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2011年7月28日 (木)

『パンプキン!』は大人でも必読書だ

 不勉強にもこんな爆弾があったことは知らなかった。題して「パンプキン爆弾」。長崎に落とされた原爆「ファットマン」の模擬爆弾である。

『パンプキン! 模擬原爆の夏』(令丈ヒロ子著/講談社/2011年7月26日刊)

 本書は、そのパンプキン爆弾を落とされて死者10人を出し、負傷者85人を出した大阪市東住吉区田辺の話である。その田辺に住む主人公の少女・ヒロカは、東京から来たいとこのたくみによって自分の家の近所にある慰霊碑のことを知らされる。その慰霊碑は大阪に落とされた模擬原爆の碑であった。興味を持ったヒロカはたくみやお祖父さんに教わりながら、その模擬原爆のことを夏休みの自由研究の課題として選ぶのであった。

 しかし、このパンプキン爆弾、長崎に落とされる前に日本の北海道以外の各都市35か所位に落とされて、当然500人近くの人の命を奪っている。多分、どの都市に落とせば有効なのかということを調べるという事もあったのだろうし、一方、この種の形の爆弾の投下した際の降下曲線も知りたかったのだろう。つまり、多分、こうした形の爆弾はそれまでになかった形なので、どういう落ち方をするのかを知らなければ、正確に目標を射とめられない。失敗の許されない攻撃なのだ。

220pxfat_man

長崎に落とされたファットマン

 それに比較すれば、広島に落とされたリトルボーイは一般の爆弾と同じような形をしているので降下曲線は大体わかっているので、それほどの予行演習は必要はなかったのかもしれない。

220pxlittle_boy

広島に落とされたリトルボーイ

 広島に落とされたリトルボーイはウラン原爆、長崎のファットマンはプルトニウム原爆という違いがある。

 多分その形の違いは原爆の内部構造の違いなのだろう。プルトニウム原爆は真ん中にプルトニウムを置いてその外側に通常爆弾を入れて爆発させて臨界に持っていくという方法論だし、ウラン原爆は筒の一方にウランを置いて逆側にぶつけるという発想。だから、こうした爆弾の形の違いになるのだ。その結果としての予行演習なのだろう。

 ただ一つ間違えて伝えられているのは、原爆のひとつが皇居に落とされたがそれは不発弾だったという話。実は、それはこのパンプキン爆弾であり、残念ながら呉服橋に落ちたようなのだ。まあ、もっともそこに落としたパイロットは更迭されて広島に爆撃した時は原爆搭載機への機乗は許されず、同行機への機乗となってしまった。

 普段は青い鳥文庫『若おかみは小学生!』シリーズで有名な令状ヒロ子氏であるが、こんな硬派なテーマで書くとは思わなかった。

 これは大人でも必読書であろう。

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コメント

『パンプキン!』は大人でも必読書だ

原爆投下の予行演習で、全国各地に落とされたパンプキン。
知らない方も多いはずなので、令丈さんの作品を読んでほしい、
本当にそう思いました。読んで良かったですよ。
当然、子供にも大人にも。
しかし、原爆の起爆装置に八木アンテナが応用されたり、
いろいろ思い出してしまいました・・・。

ちなみに令丈さん、いつもはウィットに富んだセンスのある作品を
出してらっしゃいます。
その際だった才能を解説するサイトまで、ネットにはあるんですね。
http://www.birthday-energy.co.jp
『S力人情商店街』がリメイク(というか改題)されて、
文庫で出版されました。どうやら大人にも読んでほしいという
事だそうですよ。是非。

 メールでのご返事ありがとうございました。
 そう言えば当時、一発か二発くらいの爆弾がよく落とされました。記憶では伏木とか主に海岸部だったと思います。皆は「富山の街の空襲の準備しているのか」と言い合っておりました。
 富山空襲は8月1日の深夜から2日の早朝にかけてで、市街中心地から約16キロk離れた高台にある生家からは、頭上を通る爆撃機の轟音と、街を焼き尽くす渦巻く炎の有様が手に取るように見えました。
 家に居ては危険だと言われ、近くの里山に逃げました。

 次の朝、親戚縁者を頼ってたくさんの焼け出されたボロボロの人たちが村にやってきました。私はまだ子どもで怖くて見られませんでしたが、わが家に来た人は、どこにも行く所がないので・・・と言って、泣き崩れていた姿を目撃しております。
 すでに家には、家族が八人居り、他に十五人の人たちを疎開で受け入れていて、さしもの広い田舎家でも受入れは出来なかったのです。
 母はその人たちを一晩だけ泊めてあげて、幾ばくかの食料を持たせて帰しました。
 焼け跡へ帰って行く姿を見送る母のなみだを忘れる事が出来ません。
 富山空襲は米軍のホメイニ少佐の昇進祝で、戦果を挙げる必要があったのだそうです。人の命をそんなことに使うなんて・・・
 今でも激しい怒りを感じます。

 もう一つ、思い出したことがあります。
 私の父は昭和の初期、呉で13年間海軍の職業軍人として生活しておりましたが生家の農業を継ぐために退役しておりましたが、その父に昭和20年4月8日、召集令状が来ました。
 行き先は舞鶴でしたが、敗戦近くなると敵機が頻繁に爆弾を落としていくようになりました。中には不発弾も多く、父たちはその爆弾を集めて信管を抜き、爆弾内部に詰まった火薬を抜く作業をしていたそうです。
 ある日、その爆弾はいくら削ってもコンクリートの塊が出るだけで、火薬らしきものが出てこないので、不思議に思って、そのコンクリートの欠片を部下に渡し、マッチで火をつけて見たのだそうです。
 欠片は物凄い勢いで飛びはねました。つまり、コンクリートだとばかり思っていた思っていたのはコンクリートで練りあわせた爆薬だったのです。父はこれを何にも知らずにタガネとハンマーで、がんがん叩いていたのです。父は後で私達に、その時は腹のそこまで冷たくなったと言っておりました。
 舞鶴は軍港で爆撃目標になるのは仕方の無いことでした。富山も爆弾が落とされた場所から3キロちょっと外れていましたが、不二越という大きな軍需工場をねらったのかも知れません。
 こんな話も話す人が少なくなりました。だからしっかり聞いて覚えておいて下さいね。

昭和20年夏、としか記憶がありません。
 多分7月だったと思います。当時小学6年生だった私は空襲警報のサイレンで、校舎の外のグランドのはずれにある桜の木の下まで飛び出しました。少し高台なのでそこから富山市街がよく見えました。
 すると、物凄い地響きがして土煙があがり、爆弾が落ちました。私たちのいる場所から20キロほど離れていたと思います。当時の事とて新聞報道もありませんでしたが、60年も経った今年の夏、その爆弾の正体がわかりました。このブログにも書いてあった、模擬原爆実験だったのです。直撃された民家と家族はコッパミジンとなり、跡は直径10メートルくらいの深い穴になっていたそうです。爆弾は一発だけでした。
 何も知らなかったとは言え、60年も経って聞く戦争の話は、ほんとに辛く恐ろしいものでした。
 この話は偶然、すぐ近くの家にいて爆風に吹っ飛ばされたけど助かった人の体験談が新聞に出ていて知った話です。35個の爆弾のうち、1個が富山市にも落とされたのです。パンプキン爆弾だったのでしょうか。

みただけではくりょくがあります

すごくこわいです

その通りです。間違えました。

はじめまして、いきなり生意気ですが、長崎の落とされた原子爆弾の名前は「ファットボーイ」ではなく「ファットマン」ではないでしょうか?

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