1.軍慰安所は民間の売春宿に過ぎなかった? |
「軍慰安所とは当時も今も存在するただの売春施設に過ぎない」「今だって歌舞伎町や吉原に行けばソープランドがたくさんあるのだから、公娼制度の下で売春が合法だった当時、軍慰安所という売春宿があったって、おかしなことではない」「米軍基地の周りにだって風俗街ができるではないか」
ネットでよく見られる言説です。これらの言説は、「日中戦争・アジア太平洋戦争時に存在した『軍慰安所』は当時の公娼施設や今日のソープランドと変わらない民間の売春施設である」という認識が前提になっているようです。そこで「軍慰安所は民間の売春施設だったのか?」という問題について資料を見ていきます。
先ず、「軍慰安所」あるいは「陸軍慰安所」「海軍慰安所」という名称ですが、これは当時の公文書に出てくる公式の名称です。
軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件 起元庁(課名)兵務課 陸支密第745号 昭和拾参年参月四日 |
「軍病院」あるいは「陸軍病院」などのように、「軍○○」、「陸軍○○」という施設があったなら、誰しもが軍の施設だと思うはずです。陸軍病院は軍とは関係のない民間の病院だとは誰も思いません。
軍の方も、民間の施設なのに、「軍○○」と勝手に名乗るのを許したりはしません。しかも、軍というものの権威がたいへん高い時代でしたから、そんな時代に、みだりに民間人が「軍○○」などという名称を使うなんてことができるはずありません。(それも、通常の業種ではなくて、当時「醜業」と賎視されていた売春業だったのなら、なおさらです。)
そういう時代に、軍自らが公然と「軍慰安所」という名称を公文書で使っているのですから、民間の施設であるはずがありません。軍の施設に決まっていると言って良いでしょう。
*このことは「韓国生討論」という掲示板の議論で「過客」さんという方からご教示いただきました。
外務省の領事館報告もいくつか見てみましょう。
在上海総領事館「昭和七年十二月末調 邦人ノ諸営業」
(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』89〜90頁) |
在上海総領事館「在上海総領事館ニ於ケル特高警察事務状況」 昭和十二年十二月末調 目次 一般ノ状況 一、在留内地人ノ状況〔略〕 二、在留朝鮮人ノ状況 (一)在留朝鮮人ノ戸口累年比較〔略〕 (二)在留朝鮮人ノ職業 〔目次、以下略〕 (二)在留朝鮮人ノ職業 昭和十二年十二月末調 職業 本業者 電車査票 一八 歯科医師 一 〔中略〕 陸軍慰安所 一 ダンサー 一八 女給 七八 外人妾 二〇 密売淫 二〇 〔後略〕 (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』173〜175頁) |
昭和十三年在漢口総領事館警察事務状況 〔中略〕 備考 漢陽ニハ軍慰安所関係者十三名滞在 〔後略〕 (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』193〜194頁) |
以上の資料だけで軍慰安所は軍が設置したまぎれもない軍の施設であると結論づけても良さそうな気がしますが、他の資料も見てみることにしましょう。
軍慰安所の設置が軍の指示・命令によるものであったことを示す資料は多数存在しますが、1937年12月ごろから中支那方面軍の指示で上海派遣軍と第10軍が陸軍慰安所の設置に乗り出したことを示す資料として以下のようなものがあります。
飯沼守上海派遣軍参謀長の日記 1937年12月11日の項 慰安施設ノ件方面軍ヨリ書類来リ、実施ヲ取計フ。 同年12月19日の項 憲兵ノ報告ニ依レハ十八日中山陵奥ノ建物ニ放火シ今尚燃ヘツ丶アリ。又避難民区ニ将校ノ率ユル部隊侵入強姦セリト言フ。 〔中略〕 迅速ニ女郎屋ヲ設ケル件ニ就キ長中佐ニ依頼ス。 (南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集T』1993年、偕行社) |
上村利通上海派遣軍参謀副長の日記 1937年12月28日の項 軍隊ノ非違愈々多キカ如シ。 〔中略〕 南京慰安所ノ開設ニ就テ第二課案ヲ審議ス (南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集U』1993年、偕行社) |
山崎正男第10軍参謀の日記 1937年12月18日の項 湖州ニ娯楽機関開設 先行セル寺田中佐ハ憲兵ヲ指導シテ湖州ニ娯楽機関ヲ設置ス。最初四名ナリシモ本日ヨリ七名ナリシト、未ダ恐怖心アリシ為集リモ悪ク「サービス」モ不良ナル由ナルモ、生命ノ安全ナルコト金銭ヲ必ズ支払フコト、酷使セザルコトガ普及徹底スレバ、逐次希望者モ集リ来ルベク、憲兵ハ百人位集ルベシト漏セリ。而シテ其ノ繁盛振リハ相当ナルモノニシテ、別ニ告知ヲ出シタル訳デモナク、入口ニ標識ヲ為シタルニモアラザルニ、兵ハ何処カラカ伝ヘ聞キテ大繁昌ヲ呈シ、動トモスレバ酷使ニ陥リ注意シアリトノコトナリ。 先行シ来レル寺田中佐ハ素ヨリ自ラ実験済ミナルモ、本日到着セル大阪少佐、仙頭大尉コノ話ヲ聞キ耐ラナクナッタト見エテ、憲兵隊長ト共ニ早速出掛ケテ行ク。約一時間半ニシテ帰リ来ル。憲兵隊長ノ口添ヘモ関係カ非常ニ「サービス」良カリシト、概ネ満足ノ体ナリ。〔以下略〕 (南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集U』1993年、偕行社) |
常州駐屯の独立攻城重砲兵第二大隊長の状況報告(1938年1月20日) 慰安施設ハ兵站ノ経営スルモノ及軍直部隊ノ経営スルモノ二ケ所アリテ 〔以下略〕 (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』195頁) |
稲葉正夫編『岡村寧次大将資料(上)戦場回想篇』(原書房)302〜303頁 第四編 武漢攻略前後 〔略〕 十 軍、風紀所見(その三) 〔略〕 (二) 慰安婦問題を考える。昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。 現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。 嘗て聞いたところによれば、北京附近の中国古老は、団匪事変のとき、欧米各国兵が掠奪強姦の限りを尽くしたのに、ただ独り日本兵のみ が、軍、風紀森厳にして寸毫も冒すことなかったことを回想し、どうして今の日本兵がかくも変わったのかと痛嘆したという。 全く昔と今とどうしてかくも変わったのか。 (三) 憲兵報告の一節。蚌埠在住の中国人に嫁した日本中年女性は言う。中国兵は、掠奪するが強姦はしない。日本兵は、掠奪しないが強姦をする。可否何れにかあらん。頼みとするのはただ天主教会の神父のみと。 刑罰種目中最も多いのは上官暴行と強姦である。そうして犯人の年齢別を見るに最多数は三十三歳である。 以上の報告を視て私は考える。三十三歳と言えば固より既教育兵であるから現役時代の教育も責任を負わなければならないが、軍を離れて既に久しく一般社会に生活したことであるから、社会も責任を負わなければならない。軍の罪が国民一般の罪か。 (四) 来陣した中村軍務局長の言によれば、戦地から惨虐行為の写真を家郷に送付する者少からず、郵便法違反として没収したもの既に数百枚に達しているという。 好奇心も甚しいというべし。 〔以下略〕 *指環注 岡村寧次大将(1884年 - 1966)は、第11軍司令官、北支那方面軍司令官等を歴任し、終戦時には支那派遣軍総司令官を務めていた日本の陸軍軍人。中国側からは「三光作戦」の責任者だとされている人物。 |
また、華北の状況についても次のような資料があります。
軍人軍隊ノ対住民行為ニ関スル注意ノ件通牒
昭和十三年六月二十七日 北支那方面軍参謀長 岡部直三郎 〔略〕 二、治安回復ノ進捗遅々タル主ナ原因ハ後方安定ニ任ズル兵力ノ不足ニ在ルコト勿論ナルモ一面軍人及軍隊ノ住民ニ対スル不法行為カ住民ノ怨嗟ヲ買ヒ反抗意識ヲ煽リ共産抗日系分子ノ民衆煽動ノ口実トナリ治安工作ニ重大ナル悪影響ヲ及ホスコト尠シトセス 三、由来、山東、河南、河北南部等ニ在ル紅槍会、大刀会及之レニ類スル自衛団体ハ古来軍隊ノ掠奪強姦行為ニ対スル反抗熾烈ナルカ特ニ強姦ニ対シテハ各地ノ住民一斉ニ立チ死ヲ以テ報復スルヲ常トシアリ(昭和十二年十月六日方面軍ヨロ配布セル紅槍会ノ習性ニ就テ参照)従テ各地ニ頻発スル強姦ハ単ナル刑法上ノ罪悪ニ留ラス治安ヲ害シ軍全般ノ作戦行動ヲ阻害シ累ヲ国家ニ及ホス重大反逆行為ト謂フヘク部下統率ノ責ニアル者ハ国軍国家ノ為メ泣テ馬謖ヲ斬リ他人ヲシテ戒心セシメ再ヒ斯ル行為ノ発生ヲ絶滅スルヲ要ス若シ之ヲ不問ニ附スル指揮官アラハ是不忠ノ臣ト謂ハサルヘカラス 四、右ノ如ク軍人個人ノ行為ヲ厳重取締ルト共ニ一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整ヘ設備ノ無キタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス 〔以下略〕 |
さらに、日本の責任を否定する立場からの旧日本軍兵士の回想の一部も紹介しておきましょう。
伊藤桂一「若き世代に語る日中戦争」 また一方で、軍は慰安所に無関係だった、あれは民間が勝手にやったことだという意見も耳にするけど、そんなことはない。僕は、「慰安婦募集の一記録」という一文を書いたことがあります。満州にいた関東軍の第六国境守備隊隊長だった菱田という大佐が、北満州の西○子という町に、軍の管理する慰安所を作ったという話です。 〔中略〕 彼の慰安所計画は、憲兵隊長の強い反対にあいます。民間人がやるならともかく、軍みずから慰安所を作るなんてとんでもない≠ニ。しかし、菱田部隊長は君たちは料亭の女を専有しているからよい。兵隊たちは性の処理をどうするんだ≠ニ反論して、これを認めさせた。民間人に任せると性病がこわいし、情報が漏れる。それならいっそ軍がしっかり管理して、慰安婦たちにも安心して働いてもらおうというのが菱田大佐の発想なんですね。 (『諸君!』2007年8月号149〜150頁、伊藤桂一『若き世代に語る日中戦争』文春新書46〜47頁) ※文春新書には「上海に開かれた軍直営の慰安所第一号(数カ月たって民営に移管された。1938年1月撮影)」との写真が掲載されています(47頁)。 |
(2011年10月22日追記)
永井和氏(京都大学大学院文学研究科教授)が発見された、陸軍大臣制定の軍の内部規則には次のようにあります。
陸達第48号「野戦酒保規程改正」(1937年9月29日制定) 第一条 野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス 野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得 *指環注 この規程は、アジア歴史資料センターで公開されています。レファレンスコードは、C01001469500、表題は「野戦酒保規程改正に関する件」(大日記甲輯昭和12年)。 |
この1937年の改正以前の野戦酒保規程の第一条は、次のとおりです。
第一条 野戦酒保ハ戦地ニ於テ軍人軍属ニ必要ノ需用ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス |
1937年の改正の理由について、改正規程に添付されている「野戦酒保規程改正説明書」(経理局衣糧課作成で昭和12年9月15日の日付を持つ)に次のようにあります。
改正理由 野戦酒保利用者ノ範囲ヲ明瞭ナラシメ且対陣間ニ於テ慰安施設ヲ為シ得ルコトモ認ムルヲ要スルニ依ル |
この「慰安施設」が「売春施設」を意味するということは、先に紹介した飯沼守上海派遣軍参謀長の日記に「慰安施設」=「女郎屋」と書かれていることからも明らかです。
また、永井和氏の研究によると、陸軍の経理学校の教官が経理将校の教育のために執筆し、1941年に刊行されたと推測される演習教材集(『初級作戦給養百題』)には経理将校が行わなければいけない「作戦給養業務」の一つに「慰安所ノ設置」が挙げられていて、さらに師団規模の部隊が占領地で駐屯体制に入った場合に師団経理部がとるべき措置の中にも「慰安所ノ設置」が挙げられていると言います (『日本軍の慰安所政策について』の「追記」)。
これらの資料から、軍慰安所が軍の後方施設である野戦酒保に付設された施設、即ち軍が設置した兵站付属施設であったことは、ほぼ間違いないと思われます。
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