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2009-11-17 KAL007便生存者存命の可能性

KAL007便生存者存命の可能性 


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CI120中華航空機炎上Video那覇空港1997年

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 この状態であれば、燃料タンクが爆発した後でも乗員乗客は怪我が無ければ脱出する事ができる。燃料タンクの爆発は、ボワンとした爆発だった。非常口を開けると脱出用シューターが窒素ガスによって自動的に膨らみ降りる。非常口は飛行中開けない。着地か着水してから扉を引くか押す。

1.KAL007便生存者存命の可能性に対する解明

  1. ソビエト海軍と民間によるアクアラング・ダイバーたちの中には、「海底に沈んだKAL007には初めから乗客がほとんどいない状態だった」と報告する人もいる。その人たちの結論は、飛行機の外へ間隔を置いて広範囲に落下したということだった。爆発と同時に、上空から外へ放り出された客がいたとしても、ミサイルによって破壊された箇所が180cm四方と大きくなかったため人数が限られている。その他、飛行中にパラシュートを使用すると、後部の垂直尾翼と水平尾翼に体が当たり死亡するケースが多いので、大型航空機には乗客用パラシュートが用意されていない。モネロン島上空で螺旋降下を繰り返したのは、着水予定地の位置が、曇り空でもレーダーで解るように意図的に行ったと考えられる。
  2. 航空機の垂直尾翼、水平尾翼などの補助翼と主翼は、かなり多くの穴が開いていなければ海面に浮く機体構造になっている。ジェット・エンジン4基と燃料タンク付近にあるランディング・ギアが比較的重いが、両翼が残っていれば航空機は海上に浮く。
  3. ソ連新聞イズベスチア紙上で公開された目撃談の中には、
    1.「ボーイング(KAL007便)は、ほとんど無傷で機内火事の痕跡がなかった」(両翼がある状態)。
    2.「ボーイングを海上に浮かべ、トロール船で移動させていた」という幾人かの証言が記されている。
    3.日本のイカ釣り船第48千鳥丸の船員たちは、「大きな爆発の後、小さな爆発があった」と話している(NHK取材放送)。
    4.ソビエト沿岸警備隊の船が到着した時、「爆発後27分以内にロシア民間人の一隻の船が事故現場へ到着していた」。
  4. ソ連側ではスミルニク空軍基地ノボセレツキー中佐が救助ヘリコプターを出動、極東軍司令官代理ストロゴフ将軍はモネロン島周辺にいた沿岸警備隊と民間艦艇をその救助のために送った。モネロン島付近に停泊していた警備隊の船は、KAL007便がレーダーから消えた直後、救助指令の連絡を受け、着水して爆発する前に海上を走り探し始めた(米国共和党局員によるCIAへの報告書草稿)。ソ連国境警備艇と沿岸警備船計8隻の他、モネロン島付近に停泊していた民間船や漁船も何隻か爆発現場へ向かった。
  5. 「海上に浮いていた遺体は発見できなかった」ソ連側ではそうだった。しかしリマン海流が南下している日本海側では、9人分の韓国人遺体が発見されている。これらの目撃談は、この事件の確定的事実である。
  6. 1983年JST9月1日初日の目撃談をさらに考えると、爆発から30分後、夜が明ける30分前にスミルニク空軍基地を出発した救助ヘリコプターは、実際の爆発地点を目撃していない。後から出動した海上警備隊と一緒に、KAL007がレーダーから消えた地点の連絡を受け、その付近を捜索していた可能性が高い。モネロン島東側に遅れて出動した船とヘリコプターが集まり、爆発の炎を見ながら走った救助艇と事故現場の捜索が二分した。「海上に浮いていた遺体は発見できなかった」という言葉は、スミルニク空軍基地のヘリコプターに乗った救助班による公式報告と考えられる。
  7. 最も重要な事は、「ボーイング機はモネロン島東側に着水し、乗客とトランクは沿岸警備隊の船に運ばれた」という目撃談(アブラハム・シフリンAvraham Shifrinによる調査情報1991年)で、KAL007の着水地点が異なっている。考えられるケースとして、モネロン島北20km海域に着水したボーイング機内から運び出された乗員乗客が、モネロン島東側で沿岸警備隊の船からさらに速い国境警備艇に乗り換え、ユジノサハリンスク総合病院へ運ばれた。ヘリコプターの数が少なく、事故現場からもっとも近いサハリン西海岸の町ネベリスクとゴルノザ・ヴォーツクには早朝から収容できそうな病院がなかったため、重傷者はヘリコプターで、軽傷者は船でユジノサハリンスクへ運ばれたと考えると、この目撃談の筋が通る。事故現場からユジノ・サハリンスクまで直行で120km、サハリン南端を辿る船と車で約170kmの距離にある。
  8. 解決が難しい目撃談の2つ目は、海軍ダイバーと民間ダイバーが乗船する船から見ていた民間ダイバーの話で、「ボーイング機をトロール網で1.5km引っ張り、爆破して故意に沈められた。その方法が奇妙に見えるほどだった」。民間ダイバーによるこの目撃談は、話の前後から信憑性がある。「ボーイング機を1.5km引きずった跡が海底にある」という話も他のダイバーによって確認されている。これら二つの目撃談から、海底に沈んでいたKAL007の機体を1.5km引きずった後、その海底から機体を引き上げ、浮かばせて再び曳航したと考えられる。集められたKAL007残骸やKGB役員を運ぶため、9月4日からユジノサハリンスク、ネベリスク、ゴルノザゴーツク、モネロン島を行き来していた民間ヘリコプターのパイロットが、船で引っ張られている海上に浮いたボーイング機の様子を目撃していた。 ソビエトガバン海軍機動部隊によるトロール船(ゲオリギ・コズミン)の網にかかり、海底に沈んだKAL007が引き上げられたのは9月4日だった。その時にはアメリカ、日本、韓国、イギリス、中国からの船とヘリコプター、テレビやマスコミのセスナ機、新聞社のヘリコプターなどで海上が混雑していた。民間機のボーイング747と判る状況が撮影されると騒ぎが大きくなり、証拠写真として後々不利になる可能性も出てくる。その機種が、ボーイング747型であることが明らかだったので、それを隠すために爆破したのではないかという事が考えられる。その処置方法は、参謀本部からの指令以外無い。
  9. トロール船の網にかかり、浮かばせられたボーイング機をモネロン島の方へ曳航中、参謀本部からKAL007の爆破とその後の作業方法の指令が出たためと考えるしかない。ボーイングの2F天井を爆破して沈めた後、9月5日頃、海上から見えない状態でモネロン島北側沿岸まで引っ張った。国際法に基づき民間機かスパイ機かを検証しなければならないことを考えると、その方法しかない。ネベリスクとゴルノザ・ゴーツクのふたつの検査会場で、機内の電子機器や証拠物件を調べ、検証する必要があるため、KAL007を海底にすっかり沈めるわけにはいかなかった。つまり、証拠となりそうな機内の電子機器と残された遺体を最も手早く運び出すため、モネロン島北側沿岸まで隠しながら、そのまま網で引っ張るしか方法がなかった。

2.「大韓航空機撃墜事件」で最も重要な事実の究明

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Moneron Island and Sahalin. Under parts are Reibun, Risiri Islands, Hokkaido Wakkanai, Soya Strait

  1. 1983年(JST)9月1日3時38分未明、KAL007がレーダーから消えた時点で救助命令を受けたソビエト国境警備艇と沿岸警備船合計8隻(ソ連側救助船の隻数不明:稚内自衛隊は、KAL007がレーダーから消えた未明に2隻の巡視艇を送り、午後2時までヘリコプターを載せた巡視艇を含め計8隻、飛行機2機出動)は、KAL007を発見できたか。最初に到着したソ連側は、「事故現場へ到着する27分前以内に既にロシア民間人の小船が到着していた」「海上に浮いていた遺体は1体も発見できなかった」とイズベスチヤ紙上で発表している。この2つの話は警備管轄責任者の言葉で、KAL007が海上に浮いていたか、乗員乗客は救出されたかという最も肝心な事実を回避している。軍事機密以外の事実として職務上慎重に考えられた高齢者の言葉である。あるいはKAL007が「領空侵犯によって撃墜されたスパイ機である」と知らされていたために、それを検証確認できるまで軍事機密として厳重に隠蔽した。
  2. ソビエト新聞イズベスチア記者に対し、ソコル空軍基地高級将校(司令官らしき人物)は「無傷だった」、特殊技官は「下から上まで、よじ登れる状態だった」と伝えている。「よじ登れる」とは海底でそうだったのか、海上でそうだったのか、はっきりしていない。もし海上でよじ登れる状態であれば、KAL007が海面から少し浮いていた事になる。このインタビューでは海底か海上か肝心な所が不明で、軍事機密以外として話す事ができる範囲内で言葉を略して伝えている。この時点で民間機かスパイ機か、客観的にまだ検証されていないため、インタビューでの答え方は間違いの無いように慎重だった。
  3. 「下から上まで、よじ登れる状態だった」という言葉をもう一度吟味すると、地上ではボーイングの上へよじ登る事はできない。海底でも側面がほぼ垂直なためよじ登る事はできない。海上でよじ登る事ができる角度は45度前後のため、2Fの窓から上の角度という事になる。技官がよじ登った、あるいは他の誰かがボーイング機の上へよじ登っている所を見た日にちが重要で、9月1日初日であれば、発見当初、KAL007は海面にわずかに浮いていたという事になる。
  4. 理論的に考えると、ソコル空軍基地コルヌコフ司令官と特殊技官は、事故当日の現場状況を確認し、モスクワのオガルコフ参謀長とKGB書記長に書面、地図、略図・写真などを添付して報告する義務(顛末書)があるので、「無傷だった」「下から上までよじ登れる状態だった」という2つの話は、JST9月1日の初日以外ない。さらに後で厄介な事にならないように矛盾無く正確に報告している。
  5. 「CIA報告書草稿」にも記されている話の中で、「不時着水した飛行機は大半が無傷な状態で、KGBロマネンコ将軍指揮下の国境警備隊の船に回収され、乗客と荷物が飛行機の外に運び出された」という情報がある。これはアブラハム・シフリンが噂話としてロシア漁民から聞いた話で、はっきりしていない。しかし、初日未明にその事故現場へロシアの民間船と漁船が確かに駆けつけ、現場付近の状況を見ている。
  6. 1983年9月1日未明、救助のために駆けつけた人々は、KAL007便の爆発状況、爆発音と海上が燃えている炎の位置を見ている。爆発で燃え上がり、徐々に消えてゆく方向を見ながら走っていた。救助隊が現場に到着した時の説に2つあり、「海上には1体の遺体も浮いていず、ロシア民間人を乗せた1隻の船が27分前以内に到着していた」という報告と、「KAL007は海上に不時着水し、乗員乗客とトランク(手荷物)は無事船に運ばれた」という地元漁民の2つの話がある。前後の状況から推測すると何故2つの話があるか奇異に思える。しかし、さらに考えると、どちらも偽りではなく、「27分前以内に小船が1隻到着していた」というのは、事故現場状況の回避で、「救助艇はモネロン島付近から27分で爆発現場へ到着した」という事を暗示し、KAL007便と乗員乗客の救出に関しては触れず、関係のない1隻の小船について話した意図と趣旨がはっきりしている。ソビエト国境警備隊と沿岸警備隊員には「軍事機密として、この事故現場について他の人へ伝えないように強制された」背景がある。
  7. 空白の9月1日未明、KAL007が海上で爆発後、27分で救助隊の船が到着し、20分以内に乗員乗客は沿岸警備隊の船に移動、気絶している人やけが人を病院へ運ぶため、即刻ユジノサハリンスクへ向かった。残りのソビエト国境警備艇が、沈んだKAL007便付近の海上を捜査しているうちに、日の出30分前に出動した救助ヘリコプターが現場上空へ到着した。その時に「海上に浮いていた遺体は1体も無かった」。目撃者が多数いる場合、虚偽を話しても始まらない。それらは全て部分的事実で、時間的な違いがあるため、矛盾する二つの説にとらえられていた。暗闇の中で何隻もの船が、何かを取り囲み、サーチライトと懐中電灯によって海面や空を照らしていた。その周りに民間船や漁船もライトを照らしながら、まわりから近づいたが、サーチライトで照らし返され、近づいて確認する事が難しいほど機関砲を装着した警備艇で取り囲まれていた。その囲みの外にロシア人の小船が1隻。周りの民間船には、軍事機密のため近づかないようにロシア語で警告していた情景を私は必然的に推理せざるを得ない。

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Michail Merchink

  1. 9月2日の朝、カムチャッカ沖で石油掘削をしていたスエーデン製ミハイル・ミルチンク号が、モネロン島東側に到着。連絡を受けたその場所で初めのうちは仕事をしていたが、その日にモネロン島北20km地点46"27N,141-13Eへ移動した。ロシア領海域は、モネロン島沿岸とサハリン西海岸から12国際海里22.224kmで、それ以外は国際水域International watersと言われる公海。モネロン島からサハリン西海岸まで49kmのため、この間は普段国際水域で通れるはずだが、この事件の間ソ連側では輸送航路を確保するため、モネロン島からサハリン西海岸の間を潜水艦や軍艦で閉鎖した。この二つの地点は、他国船や潜水艦の入り口として軍事的に重要な拠点で、実際の事故現場か、さらに考えると怪しい。ミルチンク号は、9月2日と3日はKAL007を探し、ついに見つけられず、9月3日からモネロン島北20km地点でKAL007着水時の爆発で四散した燃料タンクと胴体下部破片、トランクと貨物の一部を回収し始めた。ランディング・ギヤ(主脚)は燃料タンクが爆発してさえ、めったなことでは胴体下部から外れない。ミルチンク号は9月2日と3日、ソナーと水中テレビカメラを使用してKAL007を探したが、海底の視界が3mと見えず、ヘリコプターの騒音でソナーを使用しても効果がなかった。海中で流されながら沈んだKAL007をソビエトガバン地区海軍機動部隊が4日目に網で捕らえ、やっと引き上げる事ができた。
  2. 事実に基づいて言える事は、1983年JST9月1日未明、海面から少し浮いていたKAL007の操舵室から、KGBロマネンコ将軍の指揮で発信機とブラック・ボックスのテープ3本を抜き取り、生存していた乗員乗客を沿岸警備隊の船に手荷物と一緒に運び出した。そうしている間にKAL007はさらに沈み、中部後部座席に残されていた乗客の遺体搬出をあきらめざるを得なかった。KAL007の機体と乗客の遺体は、海底まで沈む途中の流れの速い海流によって南へ何キロも流され、ブラック・ボックスに装着されていた発信機も取り外したため、KAL007の位置がまったく判らなくなった。そしてさらに、ヘリコプターの音でソナーが使えなくなり、9月1日から9月3日までソ連側でさえKAL007を見つける事ができず、ありとあらゆる船や飛行機、ヘリコプターが駆り出され探し回る事態となった。
  3. ソ連新聞イズベスチアで公表された目撃談の中で、「機内の乗員乗客は全員死亡していた」「全員死亡していた所を確認した」という話が無い。しかし、ソビエト政府、KGB参謀本部に提出された書類には、「KAL007便の生存者は居ない(あるいは全員死亡)」と報告されてある。そのためにエリツィン大統領でさえ、1992年10月28日、「KAL007便の生存者はいない」とアメリカ側に返答するしかなかった。ここで注意しなければならないのは、「生存者はいない」と「全員死亡」の意味が全く違っている。「生存者は居ない」と報告されている所を「全員死亡」と訳したかどうか確認する必要がある。
  4. KAL007は、高度11,000mでミサイルの爆発によって右後ろから10mの箇所に180cm四方の穴が開き、爆発で吹き飛び炎え上がった。後部座席の乗員乗客は爆発の破片で死傷後、炎と減圧で気を失いながら焼死、-50℃以下で死体は凍結した。仕切られていたその前の部屋の乗員乗客は、酸素マスクさえ降りれば不時着水前の爆発の時まで生存していた。
  5. 高度11,000mでミサイルが爆発した時(JST3時26分2秒)、即時に酸素マスクが降りたか。コクピット・ボイステープCVRによれば、機長が全圧縮のスイッチを入れた時間(3時26分48秒)は急降下し始めた時(3時26分45秒)で、酸素マスク着用のアナウンスが放送されたのは爆発後53秒(18時26分55秒)と遅かった。KAL007が急降下し始めたのは、機内気圧が抜けて外気圧(200-250hPa)と同じになった時点で、マスクが降りてから着用のアナウンスが放送されるものであれば、助かる見込みのある場所は、中間から前の席と2Fしかない。その気圧下だと男性は15秒で気絶し始める事が臨床実験で知られている。最良の場合で生存者200名、最悪で2Fと前室の乗員乗客50名以上が生き残った。酸素マスクが即座に降りなければ、急減圧で気絶し、シートベルトを締めたまま無傷で死んだ人も後の座席に何十人もいた事が考えられる。
  6. 1983年JST9月4日、KAL007を海底からトロール網で引き上げた際、ボーイング機内に遺体が20体から50体ほど残っていたはずで、そのままモネロン島付近の浅瀬まで引いていかれ、無残な遺体はシートなどで覆い外へ運び出された。三日三晩、海の底でふやけ、カニやサメによって荒らされた部分遺体と所持品、泳ぐために脱ぎ捨てた靴などがモネロン島と北海道北側へ漂着した。
  7. 乗員乗客269名のうち、部分遺体を含め遺体として発見されているのは、Su-15TMによるミサイルが爆発したKAL007便後側の20名から50名以内で、残り250名の遺体に関して目撃した話が無い。生存者が自ら移動しない限り、救助隊が短時間で運び出せる人数ではない。

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ホホジロザメ

  1. アザラシやトドの子供を捕食するホホジロザメは、モネロン島付近やサハリン北側まで生息している。KAL007のエコノミークラスで死んだ50名ほどの遺体はどこへ行ったか。ミサイルによる180cm四方の穴や非常口からサメがボーイング機内に入れたのではないか。血の匂いでサメは集まりやすい。9月10日後のダイビング最中にサメを目撃した話が無かったが、サメが来たとしたら9月1日から3日までが怪しい。9月10日以後のダイビング中は、サメ避けに海底で電流を流していた話があり、夜に海底電流を止めた時にどうなるか、9月1日から10日までの夜のサメ対策に関してまで言及されていない。夜明け前と日没後の真っ暗な海底で、ほとんどの海中生物は獲物を探すため最も活動する。残された乗客の遺体は1日から3日までの間、ボーイング機内に入れる大きさのサメによって骨ごと食われた可能性は十分にある。地元の漁民や海軍であれば、そう考えたに違いない。
  2. 9月2日からモネロン島北側の浜に海岸線沿いに漂着した遺体部分と所持品、機体破片などがソビエト沿岸警備隊によって集められた。
  3. 9月4日、モネロン島付近までトロール船で浅瀬に引いて来られたKAL007便から、電子機器や記録テープ、飛行機内の機器部品なども取り出され、ヘリコプターでネベリスクとゴルノザ・ヴォーツクの二つの検査会場に運ばれた。この時に貨物なども取り出されたと考えられる。
  4. 9月5日から、民間のヘリコプター操縦士は、KGB役員たちをユジノサハリンスクからモネロン島北側の臨時会場へ運んだ。
  5. KAL007機内に固定されている客席とキャビンの荷物は、そのままの状態だった。
  6. 9月8日から9日、KAL007の機体はモネロン島北側の浅瀬から10人分ほどの遺体部分と一緒に、北北東、水深174m海域へ移動。その後、KAL007を解体するため潜水艦の魚雷で何度か爆破された。
  7. 9月10日、モネロン島北北東、水深174m海域で作業をしていたミルチンク号乗組員やダイバーたちには、「防空軍が中立地域で標的を撃ち、粉々にした」という事が知らされていた。
  8. 9月10日以後に海底作業をした小型潜水艇機長やアクアラング・ダイバーたちの中には、残された骨、胴体、腕や頭を見つけた人もいた。残留していた遺体部分に関しては、指示が無く放置状態だった。

■北海道オホーツク海沿岸への漂着

  1. 9月9日までに北海道オホーツク海沿岸クッチャロ湖付近、頓別の浜沿いに大韓航空機の機体破片が漂着。さらに知床半島北側、遠音別の浜に腐乱した子供の死体が漂着。翌日10日から岸沿いに本格的な捜索が行われた。しかし、腐敗した子供の遺体に関しては、大韓航空KAL007便の乗客の子供か、事件の関連付けができない状態と報道された。
  2. KAL007には12才以下23人の子供たちが乗っていたので確認ぜずにはいられない国外の遺族もいる。髪の毛の色と長さ、身長、性別、歯などの特徴、残りの衣服から見当が付けられるか新聞紙上で詳しく報道されていなかった。その事件については北海道警察がある程度の資料を残している。
  3. 北海道警察は、9月1日から海上保安庁や自衛隊ヘリコプターなどで捜査し始め、9月30日まで合計27,000人の警官を動員。沿岸に漂着した9人分の遺体、所持品などの遺品377点、機体破片334点を回収した。その後、KAL007の機体破片は韓国政府へ、遺品29点は乗員乗客の遺族へ返還され、残りの遺品は展示会などでも公表された。
  4. 韓国人9遺体と報道した記事もあったかも知れないが、実際には、海水で腐乱した皮膚などの遺体部分も含まれ、韓国人とは限らず身元がはっきりしていない。

国境付近の密漁事件

  1. 2003年7月3日、ロシア船トロールグラント号は、サハリン北端で密漁中、沿岸警備隊の停止命令を無視したため銃撃され、ロシア国籍漁船乗組員3名が負傷した。この事件の現場がサハリン北端とされている。もしロシア沿岸警備隊による銃撃事件であれば、不法密漁による国際水域へ逃走した不審船は、自国籍であろうと他国籍であろうと民間人であろうと、不明の状態で警告、誘導、停止命令に自国領内で従わなかった場合、逃走した場所が国際水域内であろうと銃撃できるという国内法がロシア側にはあり、射殺しても銃撃した警備隊は正当という「不法侵入とその警備に関する法律」があるという事になる。(注意:不法侵入の場合の国際様式と考えられているこの法律が問題で、これを緩めると密漁不法侵入が増える)
  2. 第31吉進丸密漁銃撃事件:2006年8月16日、北海道根室市花咲(Hanasaki)漁港を出港した日本の漁船第31吉進丸(Kissin-maru)は、早朝4時過ぎ北海道歯舞(Habamai)沖で密漁中、ロシア国境警備隊により銃撃され、吉進丸乗組員1名が死亡した。第31吉進丸は、ロシア国境警備隊の停止船命令を無視し、警備艇ゴムボートへ体当たりしようとしたため銃撃したとロシア側では報告している。第31吉進丸がカゴ漁により密漁していたタラバガニ科花咲ガニ(学名:Paralithodes brevipes)は、8月22日北海道根室市納沙布岬から最も近い歯舞市場へ約1t水揚げされた。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,18 January 2010.