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help RSS 与那国島の「従軍慰安婦慰霊祭」を考える

<<   作成日時 : 2013/03/31 14:28  

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 沖縄県八重山諸島の与那国島、ここは日本最西端の地ですが、フジテレビ系列のドラマ「Dr.コトー診療所」の撮影地と言った方がわかりやすいでしょうか。その与那国島で3月23日『朝鮮人「従軍慰安婦」与那国島慰霊祭』と言うのが行われたそうで、その慰霊祭のチラシが各家庭に配られたそうです。
画像

 慰霊祭の根拠となった理由がチラシに書かれていました。その部分を赤枠で囲いましたが次のように書いています。

1944年末、朝鮮人「従軍慰安婦」53名が、日本軍に寄って臺灣から沖縄の宮古島へ連行される途中、与那国島の久部良港で、アメリカ軍の空爆により46名が虐殺されました。
私たちは、異国万里の地で殺された「好き好んでイアンビーになったわけではない、日本の強権でつれてこられた」(船に乗船していて助かった宮古島の軍医・池村恒正)少女の恨を解き、さまよえる霊魂が生まれ育った故郷へ帰れるように祈ります。


一方その慰霊祭のことを報じた「八重山日報」によれば

「島の長老や亡くなった私の父母からも(慰安婦の虐殺の話は)聞いたことがない。与那国島が米軍の爆撃を受けたのは2度だけで、久部良港が爆撃を受けたことはない」

という人もいるようで何が本当のことなんだかさっぱりわかりません。そこで少し調べてみましたので紹介します。

 発端はチラシに書いている「宮古島の軍医・池村恒正」が県史に執筆しているということですが、慰霊祭の実行委員長「田島琴江」さんがメンバーである「イソバの会」のブログがありました。その2012年2月24日の記事に『「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・』があり、『与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」(編集 長田勇氏)』を紹介しています。


その記事から『与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」(編集 長田勇氏)』の部分を抜粋します。

はじめに

 「沖縄県史、沖縄戦記録2」に、与那国島における「朝鮮人慰安婦の遭難」という宮古島の軍医の池村恒正さんの聞き書きの記録がある。
 それによると1944年12月に、台湾から宮古島に連行されようとした朝鮮人「従軍慰安婦」53名が与那国島の久部良港でアメリカの艦載機による機銃掃射とロケット弾によって46名が虐殺された。
 久部良港のつけ根の小高い砂地の丘に、約50体の遺体をアダンの枝を集めて火葬し、ガマの中に埋葬された。殺された女性の姓名を記し簡単な墓標が立てられた。

 「朝鮮人女性たちの骨は丘のガマの中に葬ったままのであろうか」と池村さんは語っている。
(略)

「慰安婦」は軍の機密事項であり、住民の目にふれないように軍の命令によって警防団は遺体をサバニで引き揚げ、火葬したと思われる。与那国島の直接戦争死亡者は「38名」と記録されており、朝鮮人「慰安婦」46名はどこにも記録はない。


とありました。宮古島の軍医池村恒正さんの記録は「沖縄県史、沖縄戦記録2」に書いているということです。また02/25の『「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・2』では『与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」(編集 長田勇氏)』より転載として、その宮古島の軍医池村恒正さんの「朝鮮人慰安婦の遭難」を転載しています。さらに02/26の『「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・3』では「オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦」(福地曠昭著)より転載した「証言 池村恒正(当時軍医)」という記事を載せています。 

まとめると・・・・

「「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・」(02/24)
 @与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」 編集 長田勇氏 の記事

「「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・2」(02/25)
 A「沖縄県史第9巻 沖縄戦記録2」 朝鮮人慰安婦の遭難(宮古島 池村恒正) の記事

「「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・3」
 B「オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦」 福地曠昭著 の記事

となります。ここで発刊年から「沖縄県史、沖縄戦記録2」(1971年)の記事を「オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦」(1992年)が引用し、それから『与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」(編集 長田勇氏)』の順になったと考えられます。


■「朝鮮人慰安婦の遭難」に記載されている「空襲」について

池村恒正さんの記録「朝鮮人慰安婦の遭難」については、「沖縄県史第9巻 沖縄戦記録2」にあるということですが、内閣府沖縄振興局沖縄戦関係資料閲覧室の証言集「宮古編」で見ることができます。(「「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・2」(02/25)にも書かれていますが正確を期するために沖縄戦関係資料閲覧室の証言集「宮古編」を見てみます。

 池村恒正さんは宮古島の平良町で歯科医院を開業していました。
画像そして「19年末頃、町の大半が空襲で焼失しましたが、西里東部にあった私の診療所が焼け残りました。そこを軍医部が集会所として接収したのです。軍医部の脇田大佐と知り合い、その情実で、召集からはまぬがれました。「本来なら君も行くべきだが、それを免ずるから、台湾に行って来い」と云うのです。」ということでマラリア患者のための担架や医薬品を取りに台湾へと向かいます。

 池村恒正さんを「軍医」としている記述も見られますが、召集免除の代わりに台湾へ行ったことになっていますので「軍医」ではありません。そして台湾の帰りの船に朝鮮人慰安婦53人が同乗し与那国島で遭難するということになっているのですが・・・実は、ここからもうすでにおかしいことになります。

 宮古島の空襲の状況について調べると、総務省が先の大戦における各地の空襲等に関する情報を収集して公表しているサイト「一般戦災ホームページ」に「宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)」と言うのがありますが、その「.空襲等の状況」をみると次のように書いています。


3.空襲等の状況
 昭和19(1944)年10月10日(火)のいわゆる「10・10空襲」が、宮古島における初空襲である。軍要員10人の死傷、民間人平良町3人、下地村1人の死者、住家の全半焼13件の被害があった。

 その後の空襲は、10月13日にあって、年内はほぼ小康を保ち、明けて昭和20(1945)年正月早々から再び始まり、3月以降7月までは連日のように繰り返された。4月3日延べ140機、5日延べ200機、8日延べ300機と大空襲が終日続き平良のまちはあらかた焼失した。平良に限らず、連日の無差別爆撃で民家の密集地帯は全郡的に焼けてしまった。

 5月4日午前11時すぎ、下地村宮国(現在上野村)沖合に集結したイギリス極東軍隊の艦砲射撃が始まった。およそ30分間で385発の砲弾が撃ち込まれたと言われている。


 この状況のことは「沖縄県史第9巻 沖縄戦記録2」にも「忘備録」という頁に詳しく書いているのですが(日付がちょっと異なり4/3,8,9日になっている)、それまでは飛行場や灯台・輸送船など軍関連施設だけだったのが4月の空襲で街が焼夷弾で焼けてしまったと書いています。

 そうすると、空襲の状況が正しいのであれば、町の大半が空襲で焼失したので軍医部が診療所を接収し、結果として軍医部の脇田大佐と知り合い、その情実で、召集を免れて台湾に行くことになったのは、少なくとも4月10日頃より後ということでなくてはなりません。

「19年末頃、町の大半が空襲で焼失しましたけれど自分の診療所が焼け残り、軍医部の脇田大佐と知り合い、その情実で、召集からはまぬがれました。」と言う記述の、「19年末」と「4月上旬」と時期が違うということになります。

 一方、与那国島の空襲の状況はどうでしょう。

 八重山日報によれば「与那国島が米軍の爆撃を受けたのは2度だけで、久部良港が爆撃を受けたことはない」ということでした。「一般戦災ホームページ」に与那国のことは載っていませんが与那国小学校のサイトにある「与那国小学校沿革」に空襲の記載がありました。(この沿革は明治18年からのことが記載されています。結構すごいですね)


 1944年10月13日 久部良部落空襲をうける。
 1945年 2月14日 敵機宇良部を空襲す。
 1945年 2月15日 午前9時半より祖内(祖納?)部落を空襲す
 1945年 4月13日 午前7時より敵機艦載機来襲、東校舎多少の被害ありたり


内閣府沖縄振興局沖縄戦関係資料閲覧室の「沖縄県史第9巻 八重山編」に与那国島の空襲に関して若干書いてありました。

画像


 どちらかの誤植かもしれませんが14・15日の空襲が「1月と2月」と違っています。「14日宇良部を空襲」とあるのは宇良部山頂にあった海軍の監視所が空襲され、与那国小学校沿革では翌日15日祖納部落を空襲とありますが、現在の与那国町役場が置かれている島の中心地です。「沖縄県史第9巻」では、「以来島は数度にわたる米軍機の機銃掃射をうけ、久部良港や部落が焼け落ちた」となっていますが、機銃掃射だけでは「焼け落ちた」というのは考えにくく、与那国小学校沿革の「19年10月13日に久部良部落が空襲を受けた」という記録が正しいのかなと思えます。
 『与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」 編集長田勇氏』の記事でも以下のような記述があります。

久部良部落 
 与那国島は、1944年10月13日に久部良南部部落がアメリカ軍の空襲により、106戸が全焼した。与那国島初の空襲である。3名が銃撃で死亡、3名が防空壕で焼死した。住民は久部良岳のダヤ(ガマ)に避難した。


 「与那国島が米軍の爆撃を受けたのは2度だけ(監視所を入れると3度)」という八重山日報の記述は記録とも整合性は取れそうだと考えられます。そうであれば「朝鮮人の遭難」はそのどちらかの空襲と考えられますが、先の宮古島の空襲の状況から考えられた「台湾行は4月上旬」となると辻褄が合わなくなり、実際に与那国島で「朝鮮人慰安婦の遭難」があったのかどうかさえわからなくなります。

■襲撃された状況について
画像襲撃された時の状況も若干「?」と思うところがあります。

・北の方から飛行機が1機やってきた
・米軍機なら編隊を組んでくるし、日本軍の機と思い「ありがたい」と思った
・慰安婦達もハンカチを振って飛行機を見ていた
・北西の方に来ると日本の機ではなく急降下してきた


ここで疑問に思うのは、
@「空襲警報」はならなかったか
A仮に民間徴用船としても暁部隊の機帆船なので船員は警戒監視をしていなかったか
と言うことです。

 宇良部山頂の海軍監視所があったので、北方面からの侵入は容易に発見されたでしょうから「敵機来襲」の警報が出されると思うのですが、警報が何故出されなかったのか疑問です。また監視所は空襲を受けていましたので、焼け落ちた後なので警報は出せなかったとしても、乗ってきた船は暁部隊の船ですので、軍人を含む船員たちがいたでしょう。彼らは、池村さんたち民間人と違い航空機の監視をするでしょうし、はるかに早く敵機だということはわかったでしょう。その辺りが書かれていないのが不思議です。

 参考まで「機帆船の太平洋戦争」には、民間徴用船でも「操舵室後方に高射機関銑が据え付けられ、 暁部隊の船舶砲兵3名が乗船して来た」ということが書かれています。こういう装備・人員体制はとられていなかったのでしょうか。

■慰安婦についてきた軍人について
 「朝鮮人慰安婦の遭難」には、慰安婦達に2名の軍人がついてきたと書かれています。「オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦」では福地曠昭氏が「池村さんから伺った話」としてもう少し詳しく次のように書かれています。

慰安婦たちには渡辺大尉とシモガキ(「朝鮮人慰安婦の遭難」ではシモワキ)曹長がついていた。野原越にある陸軍司令部から、慰安婦を台湾から連れてくるように派遣された二人であった。

しかし、「沖縄二高女看護隊 チーコの青春」の「昭和20年2月の出来事」というところに「2月15日、米機動部隊の接近により宮古島の守備隊司令部、野原越に移動する。と言う記述がありました。残念ながらこの記述を他の資料等で確認するのはネットではできないのですが、この記述が正しいのであれば、「朝鮮人慰安婦の遭難」があった19年末は司令部は移動前です。従って「野原越にある陸軍司令部から」ということはあり得ないことになってしまいます


 以上のように池村恒正さんの記録「朝鮮人慰安婦の遭難」にはいくつか疑問に思うところがあり、八重山日報で金城信浩さんが「島の長老や亡くなった私の父母からも(慰安婦の虐殺の話は)聞いたことがない。」というように、私も与那国島で起きたことではないように思えます。ただ個人的には従軍慰安婦における吉田清治の場合とは異なり、後世の人がこの池村恒正さんの証言(記録)を利用しているのでは無いかと思っていますが、長くなりましたのでその点を次の回で書いてみます。





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