがあったように思います。
セクスタイルは、トラインに似ていて、「相手を肯定し、互いに盛り上がる」タイプのアスペクトです。しかし、トラインよりも現実的なところがあり、何もない時はあまり関わってこず、一緒に騒いだり楽しんだりしないですが、問題や課題に立ち向かう時には必ず出てきて、一緒に行動する、といった感じですね。飲み会や遊びではさほど盛り上がらないけど、仕事や共同作業をする時には一番頼りになる相手、といったところでしょうか。互いの能力を、いい意味で引き出しあう関係です。 インコンジャンクト(インコン)は、6ハウスの性質を色濃く持つアスペクトのように思います。6ハウスは、自分の能力や性質をきちんと磨いて大人になっていく場所ですが、このアスペクトにも同じような性質があります。ですので、トラインのように面白おかしい間柄ではないし、セクスタイルのように、快く助けてくれる関係でもないですね。どちらかというと、常にダメ出しばかりで、褒めるということはほとんどないです。でも、そこで甘えさせずに厳しいことを言い続けることで、結果的に相手の自立を促すというわけです。 ●意識すれば自分、無意識のままなら他人● というのは、「10天体」の項で書いたことですが、アスペクトの「片方の天体」を他人にあずける、ということはよくあります。これは、スクエアやオポジションのように「対立している」タイプのアスペクトの場合は、わりと普通にあるように思います。特に、木星以遠の天体は、若いうちは自分で意識することが難しいので(発達段階的に、月〜太陽までに意識が向かっているため)、周囲の身近な大人にあずけることが多いようです。 これは、10天体のうち、「どれに対して、自己同化しているか」ということも強く影響しますね。たとえば、月に木星がトラインで、太陽に土星がオポジション、といった場合、「幼少の頃は、親や祖父母(木星=保護者)に、可愛がられていつも助けてもらえる」という意味と、同時に「やがて自立して、自分が太陽(大人)になると、目上の人から厳しい指南でもって鍛えられる」という意味が考えられます。これは、木星も土星も「どちらも自分だ」と考えるのであれば、「幼少の頃は、のびのび開放的に自分を表現できる」ということと、「しかし、大人になるにつれ、内省的に自分を律するようになる」ということになります。 そして、この人がもし、太陽の年齢域になってもなお、「月に木星がトライン」の、のびのび楽しい状況にずっと浸っていようとするのであれば、「土星からのオポジション」は、「口うるさく、嫌なことを言ってくる他人」として、学校や会社や身近な人間関係の中に、その姿をあらわすことになるでしょう。また、「他人」という姿ではなく、「事故や病気」「トラブル」といった「状況」としてあらわれることも多いです。これはようするに、「土星(内省や自己規律)という意識」を、本人が自覚し、そこに目を向けることが目的だからで、「気がつくのであれば、方法はなんでもいい」ということだと思います。 そして、この人が「太陽と土星のオポジション」も自分のものとして自覚したのであれば、「モラルや規範をきちんと守れる」といった、「信頼される太陽」となり、周囲や社会に受け入れられる状態で、自分の「のびのびした月」を発揮できる、ということになると思います。 やがてこの人が、木星の年齢域になった時には、今度は木星に自己同化することになります。そうすると、「月にトラインの木星」ですから、小さな子供や母性(妻)などに対して、寛容で保護者的な存在になっていく、と考えられますね。その年齢域の頃には自然と、子供など「月的」なものとの接触が増え、彼らと関わることで、この人の木星的な資質が拡大されるわけです。 で、土星期になれば、太陽(若者)と衝突する、彼らの「青臭い熱弁」を受け止める立場になる、というわけです。そして、そういうぶつかり合いをすることで、土星の四角四面すぎる部分が叩き壊されて、一皮向ける、という体験があるのでしょう。「ただの頑固親父」ではなく、新しい考えも取り入れることのできる「柔軟な老賢人」のような存在に成長していく、というわけです。 この人は(といっても、ただの例ですから、実在はしません)、幼少の頃(月だった頃)に、木星に保護されノビノビと育ちました。だから、自分が木星になった時、幼い頃にノビノビ育つことの大切さ、ありがたさを知っているから、幼い者に対しても同じようにできるのだとも言えます。太陽と土星のオポジションも、自分が太陽だった時に、真正面からぶつかりあってくれる土星がいたから、今度自分が土星になった時に、「ぶつかってくる太陽」に対して、「自分も昔はそうだったなあ」と、相手のことがわかるし、受け止める余裕も出てくるわけです。 ただし、それは、太陽だった時に、真摯に土星とぶつかりあった経験があればこそ、ですね。 太陽期には、太陽=自分、土星=他人、だとしても、実のところはどちらも自分です。この時期に、「ぶつかりあってくれる、真摯な土星」がいてくれたとしたら、それは実際には「この人の土星が、真摯な土星だったのだ」ということなのです。 もし、それが「ただネチネチ小言を言うだけの土星」だったとしたら、それはやはり「この人の土星が、ネチネチ小言を言うだけの土星」だということでもあるし、その土星に対して、真摯にぶつからず、ただ拗ねたり恨んだりするだけの態度しか取れなかったとしたら、この人は、土星期になった時、太陽(若者)からの「青臭い熱弁」を真摯に受け止めることはできず、昔自分がされたのと同じように「ネチネチ小言を言うだけ」になるような気がします。 つまり、他人に預けようとも、天体は自分のものでしかない、ということです。 太陽に対する土星の態度は、それがどうであれ、実際のところは「自分に対する、自分の態度」なんですね。ですから、真摯にぶつかってくれる大人がいてくれる、ということは、その人は「自分に対して、真摯にぶつかっている」ということだと思うのです。 まあ、こういう「自分に対する、自分の態度」というものは、わりと環境によって刷り込まれるものなので、自分に対してネチネチしていたとしても、自分を責める必要はないと思います。占星術というのは、「運命論」的な見え方になっているもの(=星の配置がこうだから、こう、みたいな) ですが、私は「性格」や「考え方」というものに、「生まれつき」というものはない、と思っています。その人が持って生まれた「生まれつきの個性」というものはあるとしても、「性格」や「考え方」、つまり「真摯か、そうでないか」というようなことは、「月が学習(吸収)すること」だと思うからです。 ●そうはいっても、結局は自分● ホロスコープを見ると、月と太陽の関係や状況は、かなりの確率で「その人の両親そのもの」になっています。これは、逆に言えば、「月と太陽を投影した(体現した)男女のもとに生まれる」ということで、本人にとって月と太陽そのものである男女、両親の人格というものが、本人の人格の基本ベースになっていく、ということです。 人格や性格というものは、一般的には「最初から決まっていて、変えられないもの」と考えられているようですが、それは「性格は、変わらないもの」なのではなく、「性格を形成している部分が、変わることがあまりない」ということです。 「性格」というのは、言ってみれば「反射」です。何か起きた時に「どのように反射して、行動するか」ということです。そして、「反射行動」というものには必ず「目的」があります。たとえば、身の危険を感じるほどびっくりして、血の気が引いた。この時、血の気が引くのはもちろん生理的な条件反射ですが、これは、体にとって「一番の身の危険」とは「出血」だからだそうです。出血が止められなければ確実に死ぬし、体にとって一番の目的は「死なないこと」であり、そのための最重要目的が「出血を最小限に抑えること」で、そのために「血の気が引く」わけです。 これがもし、「出血することで、命が助かる」という構造になっていれば、人が死ぬほどびっくりした時には「毛穴から血が吹き出る」という「条件反射」になるわけで、この「条件反射」が「性格」「人格」といわれている部分だと思うのです。 つまり「何を守っているか」みたいなことが、その人の人格を形成しており、この「守りたいもの」というものは、人によってそれぞれですが、ここは「そう簡単には変わらないし、変えたくない」ものなのですね。だから、性格は変わらない。 ブログでも何度か触れていますが、ドラマ「女王の教室」にはこういう話がきちんと描かれています。主人公の鬼教師は、昔は「いい先生だけど、ねえ、、」と言われてしまうような、優柔不断で生徒に媚びてて、保護者からも信頼がない。そんな教師でした。でも途中で、そんな自分に気がつくのですね。「自分は、いい先生と言われたいだけだった」。つまり、この教師は、「人に好かれたい、生徒に好かれたい」と思っていて、「人に好かれる自分」を一番大切にしていたのです。だから、お人よしで臆病な人間になっていたのですね。お人よしでいなければ人に好かれないし、人に好かれたいとビクビク相手の顔色を伺っているから、臆病なのです。でもそれを、「生まれつきの性格だ」と思っていた。 しかし、途中でそのことに気がつき、自分がやりたいのはそんなことではない、子供をちゃんとした大人にしていくことだ、と気がついて、「一番大切なもの」を、「人に好かれる自分」から「子供たちを、マトモな大人にすること」に変えるのです。それで、この教師は「頼りない卑屈な女先生」から、「毅然とした孤高の鬼教師」に劇的に変貌したのです。 これはドラマの話ですが、人間の構造というものに、フィクションもノンフィクションも関係ありません。ただ、ノンフィクションの世界では、「やっぱり、一番大切なものは、変えたくないなあ」という思いが勝ってしまって変わらないことが多いですね。 ちなみに、フィクションとノンフィクションの違いというのは、「自分が体験したか、していないか」ということなんですよね。 つまり、自分の身に起きないことはフィクション。身に起きたことはノンフィクション。 「性格が変わる」「人格が変わる」というのは、「性格というのものが実際にそういう性質(可変)なのかどうか」ではなく、「一番大切なものを変えたかどうか」だけのことなんですね。「性格」というものをいかに分析したところで結論など出ないです。分析すべきは「人」であり「自分」「自分が行動したかどうか」だけなのですね。 ものすごく話がそれてしまいましたが、アスペクトについては、もう少し続きます。メジャーとマイナーの主なものをまとめましたが、これ以外に、特殊なものがいくつかあります。複数のアスペクトが合成されて作られるもの、グランドトラインやTスクエア、それから、アスペクトが形成されないもの(シングルトン:ノーアスペクト)について、次回触れることにします。 (*続きます) |