「折節の記」 正論2012年10月号 NO.1
真珠湾攻撃とほぼ同時のフィリピン・クラークフィールド爆撃に次いで、本間雅晴中将以下四万の将兵はニ週間後の昭和16年12月22日にリンガエン湾に上陸し、三倍の米比軍を駆逐していった。
マッカーサーは震え上がってマニラ放棄をワシントンに伝え、バターン半島へ撤退を始めた。臆病者の逃げ足はいつも速い。
開戦の直前にルソン島に着いたばかりの戦車隊員レスター・テニーも臆病さではマッカーサーに負けていなかった。
彼の戦車隊は日本軍との邂逅を避け、ひたすらバターン半島を目指した。小さな集落に差し掛かると「白人には日本人とフィリピン人の区別もつかないから小屋も商店も無差別に斉射し」住民を皆殺しにしていったと著作「バターン死の行進」に書いている。
身分証明のないものも「即座に殺した」「日本軍に密告されそうだったので四軒の民家を家族ごと戦車砲で吹き飛ばした」とも。
正確にはユダヤ系だが、テニーは白人には有色人種を殺す特権があると思っているようだ。
彼はその半年後、日本軍に投降し、たった120キロ先の収容所まで歩かされた。行程の半分は「貨車に乗って」(同)の移動だったが「それは地獄の行進だった」と大げさに騒いで日本を告発し続け、愚かな岡田克也外相は彼を日本に招いて謝罪した。
ついでにフィリピンに彼を送って無辜の民を殺しまくった罪で裁かさればよかった。
同じころ、英領ビルマでも神の如く振る舞ってきた英国人が日本軍侵攻に震え上がっていた。
昭和17年2月、つまり日本軍がもうそこまで来ている時、名門ラングーンCCで月例クラブチャンピオン戦があってR.ハミルトンが84という歴代最下位のスコアで優勝した記録が残っている。
日本軍?それがどうした風に振舞ったつもりだろうが、スコアは彼等の恐怖心を伝えていた。彼らはまず家族をインドに逃し、日本軍がラングーンからマンダレーに迫るとドーマンスミスらは神様のポーズをかなぐり捨てて北の密林に分け入ってチンドウイン川から峻険な山越えでインパールに脱出していった。
その2年後のインパール攻略戦では日本軍はこの総督の逃避行の足跡をなぞっていった。
配下の英印軍はしっかりしんがりを守る筈だったが、まずインド兵が逃げ、英士官も雪崩を打ってそれを追った。
マンダレーの南西約百キロのタウンサで英士官ジェラルド・フィッツパトリックの隊は小さな集落の人々に行き会った。
あとは米兵テニーと同じ。「敵に通報されないために集落にいた子供を含め27人を皆殺しにした」と84年7月10日付サウスチャイナ・モーニングポスト紙に告白している。
米も英も植民地支配は過酷だった。逃げるときは仕返しが当然あるから、先手を打って殺すのが彼らの形だった。
日本は英米とはまったく違う統治をした。台湾では烏山頭ダムを作った八田與一の妻外代樹が戦死した夫を追ってダム放水路に身を投げた以外は、多くの日本人は台湾の友人に見送られ粛々と本土に引き揚げて行った。
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