輿水脚本の「相棒」を観る【「潜入捜査」-“相棒”をめぐる死と再生のメタファー】
新進のIT企業に“森本”の偽名で入社、過激派への資金供与疑惑のある社長・北潟の身辺を探っていた公安部の刑事。その音信が途絶えて1ヶ月になるという。小野田の依頼をうけた右京と薫もまた偽の身分で北潟の周辺に接近、刑事の足どりを洗い始めるが、程なく、切断された人間の左腕が北潟宛に送りつけられてきた。腕は失踪した刑事のものであることが判明し、《会社員の森本》の捜索願を出していた恋人・聡子はショックを隠せない。
ごく地味な勤勉さの中に時折尋常ならざる鋭い眼光を放つ“警備員の杉山”(=右京)、聡子に接近するために装う軟派さと、忍者のような機敏な動きがやけに板についた“ビルメンテナンス員の亀田”(=薫)が興味を惹き付ける冒頭、失踪した刑事の行方を追う右京と薫もまた《二重生活》を進行させる形で捜査を開始する・・・という、一風変わった趣向をもつ2時間枠作品「潜入捜査」(シーズン3)。
小野田が過去に公安部の管理官であったことから右京らに潜入捜査を依頼するという、イレギュラーな“スパイアクション版「相棒」”である旨が「僕がお前に頼むんだから非公式に決まってるでしょ」(!)という一言にも書き込まれているのですが、人の心の整然としない部分を取り上げようとする一方で、物語としても理路整然としない文脈に陥ってしまうことが少なくない輿水氏脚本回を、むしろ[度外視する部分はそれと割り切り]説明しすぎない手法、美しく象徴的な映像によって独自の世界観に昇華した、橋本一監督の演出が光る作品です。
また個人的には、右京や薫の人間関係の足場が輿水氏自身の手によって破壊されたシーズン3前半の混乱から、「相棒」世界が本来のメインフレームに戻るまでの折り返し地点に位置する(そしてこの話以降、再び好きになれた同氏脚本回はシーズン7「還流」を待たざるを得ないことになってしまうという)話としても着目しています。
極めて個人的な感想に過ぎないながら、私は輿水氏脚本による長編が多くの時間を占めるシーズン3前半部があまり好きではなかったりします。
事後的に、唐突に語られる薫と美和子の破局。傷ついた薫を気遣う一方で捜査のためとはいえ彼を騙し、怒りを買う右京の描写のちぐはぐさ(この頃から“右京=天才、変人”という「キャラ設定」に書き手自らが幽閉されてしまう状態が始まった?)。個性派キャストと大きな舞台を用意しながらも陰鬱な病理に向かうことを免れない物語(権力自体が持つ性質、意味を問うと言うよりは「スキャンダルを暴けるかどうか」が展開の主眼となる)。何より、右京自身が自分の出した答えに納得をしていないような表情をみせる・・・
特命係への愉快な闖入者・陣川によって薫に対する右京の愛情が再認識される「第三の男」(砂本氏脚本、長谷部監督作品)という小粒ながらの良作がひととき振り戻してくれるものの、この時期の輿水氏による連作中には、“怖美しすぎる代議士”片山雛子や院内記者・鹿手袋といった強烈なキャラクター[彼らはのちの戸田山氏脚本「劇場版」(1作目)において味のある活躍をすることになる]の誕生以外には全般に着地点が見いだせず、それらのキャラの成立も実際には和泉監督の演出と俳優陣の仕事に寄与するところが大きいと感じていたりします。
そうした迷走を一度突き抜け、主人公たる右京が自身を取り巻く世界との間に生き生きとした感覚を取り戻すまでに必要だったのが、本作「潜入捜査」において潜り抜けることになる《“相棒”をめぐる象徴的な死と再生》だったのではないか?というのはあまりに観念的な捉え方かもしれませんが・・・
実は本作で描かれる“事件”=IT企業の美形社長の疑惑も、二つの指輪の謎とともに語られる聡子の愛と悲劇も言わば“過程”であって(潜入の発端であったはずの過激派への資金供与云々も結局真偽不明なまま話は終わってしまうのだが、仮に語られたところでこの物語終盤の真のテーマと同時に盛りこむのは文脈的に困難である)、それを筋のねじれと感じさせない形で物語を演出しきったこと、[(一定の現実性、筋道だった説得力が必要とされる)警察もの]としてというよりも、日常の文脈から切り離された世界として昇華し、【映像化】したことこそが、言語情報のみでは見えにくい魅力を引き出し、迫力ある2時間作品たらしめたのではないか、と個人的には考えていたりします。
冷たく無機質な大都市。生あるものを拒むかのような真夜中のオフィスビル。自分よりも年かさの相棒“杉山”に先輩風を吹かし、夜闇に生きることに慣れた人生を受け流すように「陽の光が恋しい」とうそぶく気のいい警備員・葛城(温水洋一氏が好演)。夜勤明け、カフェに立ち寄る右京の脳裏に蘇る小野田の声。
エレベータ内での緊迫、窮地にあっても気安く触れることを許さない右京の気高さ(過激な描写に頼ることのない「相棒」だが、このシーンといい、右京がハンドルを握る終盤のカーアクション(無論、子どものふいの飛び出しにも即反応!)といい、僅かな秒数の中に鮮烈な印象を残すアクション要素も出色)。潜入捜査の失敗という形で迎える《無名のスパイとしての擬似的な死》と引き替えに、薫との関係の中の唯一無二の存在、《右京》として、陽の当たる世界への生を取り戻す---
そして、右京の明察によって崩壊していく二重世界の果て、視聴者の前に忽然と姿を現すことになる、闇の中の“相棒たち”のうちのかたわれ---失われた相棒との、現身では果たせない再会のためだけに禁を犯して姿を現した存在、その《彼》と向き合い、何か説明のしがたい情念で形ある世界へと連れ戻そうとする右京の姿こそが本作の主題であったことに否応なく気づかされる終盤、常に静かで冷静なはずの右京の瞳の奥に宿る異様な光をとらえる幾つかの描写には、言葉(台詞)よりも強烈な何かを突きつけられることになります。
端的には、もしもこの「潜入捜査」が、一定の公平な視点を要求する[警察もの(広義での「国家権力への疑問」もの)]として方向付けられていたなら私は説得力を感じられなかったかも知れないのですが(それは丁度、色々と盛りこもうとしすぎた各要素の手っ取り早さ故にややもすればキャッチフレーズ先行の感を免れなかった「劇場版II」が、その終着地ともいうべき右京と小野田の物語にこそ焦点化されていたならもっと愛せたのではないか、という思いと同一線上にあるような気がする)・・・
こと、日常的には一小市民がおよそ関知し得ない世界を、男同士の熾烈なドラマ(エンタテイメント)として成立させると同時に差し迫った問題(全体主義の危険、手段の正当性の維持の困難さ=ある種の労働問題としても観ることが出来る)として視聴者に感じさせるまでにたぐりよせる「暴発」(櫻井氏脚本・近藤監督作品、シーズン9)の凄まじさを1時間枠にして目にしてしまった上では、シーズン3という比較的初期に属するこの作品の感想を敢えて書くべきなのか、無意味な迷いが一瞬よぎりもするのですが・・・
それでも(弊ブログを何度かご覧の方にはお見通しの通り私は櫻井氏脚本回に特に好みが偏るのですが;、それを差し引いても)、「サザンカの咲く頃」(櫻井氏脚本・和泉監督作品、シーズン5)と、本作「潜入捜査」は、幾つかの僅かな箇所をディテールアップすれば劇場作品としても遜色はないのではないか・・・?という感触すらあって(“迫力”とは、過激な描写や火薬量とは必ずしもイコールではないのだとこの二作品を見ると感じさせられる)、[亀山編]、ひいては[右京の精神世界]を見つめようとするとき、長いシリーズ中でも欠かせない作品であるように個人的には感じています。
全てが闇へと還っていくなかで、《彼》の本当の名を小野田に尋ねようとする右京。一切の表情の消えた小野田と目を合わせた瞬間、それが叶わぬことであると悟る右京からも、いつもの柔和な、人に容易に内面を読み取らせない微笑が消えていく---
この時既に高官である小野田も、また薫という[陽の当たる世界での自分]を取り戻した右京すらも、実は“闇”を体感として知っていて、だからこそそこに言葉の入る余地はない---全編に渡り葛城が口笛で吹く英民謡「グリーンスリーブス」が、ベースのみで静かに奏でられるメロディへと回帰していくラストシーン、冒頭と同じ夜景のなか、哀しく、寂寞とした余韻が一つの世界を静かに締めくくっていきます。
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