私はデマや似非科学が大っきらいです。
悪徳商法の繰り出すトンデモ理論はもちろんのこと、TwitterやFacebookで流れるちょっとした小話でもウソの匂いには敏感に反応し、ソースを探したり本人に凸ったりします。
「なぜこんなちょっとしたことにムキになるのか。誰にも迷惑かけてないじゃないか」
って反応をいただくこともしばしばです。
私もなんでこんなにデマやら似非科学やらに拒否反応を示してしまうのかちょっと不思議だったので自己分析してみました。
振り返ってみると、決定的にデマが嫌いになったのって東日本大震災以来なんですね。
震災が起きたあのとき、私はオフィスにいました。電話やメールといった普段使い慣れたインフラがダウンしていたので、連絡や情報収集はもっぱらTwitter頼みです。そのときに流れていたデマのひどいこと。
「どこそこの家電量販店で携帯の充電ができるよ」のようなかわいいものから、ひどいものでは「千葉の化学工場が爆発して、汚染された雨が降る」みたいなものまで。「建物が崩壊して動けません。助けてください」というような、救急体制に直接悪影響を与える悪質なものも多くありました。
リテラシーは高いつもりでいた私でしたが、そうしたデマに引っかかってしまい拡散を幇助してしまったこともありました。いま思い出しても恥ずかしい限りです。
いまでも東北産の食べ物に対する放射能デマなどが生き残っており、本当に腹立たしい状況ですが、あの出来事をきっかけにデマが決定的にきらいになったのだと思います。
「いや、それなら悪質なデマだけ突っ込めばいいじゃん」
そんなご意見もあるかと思いますが、それはなんか問題がある気がするんですよね。
というのも、「いい話だから無批判で受け入れる」ことを常態化してしまうと、「情報の真偽を問う力」がだんだんと弱まってしまう気がするんですよ。
たとえば、「いい話だからウソでもいいじゃん!」で広まってしまった似非科学の代表格は「水伝」でしょう。水にやさしい言葉をかけるときれいな結晶になる、意識のない水でさえそうなのだから人間同士ではもっと気を使ってやさしい言葉を使いましょう、というやつです。
一定のリテラシーがある方なら、こんな非科学的な話は鼻で笑うでしょう。けれども、実際これが道徳の教科書に載ってしまったりしたわけです。理科の先生はやりづらかったろうなあ。
しかも、詐欺や悪徳商法ってこういう「一見していい話」からの勧誘を常套手段にしてたりするんですよね。マルチ商法の「中間流通を通さないから安い価格で提供できるんですよ」なんかが代表的かなあ。ロジスティクス業界の方が聞いたら憤死しそうな話ですが。
それでもし、普段から「いい話だから無批判で受け入れる」ってことを繰り返していて、「情報の真偽を問う力」が弱まっていると、こういうのにもどんどんひっかかりやすくなるような気がするんですよね。「EM菌で放射能が除去できる」とか「月々5万円の積立で1億円が貯められる」とかにだまされてしまうかどうかの分かれ道って、日々の情報に対する接し方を積み重ねた先にあるように思えるんです。
ちょっと引っかかるところがあったら都度ソースを調べる。あるいは尋ねる。
そういう地道な積み重ねがデマや似非科学に強い社会を作ると思うのは私だけでしょうか。