「大阪発の危機と歴史学」−その5
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平井美津子「歴史教育の現場から−「慰安婦」の授業を中心に−」
この論文の著者平井は現役の中学社会科の教師であり、ここで述べられているものは、平井の授業における慰安婦の取り上げ方であり、その授業に対する攻撃がどのようなものであるかである。
管理人は3月16日、ひと・まち交流館京都2F和室で開催された学習会「学校教育から戦争を考える」に参加したのだが、その学習会の講師の一人が平井であった。その時の平井の話とこの論文とは重なる部分があるので、このブログ記事では両者をまとめた形とした。
まず、教科書における慰安婦の記述であるが、1997年度には全社の教科書記載されていたが、今日では全社で記載されていない。この間何があったかといえば、与党自民党・「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」・「新しい歴史教科書をつくる会」などによる教科書攻撃が活発化したからである。
このような状況の中、慰安婦問題を授業で取り上げていくのは難しくなっているが、平井は慰安婦問題を取り上げる理由として四点述べている。
「①現地調達主義によって物資も人もすべてを現地で調達する日本軍の姿勢や、強姦が蔓延していた実態から、日本軍の本質や、戦争の実相に迫る、②当時の外国人差別や女性蔑視といった人権の問題を考える、③中学生に性の問題を考えさせる重要な提起となる、④日本の戦争責任と戦後補償から現代を見る」(28頁)
これに関係して平井は「若手議員の会」での次の発言を問題視する。
「「従軍看護婦」のように大変ご活躍された人がなぜ、中学校の教科書に記述されていなくて、いわばゴミみたいな言葉(管理人注−「慰安婦」のこと)をなぜ拾いあげるんだい(1997年「若手議員の会」での発言」(28頁)
この発言の「感覚」が慰安婦問題を否定する人たちの「感覚」なのである。それに対し戦争の実相を知り、過去の戦争と向き合うためにも慰安婦問題を授業で取り上げることは必要であり、重要なのである。
次に慰安婦授業を受けた生徒たちの反応であるが、これに関しては、3月16日(土)に平井を講師に迎えた学習会に参加した際配付された資料の中にあるので、この画像をアップしておく。中学生たちの反応をご覧頂きたい。
しかし、歴史修正主義者からの慰安婦や南京事件などを教育の場へ持ち込む事への攻撃は激しさを増している。筆者である平井が勤務する学校へも在特会が押し寄せてきた。
在特会の主張は、平井が沖縄戦についての裁判である「大江・岩波沖縄裁判」の判決現場にいたことを「職場放棄である」、また「慰安婦を教えるな」、「このような偏向教員は処分すべきだ」というものであった。しかし平井は、休暇届を提出し、それが受理されたので現地へ行っているのであって、職場放棄でも何でもない。だからこの件に関しては学校側(校長や教頭)も平井を守った。それだけではなく、PTA・保護者・地域住民が団結し、在特会を追い払うという結末となった。、PTA・保護者・地域住民のなかには、慰安婦を否定している人や15年戦争を肯定している人などもいるのだが、そのような主義主張、思想信条を乗り越えて、この時は在特会に教育の場を荒らさせない、在特会の行動が教育上良くないので生徒たちには見せたくない、という思いでまとまったという。平井自身は正直、「あなたがこんな授業をするからダメなんだ」などの批難をあびると思っていたから正直驚いたという。
この在特会が、学校での授業内容を把握するために採られている最近の方法は、塾でのプリント回収だと平井は言う。つまり、塾としては学校での授業内容を分析し、それを塾の学習内容に反映させるわけだが、塾の経営者や経営者の親しい者に在特会がいるのだ。回収した社会科のプリントを見て、「偏向教師」を探し、学校へ集団で脅迫に行く。
そのために、南京事件や慰安婦、沖縄戦などの授業ではプリントは作成せず、DVD・ビデオなどの映像を見せて授業をする教師が増えてきているという。つまり、証拠を残さずにいかに授業を行うのか、という方法に迫られているのが現状である。
また現在の教科書から慰安婦の記述が消えたことも問題である。つまり、歴史修正主義者たちが言うクレームとして「教科書に載っていないことをなぜ教えるのか」というのがあるのだ。
以上の体験から平井は「まさしく、歴史学研究と歴史叙述、歴史教育の最前線が学校なのである。だからこそ、こういった理不尽な攻撃に対して正面から闘う必要があると感じるのだ」(31頁)と述べている。
これら学校での歴史教育についての危機は、昨今大阪ではより大きくなっている。それは橋下徹の府知事就任、市長就任と深く関係している。
教育関係三条例−教育行政基本条例・府立学校条例・職員条例−が可決され、教育に関し行政が介入、そして、教育現場にも自由競争原理が持ち込まれ、教員には「免職」をつらつかせた管理統制が行われている。
平井は現在の政治状況を見て、教育に対する管理統制は大阪だけのものでなく、おそらく大阪以外にも広がっていく可能性があると述べている。
では授業で戦争を教える意味は何処にあるのであろうか。平井は「かわいそう」、「戦争がなくなってほしい」などの単に感情的なものにとどまらず、生徒たちの日常・生活実感と戦争とを結びつけなから行うべきであると主張する。
「自分たちの周りで起きているさまざまな問題(いじめや暴力、不登校など)を解決するには、どうしたらいいのか。仲間たちとの協力や共同をとおして、困難を克服していくためには、現実を直視する力、本質を見抜く洞察力、論理を組み立てる力、思考する力などが必要だ」(33頁)
そしてその際重要なのが、「遠山(管理人注−遠山茂樹のこと)の言う「戦争と平和にたいする理性的認識」を授業のなかでどれほど持たせることができるか」(33頁)であるという。
しかし教員に対する締め付け、教育現場への行政の介入など、教育を政治権力の下に置こうとする動きが激しさを増しているのも事実である。これらの動きに対してどのような対抗し、克服していくかということが、今後歴史学や歴史教育に携わっている者の大きな課題となるであろう。
慰安婦の授業を受けた生徒たちの感想(4、中学生たちはどう考えたか)の紹介。
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