見えなくていいものも見えて。
その中での苛立ちは誰でも経験があるだろう。
それで。。。
平野啓一郎氏の『私とは何か』における
「分人構成比率」に一層注意を払ってゆこうと思う。
「本当の自分」、首尾一貫したブレない自分を
まずは妄想にすぎないと考えることから始めて。
複数の自分がいて、
そのどれもが自分であるという
「個人」よりも細かい「分けられる自分」としての「分人」の概念は何かしら役に立つ。
「分けられないもの」(ここではindividual=個人を響かせる必要がある)
としての自分を分ける。
相手の分だけ、自分の「分人」がいる。
「これから死ぬまで残りの時間、自分はどの分人と長い時間生きていきたいか」(平野氏)
を考えることは有効だ。
書の最後の部分、
「自分の親しい人間が、自分の嫌いな人間とつきあっていることに口出しすべきではないと、
私は書いた。大好きな人間の中にも、大嫌いな人間の何かしらが紛れ込んでいる。
そこに、私たちの新しい歩み寄りの可能性があるのではないだろうか」
私は書いた。大好きな人間の中にも、大嫌いな人間の何かしらが紛れ込んでいる。
そこに、私たちの新しい歩み寄りの可能性があるのではないだろうか」
自分の好きな人が
嫌いな人間と結びつくことを心配するのが全く余計なことだとするならば。
この最後の最後、その好きな人にも「大嫌いな人間」の要素が含まれていて
それらで構成されていると割り切る。
ここに固定された価値観の打破があるのだろう。
いい意味で、もっと冷静な、時に冷たいくらいの感覚も必要なのかな。。。
この部分はまだ保留。
それと。
「分人」は自分だけでなく、相手にも言えることで。
相手が見せてくれる(自分のための)「分人」が
優しくて居心地が良いならば、
それを感じることができる日々は感謝の念でいっぱいだ。
私の周囲の関わる人達の笑顔はやはり財産だなと。
自分は他者との相互作用で生きている。
当たり前の理論なのだけれど、
日常で実感することこそが重要。
ちょっと楽しい「普通の読書」だった。
それらで構成されていると割り切る。
ここに固定された価値観の打破があるのだろう。
いい意味で、もっと冷静な、時に冷たいくらいの感覚も必要なのかな。。。
この部分はまだ保留。
それと。
「分人」は自分だけでなく、相手にも言えることで。
相手が見せてくれる(自分のための)「分人」が
優しくて居心地が良いならば、
それを感じることができる日々は感謝の念でいっぱいだ。
私の周囲の関わる人達の笑顔はやはり財産だなと。
自分は他者との相互作用で生きている。
当たり前の理論なのだけれど、
日常で実感することこそが重要。
ちょっと楽しい「普通の読書」だった。
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