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現在位置:asahi.com >歴史は生きている >3章:日露戦争と朝鮮の植民地化 >記憶をつくるもの > 独り歩きする「脱亜論」



〈記憶をつくるもの〉

知っていますか明成(ミョンソン)皇后

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観客が100万人を突破したミュージカル「明成皇后」

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ドラマ「明成皇后」では、人気女優の李美妍(イ・ミヨン)が皇后役を演じた

■植民地史観から離れ描く

 殺害された王妃とは明成(ミョンソン)皇后。日本人にとっては、閔妃(ミンビ)(びんひ)という方が通りがいいだろう。彼女をめぐる事件は、日露戦争への序曲にもなった。

 日清戦争後、ロシアは日本の中国進出を恐れ、朝鮮に接近。この時、朝鮮側で権力を得たのが、反日派の閔妃だった。1895年10月、三浦梧楼(みうら・ごろう)公使を首謀者とする一団が王宮に乱入し、目障りな存在であった閔妃の殺害に及ぶ。明成皇后とは、死後贈られた称号である。

 しかし、義父である大院君(テ・ウォングン)、夫である国王高宗(コジョン)を差し置いて権力を握る姿は、儒教思想の強い韓国では否定的なイメージでとらえられてきたという。

 事件から100年の節目である1995年。そうしたイメージを覆す国産ミュージカル「明成皇后」が登場した。

 企画制作にあたった演出家・尹浩鎮(ユン・ホジン)さんは「(近年の)多様な外国の史料から浮かび上がった彼女の姿は、国際感覚にあふれ、朝鮮の未来に確固たる理想を描いている姿だった」と話す。

 舞台は話題を呼び、今年3月には韓国ミュージカル史上初めて観客が100万人を突破した。「この作品が国内での呼称が閔妃から尊称である明成皇后へと変わる契機になった」と尹さんは自負している。

 ミュージカルに刺激を受け、韓国放送公社(KBS)は01年から02年にドラマ「明成皇后」を放映した。人気女優の李美妍(イ・ミヨン)が、向学心にあふれる聡明な皇后像を演じて、大ヒット。明成皇后と言えば彼女を思い起こす人も多いという。

 KBSの尹昌範(ユン・チャンボム)プロデューサーは「従来の(明成皇后の)イメージは日本側によって作られたものだった。そうした植民地史観から離れた明成皇后像を描き出すことが大きな狙いだった」と語る。放送もサッカーW杯日韓共催に合わせた。「両国がさらに歩み寄ることを期待しつつ、決して忘れてはならない歴史が存在することを考えるきっかけにもしたかった」

 こうした明成皇后の再評価の動きはなぜ起きたのだろう。

 韓国・明知(ミョンジ)大学の洪順敏(ホン・スンミン)副教授(韓国史)は、「歴史学界での近代史への関心の高まりと、歴史における女性の役割を認識しようという雰囲気が影響した」と見ている。「ただ、歴史研究が十分でない状況で芸術作品化され、過度に美化されている面も否めない」

■ドラマで中国にも浸透

 明成皇后をめぐるミュージカル、ドラマは海外にも進出。特にドラマはアジアを席巻した「韓流」人気に乗り、台湾、中国でも大ヒットした。

 「中国でも閔妃が一般的で、当初は明成皇后と言われても誰?という状況だった」と駒沢大学専任講師(メディア論)の高媛(ガオ・ユワン)さんは言う。それが日本での「冬のソナタ」のような大反響を呼び、明成皇后の名は一気に浸透した。

 「近代史において対日本という意味で、中国と韓国には重なりあう部分が多い。また女性の生き方を描いた物語としても多くの女性たちに支持されていたようだ」

 一方で当時の清の描かれ方などをめぐり論議も起こったという。

 事件の当事者でもある日本ではどうか。

 大妻女子大学専任講師(近代日本語文学)の内藤千珠子さんは、明成皇后は当時の日本の新聞によって負のイメージを作られてきたことを著書「帝国と暗殺」の中で明らかにしている。

 「その後日本では明成皇后のイメージは限りなくゼロに近づいた。そこに存在し、知っているのに見ないという視界のあり方が、日韓の歴史の中には横たわっている。明成皇后はその象徴的な存在だと思う」

 韓国のエンターテインメントは今や日本でも当たり前のように受け入れられている。しかし、明成皇后のドラマ、ミュージカルをめぐっては今のところ、放映、上演の動きはない。

 《韓国では誰でも知っている事件を、加害者側の日本ではそんな事件があったことさえ一般には知られていない》。そんな驚きから作家の角田房子さんは、ノンフィクション「閔妃暗殺」を執筆した。「覚悟の上でしたが、予想以上に多くの攻撃を受けました」と20年近く前の出版当時を振り返る。しかし、「閔妃暗殺」が大きな反響を巻き起こしたことで、日本の歴史教科書の記述にも影響を与えた。

 「そこまで行くとは思わなかった。わずかとお思いになるかもしれませんが、私には大きな一歩だったと思っています」

(桜井泉、西正之)

キーワード:閔妃殺害事件(乙未事変)
 鮮王朝の実権を握り、排日・親露政策をとっていた閔妃に対し、日本公使の三浦梧楼は、閔妃の政敵である大院君を擁して親日政権を作ろうと画策。1895年10月8日早朝、日本軍守備隊、警察官らによる一団が王宮の景福宮を襲撃し、閔妃を斬殺した。親日政権が作られたものの、事件の一部始終を宮廷内にいた米国人、ロシア人らに目撃されており、国際的な非難を浴びた。日本政府は三浦ら関係者を帰国させ、裁判にかけたが、証拠不十分で免訴、釈放となった。親日政権は民衆の反日義兵闘争でつぶれ、翌96年には親露派内閣が誕生した。

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