「鳥首峠と うわごう道」
2005.10.23

旧名栗村と、秩父浦山との境になる鳥首峠を東の名郷から越えて、武甲山の南西側に位置する
浦山に、人影の絶えた幾つかの集落を辿る「うわごう道」を訪ねます。
浦山渓谷に沿った谷道を「した道」と呼び、それに対して山辺の上を行く道を「うわごう道」といいます。

鳥首峠


 久しぶりの好天に恵まれ、西武線の車窓からも冠雪した富士の姿も見えています。飯能駅から名郷まで名栗川沿いに自走すれば、朝日は未だ低く、冷え込んだ冷気を切るようで、なかなか身体が温まらないのです。川沿いの道は比較的緩やかな勾配が続くので、ゆっくり足慣らしを兼ねて体調を保ちながら、最後の集落でもある名郷に着きます。

 周囲には古い材木商や、趣のある板塀の旧家など、いつ来ても落ち着いた集落の雰囲気が特徴で、時代に荒らされない景観を好ましく思います。辻は山伏峠を越えてきた道と、妻坂峠を越えてきた旧鎌倉街道山之辺の道、そしてこれから越える鳥首峠の道が交わるところで、この地方の産業を支えてきた木材や炭焼きの炭俵が集積して様々な生活資材とが商いされてたのです。


左が馬頭観音


 辻に建つ馬頭観音に頭を下げ、休んでいると、ご近所のおばあちゃんが笑顔で話し掛けてきます。「紅葉は未だすこし早いし、杉が多いから山が奇麗じゃないね、春には花粉が凄いから木を植え替えればいいんだが・・・」と、言い残して過ぎていきます。集落では、林業の中継地とした土地柄ですから都会人向けの発言でしょうか。気を使って頂いたとお察ししましょう。

 資料として読んでいた「峠 秩父への道」大久根茂著、に興味深い記述が有りましたので概要を紹介します。江戸末期、英国から通訳として来日し活躍したアーネスト・サトウは、その旅日記に名郷に宿泊したとあります。彼は旅が好きで、1週間ほど掛けて原市場から天神峠と仁田山峠を越えて名栗川を遡り、名郷に宿泊、妻坂を越えて秩父から三峰に詣で、雁坂を越えて甲州路を旅したそうです。

 妻坂を越える道は大宮道と云われ、山伏峠を越える道が秩父往還だったと書かれ、博労に託した荷駄は山伏峠を越え、サトウは徒歩で妻坂を越えて秩父で待ち合わせしたそうで、直線的な妻坂峠越えの方が時間は短かったと観察しています。その妻坂の分岐にはサトウが越えた当時から在った石の道標が今も建ち、「右大みや」と書かれているのです。

 なんと!アーネスト・サトウは我々の仲間、パスハンターだったのです!(笑)
 さて、この記述の正確な年号が分かると良かったのですが調べきれません。彼が来日した年は、生麦事件の起こった年で、その後は薩英戦争など激動期なので旅行どころでは無かったでしょうから明治に入ってのことでしょうか?このあたり筆者の勝手な推量が多くなってしまいます。


妻坂との分岐に建つ道標と石仏


 その「右大みや」と書かれた道標と、石灰岩で出来た白い石仏の建つ妻坂の分岐を更に西へ進みます。県道の行き止まりは白岩の石灰岩の鉱業所。大きなタンクに、「JFEミネラル」と会社名が大きく書かれ、比較的良質の石灰を産出するそうです。峠への径は鉱業所建物右隅の水屋の脇から鉄の梯子を登ります。


登山口


 急登の九十九折れを登ると数軒の廃屋が見えてきます。炭焼きなどで暮らした白岩の集落です。径の途中、目立つものと云えば、生活資材を運び上げるモノレールと赤錆びた消火栓です。このような山間部に消火栓が設置されているのを、今まで他の地域でも例を見たこともありません。住民たちは炭焼きで暮らした反面、よほど防火に気を配ったと考えられます。


廃屋と化した白岩の集落


 昭和三十年頃には二十一軒の家が暮らし、山を訪れるハイカーへは土産物屋も在ったとか。薪炭から化石エネルギーに変わり、山は建築用材の植林に変わると住人も職を失って山を降りて久しく、残った家屋も柱は傾き、軒は崩れかけています。最後まで残って暮らしたのでしょうか戸板に神林と書かれた家屋だけは、手入れがされて今にも住人が出てきそうで、近くの叢の墓石にもその名が刻まれ、哀れさを感じてしまいます。


白岩の岩峰


 見上げれば、集落の北側に白岩の岩峰が紺碧の空に突き出るように聳え立ち、白さを輝かせているのがとても印象的です。白さを見れば「白岩」地名の謂れとなったことも一目瞭然です。集落を過ぎて少し先、径は北西からの沢を渡渉する辺りで尤も不明瞭になります。沢の対岸に建つ、送電線の巡視路を表わす黄色い杭の背後を直登すれば、径は山襞を巻きながら西奥へと進み、最後は杉木立の九十九を急登して峠に立ちます。


鳥首峠


 大山祇命(オオヤマツミノミコト)と背面に幣(ぬさ)が貼り付けられた小さな祠が祀られていて、そっと旅の無事を祈願して手向けを忘れません。書物によれば以前には鳥居が建っていたそうで、それとなく地面を観察すれば、朽ちたその柱跡だけが名残を留めます。武甲山をご神体として奉っていたので、周囲にはこのような祠が多いのでしょう。

 眺望は植林された樹木に阻まれて利きません。以前この辺りではブナの木が多く、峠には太い3本の古木があったそうです。しかし、心無いハイカーが樹木に傷を付けた為に、樹皮が剥がれ枯れてしまったとか。この山でも炭焼きから自然林の良さに気がつかぬまま杉や檜の植林に変わり、建築用木材の価格暴落から手が入らなくなって山が荒れています。 

 鳥首峠と地域の関わりは山伏峠、妻坂峠と比較すると936mと最も標高が高く、秩父へ向うならば遠回りとなる事から、参詣路にはもっぱら830mの妻坂峠が使われ、荷駄を運ぶには604mと最も低い山伏峠を通ったのでしょうから、鳥首峠は参詣、商業、運搬などには使われなかったのでしょう。

 それらを裏付けるように、峠の両側にある白岩、冠岩の集落も隠れ里のように存在し、落武者の伝説なども伝わる事から、峠の活用性としては、せいぜい炭焼きの俵を背負って名郷へ運び出し、生活資材を調達したりするのに使われたり、年に1度の大日堂のお祭りに名郷から出かける程度の利用性だったと考えられ、開発の手から逃れる事ができたのでしょう。

 峠から、浦山へ杉林の中を下りはじめれば、径はトラバースの繰り返しが続き、やや荒廃ぎみで倒木の連続と、落ちた杉の枝が多く散乱し、薄暗い雰囲気です。集落に住民が暮らした頃には、この径を定期的に整備してきたそうですが、今では荒れるままになっています。

 先ほどから気が付いていたのですが、径には今朝踏んだばかりの足跡が幾つも残ります。集団が前を行くようです。猟師のように、普段から小径ではそんな小さなことにも気を配り、熊などとの突然の遭遇を回避するのです。やがて地蔵と板碑の祀られた祠に出れば、冠岩(地元ではカムリ岩と呼ぶ)集落に付きます。地名の謂れとなった冠岩は、集落の下にあったそうですが、林道を造る時に壊したそうです。


冠岩の地蔵と板碑


 板碑には謂れがあるそうで、昔、落武者がこの地にお堂を建てようとしたそうですが、何者かに殺害されてしまったのです。住民がその供養に板碑を建てたのですがその後、祟りを恐れて誰もこの板碑を触ろうとしないそうです。板碑とは石の塔婆で、青石塔婆とも呼ばれます。秩父で産出した緑泥偏岩に彫られています。鎌倉から戦国時代までの短い期間に流行、江戸期に入ると幕府は邪教としてこれを禁止し、江戸府内では全く見られなくなります。


冠岩(かむりいわ)集落

 今では廃屋ばかりとなってしまった冠岩の集落に住んでいた人達は、全て上林姓で、白岩の神林家から出たそうです。祠の中にはお供物が供えられ、誰か供養に来られたのでしょうか?不思議に思いながら板碑の写真を撮っていると、少し離れた方から人の声が微かに聞こえてきます。少し遠回りして集落へ立ち寄ってみると、ハイカーの集団が明るく開けた畑だった場所に陣取って昼食を摂ってるのです。

 いつものように挨拶を交わして行く先を尋ねれば、やはり鳥首峠から我々の前を歩いていたそうで、その中のリーダー格の一人が、「今日は川俣の大日堂のお祭があるので、獅子舞が奉納されている筈です」と教えてくれました。運が良いです。この地域のことを調べて読んだ本にも記されていましたが、まさか当日に来られるとは思いもよらず、期待に胸を膨らませ林道を下ります。


大日堂の獅子舞


 川俣の大日堂は下って行った沢の淵にあり、日原から仙元峠を越えて来た径の出口にあたります。日頃殆んど人影も無い山奥のお堂には、祭礼を祝う奉納の白い幟が立ち、臨時に屋台や売店なども出来て大勢の人達が集まってきて賑やかです。


毎年10月中旬に行う獅子舞の奉納


 祈願の受付、案内、売店やお店の係りの人は訪れる人を見ては、誰もが挨拶を交わす言葉の端々に、久しぶりに会う旧知の人同士の会話が交わされます。村を出て行った人々がこの祭礼の日の為に戻って来られたのでしょう。それもその筈、浦山は渓谷に造った浦山ダムの底に、谷筋の道と一緒に幾つかの集落ごと全てが水没してしまったのです。


   獅子舞の奉納    祈願に大日堂を回る


 笛と太鼓を先導に、祈願を受ける人々と獅子がお堂を3回ほど廻り、最後は獅子が注連の中で舞う姿を見ていて、以前桧原村の事貫の祭礼で見た獅子舞を思い出します。この浦山の獅子舞も、謂れなど伝承が無いそうで、奥多摩方面からの伝承では無いかと言われているそうで、休んでいた獅子の男性に尋ねると、生まれて16年間はこの村に住んで居たそうですが、今は別の土地に引っ越していて、祭礼の日に手伝いに来るのだそうです。


獅子舞の奉納


 不思議なのは大日堂です。大日堂には普通大日如来が祀られるので仏教です。 しかし、獅子舞を奉納するのに注連縄を張って幣(ヌサ)でお払いをする?神仏混淆でカタチが出来ているようです。気がつけば幟も神社風でお堂は方行のお寺風です。尤も大日如来は天照大神と同格になり、元はといえば太陽神?知識に乏しい管理人は理解に苦しみつつ、中央の影響を受け難かったこの地方の独自性かと解釈しておきましょうか。


地蔵峠


 祭礼でごった返す蕎麦屋で蕎麦を食べ、今回のテーマでもある、「うわごう道」を辿るのですが、その前に細久保の集落と毛附の集落間にある地蔵峠を訪ねてみます。川俣で細久保沢を左へ渡って直ぐの民家の先を右へ入ります。近くの民家で念のために径を尋ねてみましたが、自転車では行かれないかも?と道は在るようですが判らぬ様子。


細久保への路から分かれ地蔵峠を目指す石積みの路


 簡易舗装された集落への径を目的地の峠の標高よりやや高い600mを越えた辺りまで登ると、径が二手に分かれるので、それを右へ進みます。殆んど廃道に近い踏み跡を辿るように緩やかに下って行くと、徐々に径は東へ傾斜した尾根に寄り添い、更に下れば大きな楢の大樹が目に入ります。本で紹介されたとおり、楢の太樹には藤が巻きついて、昔は藤の花が咲く頃には細久保集落の人々が集まって花見を楽しんだそうです。


藤の巻きつく楢の古木と道型もはっきりした地蔵峠


 峠にはその名の通り地蔵が祀られて二十三夜塔も祀られ、女性達の寄り合いもあったのでしょう。尾根を巻くように径が付けられた地蔵峠の特徴は、多くの人が行き交った街道の峠とは趣を異にし、細久保集落への入口として集落に危害が加わらないように、邪気、悪霊、疫病、闇の侵入者を阻止する目的で設けられた結界でしょう。所謂峠としての意味からすれば、集落へ登る途中の通過点でしかなく、少し違う地形です。
 しかし、見た限りでは立派な峠としての存在を表わして、楢の老樹やその根方の山神を祀る祠、切り通した向かいの土手には地蔵を祀って峠を護らせるのですから峠の役者が揃っています。


地蔵峠の地蔵と二十三夜塔


 毛附の集落は北側直下に見えています。地図に記載された細道を降りだすと、ザレザレの径は崩れやすく、足を置いただけで小石が谷へ転がり落ちていきます。最悪は小さな沢の崩落で、4箇所程の沢を越えるのに二人でやっとです。殆ど乗車できないままに毛附集落の民家の庭先へ降り立ちます。猪除けの木戸を開け、庭先を通過させていただき舗装路に出ると、地蔵峠へのハイキングコース案内が曖昧な方角を向いていたのが気になります。


毛附集落の峠の案内版


うわごう道


 毛附の橋を渡り500mほど下った分岐を右へ、大神楽から武士平への舗装路を登り返します。二人とも既に足が棒のようで、思うようにペダルが回転しなくなり、ボヤキも出るのですが、まだまだ日は高くもう一分張りです。大神楽には未だ人が住んでいる様子で、途中で草刈鎌を持った老人とすれ違います。ヘアピンを過ぎて赤く塗った社の下で休憩、補給と呼吸を整えて少し長めの小休止です。


たわ尾根入り口に建つ武士平の民家


 道なりに急なコンクリの坂を登ればもう武士平です。その昔、仏子平とよばれたそうで、謂れでは秩父三十四箇所の霊場に奉った観音様をこの地で彫ったと伝わりますから、仏師が住んでいた時代があったのでしょう。その後、落武者が住み着いて武士平に変わったのだと伝わるそうです。たわ尾根への入口の民家の庭先で作業をしている家人に挨拶して峠へむかいます。

 たわ尾根までは20分ほどの僅かな登りで、峠には優しいお顔の観音様が祀られ、新しい木の道標と対照的です。馬頭観音の右側には古い石垣が積まれた平地が確認されます。小屋ほどの建物でも在ったのでしょうか?「たわ尾根」とは、尾根の鞍部を指し、峠を表わす意味そのものですから、固有名詞では無く、つまり名の無い峠となるようです。


馬頭観音の建つたわ尾根の峠


 峠から径を有坂から茶平方面へと進みます。有坂の位置は、鬱蒼とした杉林の中を知らぬ間に確認できぬまま通り過ぎてしまいます。伝承では此処に家を建てると長続きしないとか、槍坂と云われた頃の槍の祟りだそうで、住居跡らしき位置には石仏が祀られています。やや平坦になると、径の分岐に出て、道標が建ちます。


有坂の石仏と藪道


 茶平は左、我々は右の大谷へと進みます。日向の集落へは小さな尾根を幾つか越えながら薄の斜面で藪漕ぎを強いられます。見返すと潅木と群生したススキの間に僅かな踏み跡が確認されるのですが、人が歩かなくなって草木が繁茂したようです。三つ目の峰を越えると径はぐんぐんと下り、杉林も終わると日向の集落です。六地蔵の祀られた辻から先には径も広くなります。


      峠に建つ大日様と聖徳太子塔      日向の六地蔵は哀れにも首が取れて


 民家の廃屋が、蔵が、無残に傾いて哀れです。径はコンクリの舗装に変わり高度を下げながら大谷の集落から県道へ降り立ち、この日の廃道探索を終ります。近年はダム建設で交通の便も良くなると、反対に都会へ出やすくなり、山の暮らしよりも便利で快適な暮らしにあこがれて山を降りる若者も多く、年老いた家人が家族を頼って次々と村をあとに出てしまったのでしょう。


浦山ダムとさくら湖


 満々と水を湛えた秩父さくら湖の水面を眺めながら、小さな峠と山奥に暮らした人々の姿や土地の歴史を想いうかべ、峠越えを終わります。浦山民族資料館は浦山ダムから国道へ出る少し手前の左側に建ち、ダムに沈んだ集落とその人々の歴史、伝承を今に伝えています。興味のある方は是非お立ち寄りください。


INDEX 峠道越えて