これいいですね。
オードリー・若林「ツイッターで揉めない方法」 | 世界は数字で出来ている
同情すれば怒りは鎮まる
話題は「ツイッターで飛んでくるどうしようもない罵詈雑言にどう向き合うか」。
若林「そう。そこは火なんだから、そこに入っていくワケだから。その際、どうやってキレないようにすれば良いのかってことを、さっき、報道の方に訊いたの」
春日「あぁ」
若林「そしたら、『そういうことを送ってくる人は、ホントに全然面白くなくて、良いことが何もない毎日を送ってる人だと思えばいい。それ(鬱屈した気持ち)を自分(芸能人)に嫉妬や色んなバカにすることでなんとか生きている人だと思えば良い』って。つまりは、超下に見れば怒らないで済むよって言われたの(笑)」
春日「なるほどね。まぁ、それはそうだね」
若林「恋人もおらず、仕事でも評価されておらず。クズなんだと思えば、『しょうがないな』って思えるんだって」
これはメカニズムとしてよくわかります。ぼくも実はたまにライフハック的に活用してしまっています。「あぁ、可哀想な人なんだなぁ」と同情するようにすれば、怒りはスーッと収まり、相手に対する憐憫さえ芽生えてきます。
みなさんも上司の理不尽な発言にイラっとさせられた時なんかは、ぜひ「あぁ、可哀想な人なんだなぁ。仕事しか居場所がないんだろうなぁ」と同情するようにしてみてください。嘘ではなく、怒りはけっこう簡単に引いていきますよ。
ただし、同情という感情の扱いには注意する必要があります。中島義道氏は、道徳の非道徳性をこのように整理しています。同情というものは、本質的に相手なり自分を「落とす(見下す/見下される)」行為なわけですね。そのことに気づかねばなりません。
同情は四重の非道徳的行為である。(1)同情を求める卑劣なルサンチマンとの凶暴行為であるゆえに、(2)相手を見下しているゆえに、(3)それにも関わらず見下していないと自分を欺くゆえに、そして(4)その結果自分はよいことをしたと満足し自己愛を充たすゆえに。
怒りを抑えるための同情というものは、「俺の理不尽な境遇にみんな同情してくれ」というかたちで、自分を落としてしまうことに注意すべきです。ダメな上司に同情することで、自分もまた、周囲の同情を呼び寄せようとしてしまっているわけです。
みなさんは同情されることによって傷を癒すことができますが、どんどん「可哀想な」人間になっていく可能性もあります。「可哀想な人」として、周囲から見下されていることにまったく気づかずに。
本当に強い人は、相手に同情することもなければ、同情を寄せ付けることもないのでしょう。その意味で、ぼくはなるべく、同情という感情からは距離を置くようにしています。
冒頭のように、ライフハック的に「あぁ、この人は可哀想な人なんだなぁ」と思うことはしばしばありますが…これも卒業すべきなのでしょう。
これはこれで傲慢な響きがしますが、本当の強者は「この人が可哀想な人であることは、自分の責任である」と思え、行動できる人物です。
関連して、「「人間嫌い」のルール」ではラ・ロシュフコーの金言が引用されています。この境地は大変よくわかります。一字一句同感。
「私は憐憫をほとんど感じないし、できれば全然感じないでいたいと思う。とはいえ、私は苦しんでいる人を助けるためにはどんなことでもせずにはおかないし、実際に私はあらゆることをなすべきだ、その人の不幸に大いに同情を示すことさえすべきだ、と思っているのである。
というのは、不幸な人たちはじつに愚かなので、同情を示されることが彼らには無上の恵みになるからである。
しかし、私は同時に、同情は示すだけに留めて、心にそれを感ずることは注意深く避けられるべきだと考えている(ラ・ロシュフコー)」
同情というのは、無意識に心に忍び込んでくる悪魔のようなものです。
思い出すのは、ぼく自身、ビッグイシュー・オンラインの運営に関わるまで、ホームレスの方々を「可哀想な人たち」だと思い込んでいたことです。ビッグイシューの活動を通じて、そんな思い込みは傲慢にすぎないことがよくわかりました。彼らはたまたまホームレスになったのであって、何ら憐憫を感じることはないのです。ぼくだっていつホームレスになるかわかりませんし。
読者がホームレスの方々に人生相談をする「ホームレス人生相談」は、そんな関係性を強烈に意識させるものです。別に人間同士なんだから、フラットな関係性しかそこにはありません。
同情という悪魔とどう付き合っていくか。これはけっこう深いテーマだと思います。怒りを鎮めるための薬にも、一応なりますからね。
★この記事を読んだ人にはこの本がおすすめ。
というわけで、おすすめはこちら。同情という感情についても、詳しく扱われています。人間嫌いを貫く中島義道氏の「血の言葉」が読める、すさまじい本です。