カテゴリー「相棒考察」の131件の記事

花占いのとりとめなさ【あえて、輿水脚本という同一条件下で問題点を比較する】

「綿密なプロットを作るのが苦手」「自分でも結末が見えずにかいていることはしょっちゅう」(キネマ旬報2011年1月上旬号より)とは脚本家の輿水氏の談で、ご本人もその功罪は自認していらっしゃるらしいと言うことが解るのですが、例えば同氏が担当したS10-1について「偽証罪は輿水さんと本を作っていく中で発見したんですよね。「これ、尊がそう言ってるだけじゃん」って」(オフィシャルブック3より、輿水・松本対談中での松本GPの談)という件についてはそりゃ視聴者だって気付かざるをえないんだが、というかミステリ以前に物語としてそれでいいのかと激しくツッコミを入れたくなったのは私だけなのかどうか(勿論、視聴当時の私はむしろ“被害者の側に何らかの事情があり、神戸は被害者の談を信じ込んでいる、或いはその部分を省いて話しているのではないか”と思いながら見ていたのですが)・・・S10-1について更に問題なのは、冤罪で受刑した上自殺した城戸が本当にストーカーであったのかどうかは不問のまま話が終わってしまうことで、もはや「神戸君は被害者の身を想っていたんだからしょうがないじゃん!かわいそう!」とかいう問題ではなくなってしまうわけです・・・(そしてこの、「結果オーライじゃないし、そういう問題じゃないでしょ」感が結局S10最終話にも輸入されてしまうという・・・)
・・・まあそれはさておき、では私が“好きな”過去の輿水氏脚本回=「右京撃たれる/特命係、最後の事件」(S1)「ピルイーター」(S2)「潜入捜査」(S3)「還流」(S7)にその行き当たりばったり感がないかというと、実はこれらにもひんぴんとその傾向は感じられるわけで(汗)、とすると、《好きになれる作品》と《なれない作品》との分岐点とは一体何なのか?
苦手に傾く原因の一つはしばしば出現する露悪的且つ紋切り型の要素でもあるのですが(輿水氏は「タブーに挑戦」というのが一つの売りだと考えておられるようですが、えげつなさ、ショッキングさだけを求めるならばその種のものは他に巷に溢れているとおもうのだが・・・)、好き嫌いを分けるもう一つの要因は、《どのように映像化されたか》・・・演出の過程でどのように全体の傾向、訴求点が“整理”されたか、映像でどのように見せられたか、僅かではあっても時に完成品では削られる台詞、或いは付け加えられる台詞がどうだったか・・・極端な言い方をすれば、好きになった作品の要素は《結末が見えないまま些かダラダラと書かれたものがどれだけ映像化によって収れんされたか》が大きいのではないかと思います。
「特命係、最後の事件」(演出:和泉監督)、次第に風呂敷が広がってしまう物語の中で、葬列を見送る葬送行進曲の不吉さが、標的を逸れた銃弾の撃ち込まれた“奉職”の文字を見せる一瞬のカットが、小野田の傍らにあった若き日の右京の怒りに満ちた異様な輝きが、終盤にたった一言付け加えられた台本にはない右京の台詞「ありがとう」が、右京と緊急対策特命係の生き残りの人々の戦いの人生をどれほど如実に浮き彫りにしたか・・・「ピルイーター」(演出:長谷部監督)、事件が解明されれば誹りを受けることも承知で、「どちらであっても結果に変わりはない」と口では述べながらも、たった一人で死者を悼むしかなかった大河内の孤独は、台本にはある右京の説明的な台詞が僅かに削られ、大河内の沈黙のラストによって締めくくられてこそ“言葉にし難い何か”として強烈に視聴者に伝えられたのではなかったか・・・警察もの、国家権力への批判としては些かストーリー上の客観性に欠く「潜入捜査」(演出:橋本監督)、それでも「あいつの姿は、俺の姿なんだ」と叫ぶ[彼]に、いつになく言葉少なになる中で死と再生を潜り抜けていく右京に、思わず心を寄せてしまうのは、美しくも救われがたい何かの象徴のように映像化される都会の暗闇、抜けるような青空を横切る飛行機雲、死者が現れる朝の海、そして全編を通して響くグリーンスリーブスの調べもまた無関係ではないはずだ・・・
つまり、脚本から映像に起こされる過程にもブラッシュアップの力は働くのだろうな、と素人ながらに感じているのですが、そこが巧くいったときには脚本だけでは現れなかった可能性が発揮されるのかな、という思いです。
逆の例で説明すれば、「劇場版II」(輿水・戸田山氏共著、演出:和泉監督)は脚本上でも演出上でもそれぞれ健闘したにも拘わらず方針の部分が絞り込まれていなかったのでは(小野田がらみの説明不足が生じた上、結果的に多くのカット場面が出てしまった)という印象があったりします。

「和泉聖治さんが、無駄と思われそうな時間も撮って上手に活かす監督だとしたら、長谷部さんは無駄は無駄と割り切って撮らない監督。このシーンでの薫はこの顔しかないっていうのが明確に頭にあるので、役者はそれに向かって集中すればいい」(「米沢守の事件簿」オフィシャルガイドブックより、寺脇氏談)・・・というのを読んで、なるほどそれぞれの良さとはそういうことなのかと思ったことがありましたが・・・
で、ここでやっとこ、先日のS11-1(輿水氏脚本、演出:和泉監督)について言及しますと、ストーリーというよりとにかく会話とシチュエーションで行間を埋めたと思えるほどに長いというか、和泉監督がもはや輿水氏脚本のドロナワ的側面を引き締めることを諦めてしまったような(?)・・・事件部分はともかく、犯人の悲しいロマンスとそれを見つめる新・新相棒・カイト君の心情描写にこれといったものがあるわけでもない・・・冒頭の不機嫌カップルin香港は完成品からはカットして、これからの新規客層であろう成宮氏ファンのためにDVD特典にでもおつけしては?と思ってしまったのは内緒ですが・・・;
和泉監督が「雪原の殺意/白い罠」(S2。終盤の漁港~列車のシーン、非常に地味だが映画と見まごう雰囲気)や「サザンカの咲く頃」(S5。冒頭のスタイリッシュさ、ラストの長い階段!)や「黙示録」(S6。錦元死刑囚の父と三雲判事の邂逅、右京をめぐり小野田が薫に宣戦布告をするあのラスト!なお、ここで例に挙げた3作とも櫻井氏脚本なので単純に比較するのはおかしいのですが)で見せた、ハッと釘付けになるような画面もない・・・近年、櫻井氏脚本を演出された「神の憂鬱」(S8)「もがり笛」(S9)や「アンテナ」(S10)ではその対照的な世界観をいずれも魅力的に見せてくださっていますし、神戸ファンに人気絶大らしい「ピエロ」(S10、太田氏脚本)はむしろ和泉監督あっての作品だったと個人的には思っているので(スミマセン;あの、良かれ悪しかれやや少女マンガ的にアバウトな造形を最後にあれだけ圧巻に見せたのはやはり監督の力が大きいと思うのですよ・・・そしてあれも、前半部がテンションが下がり且つ「これまでのおはなし」を挿入しないと間が持たないほどに長かった)、和泉監督ご自身に何か変調があったようには思えないのですが・・・
何も解らぬ素人が何を言うか、という話なのですが(再びスミマセン)、神戸編でのエピソードの幾つか(新規参入脚本家による)には、以前の「相棒」であれば検討の段階で通らなかったのではと思えるようなものがあったり、日曜洋画劇場枠で放映された劇場版IIや米沢映画(あまりに粗雑なカットぶりだった地上波放映初回版)を鑑みるに、今の「相棒」がブラッシュアップなどするよりも出来るだけCMを入れるためにただただ長い枠/2クールを埋めることが要求されているのか?と思うと、それはもはや相棒が変わった云々以前にテレビドラマについて昨今言われる厳しい状況のせいなのかも、とも思えてくるわけで・・・
初期から一貫してレベルの高い脚本を投入し続ける櫻井氏は無論のこと、薫卒業と前後しての参入組である徳永氏、ハセベ氏もそれぞれ独自のカラーを発揮しつつありますし(併せて、近藤氏、東氏、安養寺氏など、助監督として長く「相棒」に関わりつつ監督へと進出された方々も1時間枠で活躍なさっている)、作品世界として安易に「コマーシャルのためのドラマ」に走るにはまだ勿体ない理由があるだけに、ドル箱として期待されるのも大変だなあと、何とも複雑な心境ではあります。
立ち上げメンバーとしての輿水氏は今やむしろ(その都度制作サイドの要求を受けて物語を書く)脚本家というより、プロデューサー側の立場なのではないか、と対談などを読む度に思いを強くするもので、そのこと自体の善し悪しは何とも言えないのですが、もしも、そこに胡座をかいてしまうことと、出来るだけCMを、というような方針とが利害一致してしまうようなことがあったなら、そのときは・・・「相棒」シリーズ自体の悲しい道行きとなってしまうのかも知れないな、とも思ったりします。

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櫻井脚本の「相棒」を観る【「裏切者」考】

ごく普通の主婦が改造銃で殺害される事件が起きた。捜査を始めた特命係は池波署を訪ねるが、そこで薫は、刑事としての最初の配属先での教育係だった北村と再会する。再会を喜び合う二人。かつて薫を鍛えた北村は今や池波署の組織犯罪対策課課長となっていた。
逮捕された男は、以前に通報されたことを恨んで主婦を狙ったと供述するが、どうして被害者の住所氏名を知り得たのか?そもそも通報者は被害者ではなく別の人物だったのだ。程なく男の自宅パソコンから警察への不正アクセスの痕跡が見つかり、池波署の捜査協力者への謝礼金の出納データが漏洩していたことが判明する。
被害者の氏名が入った調書を示し「被害者は逮捕時の協力者だった」と説明する北村。謝礼金データにあった主婦の名前を見た犯人が、彼女を通報者だと考え逆恨みに至ったようだ。
だが、右京は全く別の観点から事態の不可解さに気付き始めていた。合同捜査に当たっていた本庁の組対五課や捜査一課も巻き込みながら、事件は意外な暗部を見せていく。
「相棒」亀山編の名作の一つに数えられる「裏切者」(シーズン5)。初期から連綿と続く櫻井氏脚本の作品群[社会派][警察もの]の王道とも思えるもので、一切の冗長さを廃した脚本、長谷部監督によるハードな演出が、骨太でありながら一筋縄でいかない物語へとたたみこむように観る者を引き込んでいきます。
1時間枠でシリーズ化された「相棒」の原点の一つとも言える「下着泥棒と生きていた死体」(シーズン1)、“覚悟”を改めて右京に問い質されることになる「警官殺し」(シーズン3)など、時に迷いながらも真実を追う道を選択してきた薫が、本作ではより逃れようのない形で事態に向き合うことになる---北村との再会にみせる冒頭の生き生きとした表情から一転、右京が解き明かしていく事件の裏側に動揺し、苦悩へと追い込まれていく姿は、尊敬していたかつての上司を、正義感と同じくらいに情にも厚い薫が告発できるのか?の物語を小細工なしに見せていくのですが、情や正義感で説明されてしまう展開には終わらせない「相棒」ならではの完成度を、感傷やその場しのぎの正義感に惑わされがちな我々視聴者に改めて見せつける物語でもあります。
ある一面を粗筋としてのみ紹介したなら“良くできた定石刑事ドラマ”(或いは全く逆に“アウトロー刑事ドラマ”)とも取られかねない本作を「名作」たらしめる数々の要因・・・重厚なテーマと理路整然とした展開を得意とすると同時に、独特の熱い節回し(エンタテイメント性)で観る者を惹き付ける技も持つ櫻井氏の脚本であり、スピードとリズム感溢れるカット、登場人物の“視線”を代弁するカメラワークでセリフの行間をも物語っていく長谷部監督+カメラマン・上林氏の映像であり、[亀山薫]その人として5シーズン目を迎えた寺脇康文氏の肌身の演技であり・・・
そして(前後のつながりを特に問わない1話完結の作品ではあるものの)「下着泥棒と~」や「警官殺し」の物語より以前の時期に同様のことをしようとしても恐らくは実際の作品ほどに迫力をもたなかったのでは、と思えるもので、幾つもの作品を経て描写が深められてきた《右京と薫の“相棒”》が一つの完成形を獲得したこの時期だからこそ成立したというところにも本作の意味があるのではないかと感じています。(少々話がずれますが、この部分が、緻密な物語であると同時に「何故この時期に描かれなければなかったのか?」とも思わせる神戸編での衝撃作「暴発」(シーズン7)と対比的に思え、更にその「暴発」もまた、ある出来事が事後的に視聴者に明かされたそのときにこそ真の意味を発動させるという点で同様でもあるのですが・・・(この件に関しては、劇場版II鑑賞後の方向けにこちらで述べています))
即ち、本作「裏切者」は、時に異端への激しい憎しみという形で帰属の意味を知らせる《組織/帰属社会の陰の側面(=「裏切者」の言葉に象徴されるもの、若かりし頃の右京が出会った残酷な現実でもある)》を否応なく知ることになる薫の物語であり、《大切な人(=とりもなおさず右京にとっての腹心の相棒・薫である)》との関係を壊す可能性があっても真実を追い続けることが出来るのか?という至って“薫的”な問題に直面する右京の物語でもある・・・
軽口をたたき合う薫と北村の様子を「気心が知れている」と形容し、淡い憧憬のように眺める冒頭の描写の一方で、ひとたび不審に気付けば例え薫の恩人であろうと真相究明への切っ先を緩める気配のない右京は、辛い立場に追い込まれていく相棒の人間的な心情にすら無関心であるかのように見えるのですが、その揺るぎのなさがむしろ“嵐の前の静けさ”であることは、やがて右京によって仕掛けられる、ラストの風向きを一気に変える罠によって我々視聴者に見せつけられることになります。

被害者の住所氏名の流出は、警察内部で軽い意識で行われていたある不正に端を発していた。
罪状の一部を敢えて送検しないことで不祥事を表に出すまいとする上層部。筆跡鑑定と指紋照合を止められ、自分が右京に供しうる唯一最大の力を失いながらも「この目で見た限りは」と伝えずにいられない鑑識・米沢。組織の機能不全=不正を追おうとする右京にシンパシーを覚えながらも、同時に組織のルールにも厳密であろうとするが故に右京の逸脱行為を止める方向に動く監察官・大河内。
病室に駆けつけた右京が目にしたのは、ボロボロの薫、張り裂けそうな思いを押し殺す美和子、血と泥に汚れた薫愛用のフライトジャケット・・・薫と瞳を合わせた瞬間、無言のままに全てを理解する右京、北村と入れ違いに病室を後にする右京の一瞬の表情、その後に続く北村と薫の二人きりの対峙、という一連の“病室のシーン”は、暗く抑えた画面であるにも拘わらず、「相棒」全シリーズを通してみても屈指のインパクトをもつシーンといって差し支えないのでしょう。
みんなやっていることだ、幼い娘のために見逃してくれないか・・・情に訴えようとする北村に、何の関係もなく事件に巻き込まれてしまった被害者にも同じ年頃の娘がいたことを話し、我がことのように涙を流す薫。信じ、愛していた帰属社会(警察)から“裏切者”の誹りを受け、目を覆いたくなるような仕打ちを受けても、人一人のもつ最後の良心を決して《見捨てようとしない》薫の、渾身の訴えが観る者の胸を締め付けます。
そして、薫にも、視聴者すらにも気付かせぬまま、薫を苦しめた“真の敵”---それは隠蔽に右往左往する連中でも、「そろそろ膿を出し切ったら」と呆れながらもある種の政治的判断から事態を保留しようとする小野田でも、まして一小社会の長たる北村という個人でもない、白日の下に晒すことでしか退治できない“現象”それ自体とでも言えばいいのか---に対して何の予兆もなく本来の破壊力を解放していく、櫻井版「相棒」である所以とも言うべき右京の姿が描かれることになります。
小野田をはじめ事情を知るごく少数の幹部が集まる一室、「被害者となった主婦が“捜査協力者ではなかった”と証明できる証拠はない」と全てを無に帰そうとする上層部と右京が向き合う場面は、(豊富な法知識を武器とする櫻井氏らしい知的な駆け引きであるにも拘わらず)形容しがたい凄みに満ちており、声を荒げることも、必要以上の言葉を口にすることもない右京の落ち着き払った《威嚇》と、それを呑むことで渡りをつける小野田ありようが、長谷部監督のハードなタッチで画面に刻み込まれていきます。

端的には、本作「裏切者」の最大の功績は、一歩間違えれば性善説的かアウトロー的か、感情的か理論的かに“分裂”しかねない文脈を同時に抱えながら十分な説得力を持つ点であり[この、真逆に見えるものの一体感とは、生き方も風貌もまるで異なるある二人組の姿ではなかったか?]、櫻井氏の構成の巧みさは勿論のこと、ハードボイルドというエンタテイメントの一つとして仕上げた長谷部監督の方向性の明確さ、1時間枠にそれを語るだけの足場をもつ「相棒」の世界観そのものの寄与する部分も大きいのではないかと思います。
事件の明暗がサバサバと叙述されていく終盤、嵐を乗り越えた後の清々しくすらある光の下で、右京の過去の影=小野田と改めて向き合う右京と薫。
この戦いは右京にとっての、薫にとっての何だったのか?一視聴者の漠たる感覚を具現化してくれるのが、物語の重要な登場人物にして右京を見つめる“客観”として縦糸を司る小野田の存在に他ならず、彼が美和子に語りかける、「特命係を動かしていたのは、実は君の旦那様(=薫)だったんだね」という謎めいた言葉が、再びいずこかへと歩きだす《相棒たち》の背中を見送る我々視聴者の視線と重ね合わせられていく---
右京は、薫は、そして小野田はどこへ向かうのか?小野田が右京にとっての薫の意味を言い当てる本作を経て、同シーズン5最終話「サザンカの咲く頃」で一つの頂点へと到達する彼らが、右京を巡りついに小野田が薫に“宣戦布告”をする「黙示録」(シーズン6)、右京が初めて“自らのこと”を薫に問い、それに答える薫の姿が描かれる「最後の砦」(シーズン7)へと至るのはご承知の通りであり、物語は、神戸編における衝撃作「暴発」(シーズン9)が暗示的に描き、視聴者には事後的に知らされることになる、右京の人生に起きたある不可逆な出来事と、それでもなお地上に立ち続ける右京の姿へと続いていくことになります。

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ハセベ脚本の「相棒」を観る【「守るべきもの」のフィルム・ノワール×「相棒」】

民間警備会社の警護員・土方が被弾し死亡した。ヨツバ化学工業の研究者・泊の警護にあたっていた土方だったが、防犯カメラの映像には、銃声と共に泊の横を駆け抜けようとする土方の姿が残されていた。ライフルでの距離300mに及ぶ狙撃、背後からの1発目は二人の進行方向の社屋に着弾していた。
土方は警護対象を残して逃げ出したうえ、本来の標的を逸れた2発目の銃弾に不運にも打ち抜かれてしまったのか?元警察官の土方は優秀なSPだったが、ある閣僚の警護を外して欲しいと申し出たことから“臆病風に吹かれ警察を辞めた”と警察内部では囁かれていた。警察学校で土方と同期であった神戸は何故か事件が気に掛かる。
10兆円市場と言われるCO2排出権の取引、暗躍する経済ヤクザ。狙撃の“コンマ何秒”にあった真実とは?何者かの脅迫を受けていたという泊の狙撃事件をめぐる真相と、臆病者の誹りを受けたまま警察を後にした土方の真実が絡み合う形で追跡されていく「守るべきもの」(シーズン10)。脚本を手がけたハセベバクシンオー氏は、劇場版1作目の時系列とリンクするスピンオフ小説「米沢守の事件簿~幻の女房」にて「相棒」世界に初参入の後、極めて緩やかなペースでTVシリーズにも登板しており、レギュラーキャラの再現率の高さとちょっとした解釈の新味を両立させる一方で、[右京一人期]の挑戦的なトリックもの「越境捜査」(シーズン7)や、塀の“中と外”の懲りない面々を描く「仮釈放」(シーズン8)など、小粒ながらピリッと締まった独自の作風を「相棒」世界に導入しつつあります。
TVシリーズにおけるハセベ氏担当3作目にあたる本作は神戸卒業を間近に控えたシーズン10末期に属する物語。サイモン&ガーファンクルのヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」が鮮烈な印象を残す狙撃シーンや、土方の死の真相に能動的に関わろうとする神戸など、冒頭部の掴みには特筆すべきものがあるのですが、このシリアスな書き出しにはそぐわないとも思える中盤の方向性のばらけ(泊の研究に関するディテールの弱さ、経済ヤクザのマンガチックな演出など)が結末部の説得力も低減させてしまっている点も目につくもので、全体的な完成度としてどうか?と問われれば、亀山編からの長い歳月の中に名作を擁する「相棒」のハードボイルド系作品群に名を連ねさせるには、着想も構成も面白いにも拘わらず詰めの甘さを払拭しきれない、僅かに“惜しい”一作という位置付けになるかもしれません。
とはいえ、関心の持てない作品かと言えばむしろ逆で、SP時代の土方を知る数少ない人間であり自身も苦悩を抱える年下の元同僚・宮里、目の前で死んだ土方を「逃げた」と証言しながらも心酔した様子で彼との日々を語る泊、事件の解明を通して土方の生き様を見つめることになる神戸、こうした登場人物らへの気持ちの傾倒度合いに関して言えば、(知能犯を気取る犯人らを右京が知的にコテンパンにする様子にある種の爽快さがあった)ハセベ氏担当前2作とはまた違った側面を見せてくれるもので、「相棒」らしさを味わえたのは櫻井氏脚本回のみだったかな、とまで考えた(あくまで私個人の好悪の判断に過ぎないながら)迷走のシーズン10にあって、櫻井氏以外の脚本家担当回としては唯一、物語世界にどっぷりと浸かりたくなった特異な作品でもあります。

公から民、属する組織の質を変えながらも土方は何故再び同じような職に就いていたのか?ざっと視聴する限りでは『多くを語らぬまま命を落としてしまった男の真相が事件と共に解明されていく話』としてそれなりの出来、という評価に落ち着くようにも思えます。
しかし物語は、その優秀さ、勇敢さ故に結果的に命を落としてしまう土方が、一方では彼なりの「哲学」故にそこに至るまでの状況を自ら選び取ってくる道程を描いており、劇中にも存在するであろう第三者、或いは観客から見ての“答えの正しさ”“優秀さ”礼賛の物語ではない---土方の最後の警護対象であり、彼の運命を左右してしまったといえる泊の存在の意味を読み取ろうとしたときにこそ、「優秀な警護員だった」という形容だけでは括りきれない土方の物語が浮き彫りにされてくるように思えてなりません。
その、土方に対するもう一人の主人公・泊は、経済ヤクザを背景としたNPOの資金援助から逃れるように民間企業の研究所へと入った経緯をもつ研究者。研究がCO2排出権の先物取引を左右する要因になりうることを“脅迫の理由”として右京らに説明するのは所長の鷲尾なのですが、当の泊はといえば病室を訪れた特命係を前にどこか夢想するような応答、命がけで研究を完成させる気概を表明するでもなければ、無法者が入り込むような歪んだ市場主義に抗議の言を漏らすでもない・・・
前述したように、泊の研究についてのディテールが弱いこと[ここで目が向けられているのが技術的な話というより経済的にペイするかどうかの問題であることに気づくと、泊の描写の“行間”=良くも悪くも他者の要求を断り切れない、結果的に自らをも誤魔化しながら生き延びてきたのであろうことを解釈しやすくなるように思えるのですが、その足場となるべき“元々は特殊環境下での利用を目的としていた研究だった”という描写がそもそも鷲尾のセリフ一つと僅かに映り込む持ち道具のほんの一瞬にしか存在しない]、企業やNPOを隠れ蓑にする経済ヤクザといった現代的な問題が描かれながらも全般にマンガチックに処理されることなどが、泊の抱える事情のみならず、ラストのどんでん返しの説得力をも弱くしている感は否めません。
そして、終盤に言及されるもう一つの大きな謎=[土方にとって泊とは何者だったのか]について考えるチャンスを観客から遠ざけてしまっているのが非常に勿体ないと感じるのですが・・・
逆に言えば、二人のキャラクターを“勇気のあった土方/なかった泊”という物語上の対比としてのみ捉えた場合はそれなりの話、別の何かを感じてしまった観客には掘り下げる(勝手に!)楽しみに事欠かない話と言うことになるのかも知れません。(少なくともハセベ氏は後者の観客のツボに何がはまるかを簡潔且つ的確に盛りこんでいて、それだけに、ハセベ氏の御尊父にして、「相棒」における社会派ハードボイルドの名作「警官殺し」「裏切者」(シーズン3、シーズン5、櫻井氏脚本)、帰属社会の枠組みを渡っていかなければならない男たちの姿をニヒルに描く「ピルイーター」(シーズン2、輿水氏脚本)などを手がけた故・長谷部監督による演出がもし実現していたなら、と考えずにいられないのですが・・・)
演出は近藤監督。近年作のうちハードなタッチのものとしては、組織の危機管理という題材に恋愛要素をからめた「SPY」、男同士の熾烈なドラマを通して法と捜査側の自己矛盾に厳しい視線を投げかける「暴発」(シーズン8、シーズン9、櫻井氏脚本)が記憶に新しいのですが、本作「守るべきもの」でも画面のそこここに《その種のツボにはまりたい観客のための》狙いが仕掛けられています。
ギリギリまで抑えた彩度(車や登場人物らの服装は一部にベージュや紺はあるもののほぼ無彩色に統一されている)の中に“危険”のサインを送る泊のマフラーの赤。職を辞した土方の真相を宮里が語る公園のシーン、男たちの流さぬ涙の代償のように降り出す雨。ほぼ全編に渡り小さなルームミラー越しにのみ合わせられる視線が、顕在的に描かれない部分の濃密さをも物語る土方と泊の関係性。
泊に扮する今井朋彦氏がみせるのは、真相を巡り観客を翻弄するアルカイック・スマイルとも気弱な愛想笑いともとれる微笑、取り繕う物腰の奥に時折何かを強く発する黒い瞳。
その蠱惑的な瞬きに土方は捉えられてしまったのか?などとおかしな心配をしている時点で一視聴者としても泊の罠にかかってしまう奇妙な不安と快感を味わうのですが、土方役の合田雅吏氏もまた甘いマスクとスタイルの良さに頼らない(?)所作の美しさが寡黙で男らしい人物像をみせ、日常とは異なるロマンの世界に観る者を浸らせてくれます。
そう、これは「相棒」におけるハードボイルド、それもフィルム・ノワールの部類ではないのか?「サウンド・オブ・サイレンス」の切なく訴えかけるメロディが逆に切迫感を増す冒頭、絶命する土方の血飛沫を浴びるほど至近距離にいた泊の、愕然とした表情を捉えるショッキングなシーンから、帰納法的に二人の関係が語り出されることになります。

ところで、たった一人で警護を続ける土方が、泊を隠す場所として選んだのがホテル「アヴェニール」(当初の宿泊先という「南急ガーデン」は「相棒」シリーズ初期からの作中設定の一つである「南急百貨店」(S1-4他)の踏襲と思われ、泊の勤務先である「ヨツバ化学工業」も「ヨツバ電器」(S4-6)に同様か)。物語の過程で上司の裏切りにあっていたことが判明する土方が、むしろそのこととは直接関係のない理由、《泊の願いを叶えるために》最後の朝に自ら社章を外していた経緯が語られるのですが、それは彼自身の哲学故に華々しい人生コースは歩くことのなかった土方が、自分にとっての価値をさほど見いだせなかったさまざまな枠組み[帰属社会/組織、地位、常識]からついに解き放たれていくことへのメタファーでもあったかも知れません。
Avenir、仏語で「未来」。信頼関係で固く結ばれた対象を只一人で守り抜くという、自らが望んだ生き方への最大の理由を与えたファム・ファタール、泊との間に、土方は見果てぬ“未来”を見ようとしていたのか?
土方の警護員としての優秀さを知ればこそ、人は言うかも知れない、馬鹿げた選択だったと・・・警察を辞めることも、泊のような人間のために命を落とす理由も無かったはずだ。更に厳しい人ならこう評価するかも知れない、希望の部署に配属されながら「自分はSPに向いていない」とこぼして神戸に笑われ、民間に移った後も顧客を選んでいた土方こそが実は人生を見定められなかった人間であり、その彼が泊によって破滅していくのもまたなるべくして迎えた結果であると・・・
それでも多かれ少なかれ人は皆、世界の理不尽さの中で自らを誤魔化しながら生き延びているという点で[泊的]であり、同時に、自分らしくあることに意味を与えてくれる何かを求め続けている点で[土方的]でもあるのではないか---泊は“極端に弱腰な土方”であったからこそ、普通の社会ではともすれば理解されにくい土方を信頼し、“真実”を伝えることができたのではないか?土方は“極端に勇敢な泊”であったからこそ、誤魔化しの壁に身を隠そうとする泊の本当の姿を見つけ、自分の側に引き寄せることができたのではないか?
終盤、死んだ土方を忘れようとするかのように、別の誰かに言われるまま、状況になされるがままの人生に戻ろうとする泊に対し、狙撃の瞬間に土方が“逃げた”のではないこと、彼の想いがただ泊を守ることにのみ向けられていた[真実]を証明するハードボイルド世界の異邦人・杉下右京がそこにはいて、知らされたからこそ自らの不誠実を深く悔い、自分の意志で事件の真相を語り始める泊が描かれる---
ハードボイルドのフォーマットを魅力的に用いながらも、いかにもな(ハードボイルドのもう一つの特徴とも思える自己陶酔的な)虚無主義には終わらせない右京の存在こそが「相棒」らしさだと改めて感じさせる終盤のシーン、強い風の中、去っていく男たちの長い影を特命係が見送る深い哀愁が余韻を残します。(それぞれの表情がじっくりと追われる良いシーンだけに、一部のカットがそれほどの人数を詰め込まなくとも!と思ってしまう点や(決して意味のない詰め込みではないのですがなにぶん多すぎる)、この後に続く二代目女将の花の里でのまとめラストはむしろ蛇足であったのでは・・・と感じてしまうのがまた、本作の僅かに惜しいところなのですが・・・)
観る者を酔わせるエンタテイメント性の一方で、“信頼関係を求めて”警察を辞め、警備会社からも精神的に浮遊していた土方の姿は、「相棒」の長いシリーズ中で櫻井氏が繰り返し問い続けてきた命題=「(国家権力としての)警察と(守られる側としての)国民の間の信頼関係」の難しさを別の側面から見つめる試みとしても興味をひくもので、サバサバとした語り口や小味の効いた銃にまつわる謎解き共々、ハセベ氏の「相棒」での今後の執筆を期待したくなります(この点、ファンタジー味と映画連動の企画色が強かったスピンオフ小説1作目に対し、同じく米沢を主人公とした2作目「知りすぎていた女」は警察小説の色あいが強められており、相変わらず飄々とした米沢と終盤にこの上なく渋い登場をする大河内というある意味レアなコンビ(櫻井氏が脚本を手がけた映画版「米沢守の事件簿」からのフィードバック?))を読めるという部分でも、私を含むある種の客層(?;)にはお勧めかもしれません)。
また、あまりにも印象的に用いられる楽曲「サウンド・オブ・サイレンス」・・・初見時には、冒頭シーンに強い衝撃を受けながらも、この名曲が事件の動機や結末なりに深く関わらずに用いられるほうが不可解だ、とまで悩んでしまったのですが、やはりこの曲が作品全体のイメージを牽引していることは間違いなく、DVD化の際は恐らく差し替えられてしまうであろうだけに、是非ともオンエア版の一見をお勧めしたいところです。

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寿司を選んでいたばかりではないのです?【右京の“本能”と小野田】

「官房長は解っていたのですか?!真犯人が別にいると」
「まさか。僕はね、誰が犯人でもよかったの。ただ、杉下ならその真実をあぶり出しちゃうでしょう。他の警察官のように隠蔽もせず、きみのように潰されもせず」
  (シーズン7「最後の砦」)

まだ5話まで見終えた時点ではありますが、シーズン10に感じている漠たる“燃え(萌え?)られなさ”(もう少し細かく言えば、「相棒」史に残る力作・佳作も輩出したS9について、同時にその他の話には違和感も禁じ得なかった時点で顕在化しつつあった現象ということかもしれない)の正体を見極めようとモヤモヤと考え続けているのですが・・・
「神の憂鬱」(S8)で右京の導きにより予定調和からの大いなる脱出を企てたはずの神戸の、にも拘わらずそれ以降掘り下げられるでもなく判然としないスタンス故なのか?[亀山編]櫻井氏脚本中でコツコツと育て上げられ、[神戸編]「SPY」(同)~「神の憂鬱」で一つの結実を見た燃えるクールガイ・大河内が、同氏脚本ではない劇場版IIでいともあっさりとリセットされてしまったからなのか?薫との精神的双子であった伊丹を見守る右京、というニッチ極まりない個人的要請が「伊丹と尊を絡ませた方がウケるらしい」という至ってごもっともな市場性の前にはあまりに無力すぎたからなのか?暇課長の暇っぷりと切れ者ぶりのスケジュールが、薫というリアクション相手がいた頃に比較してタイトになっている気がするせいなのか?はたまた、劇中に於ける「右京萌え!」の代弁者であり、頼もしき実質的サポート者であると同時に、とぼけた情熱を提供し続け、薫に対する右京の愛情が危険水域にまで高まらぬよう守り続けたバランサー・米沢が、一対一の感情を特に出すこともない右京と神戸の間ではその第二の機能を発揮する意義を見いだしにくいせいなのか・・・?
色々に説明を(他者の納得を得られるかどうかは別として(脂汗))試みることはできるかと思うのですが、私が感じている欲求不満の最たるものが、右京の《本能》(的なまでの強烈な意志=「命と引き替えになるものなどありません」といったような、法の範囲や理論的な部分とは別に右京を突き動かしていた熱意)がグッと前に出てくる局面があまりない、物語の中でそういう右京が引き出される瞬間がみられない部分に主要因があるような気がする、少なくとも私にとっては・・・と思い至る・・・
それはとりもなおさず、右京というキャラクター単体についての話と言うよりは物語根幹にあった(はずの)命題についてであって、その引き出し手としてシリーズ化後(プレ期に対する)の右京の背後に常にあった影=擁護者としてであれ抑圧者としてであれ、或いは妻にも内緒の(?)密会相手としてであれ、《現実的対処》の象徴として右京の本能の行き着く先で常に彼を待ち受けていた存在、小野田の永き不在と無関係とは思えないわけで・・・
小野田の去就は演じる岸部一徳氏の都合もあったかもしれないし(とはいえ官房(室)長という職からの引退ならばまだしも、あの小野田らしからぬ顛末が観客に何を訴えようとしての表現だったのか今も腑に落ちない)、刑事ものの頼れるボスの如く小野田というキャラが執務室にいさえすればOKという話でもない・・・
“小野田のいない世界の右京”は、“小野田のいた世界の右京”であるという事実がこれからどのようにかみ砕かれていくのか、S9「暴発」のように【右京の身体の中の小野田vs神戸がとった小野田的な行動】という形で象徴的に描かれていく可能性も、或いは“もともと居なかったかのように”作品世界から切り離される可能性もある---
更に憂慮すべきは、現状において亀山編-神戸編、「小野田のいた世界」-「いなくなった世界」を時間・空間的連続性の中で描き続けているのは櫻井氏脚本回のみであるように思えるうえ、その同氏脚本回でさえ、削られ続けるリソース(レギュラーキャラ、世界観設定)の中では、“職人もの”に代表された美の世界や、(薫や小野田との関係に暗喩された)“相棒”たちのにわかには説明の難しい愛情、といった表現の幅広さの縮小を余儀なくされつつある感が払拭しきれない・・・
勿論「相棒」の魅力は脚本のみで語られるものでもなく、奇をてらわない中で物語の醍醐味や繊細さを生き生きと表現してくれる演出、自然に物語世界へと誘ってくれる地に足のついた俳優陣・・・色々とあるはずなのですが、その全体性の中で、ハッとさせてくれるセリフ、脳裏に焼き付くようなシーンに出逢ったとき、「あー、やっぱり「相棒」は面白いな」と感じられるわけで・・・
それらの行方によって、これから3月まで続くS10が「相棒」という作品と地続きだと感じられるか、それとも『私は既に制作側の考える客層から外れたのだ』と考えざるを得ないのか、少なくとも私にとっての判断が分かれるところなのかも知れないな、と考えていたりします。

「お前らしくないよね」
「・・・」
「仕方のないことなんだよ」
「そうでしょうか」
「警察という組織には限界があるんだから」
「だとすれば、時効という制度にも限界が来たのかも知れませんね」
「・・・お前らしいね」
  (シーズン3「ありふれた殺人」)

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輿水脚本の「相棒」を観る【「潜入捜査」-“相棒”をめぐる死と再生のメタファー】

新進のIT企業に“森本”の偽名で入社、過激派への資金供与疑惑のある社長・北潟の身辺を探っていた公安部の刑事。その音信が途絶えて1ヶ月になるという。小野田の依頼をうけた右京と薫もまた偽の身分で北潟の周辺に接近、刑事の足どりを洗い始めるが、程なく、切断された人間の左腕が北潟宛に送りつけられてきた。腕は失踪した刑事のものであることが判明し、《会社員の森本》の捜索願を出していた恋人・聡子はショックを隠せない。
ごく地味な勤勉さの中に時折尋常ならざる鋭い眼光を放つ“警備員の杉山”(=右京)、聡子に接近するために装う軟派さと、忍者のような機敏な動きがやけに板についた“ビルメンテナンス員の亀田”(=薫)が興味を惹き付ける冒頭、失踪した刑事の行方を追う右京と薫もまた《二重生活》を進行させる形で捜査を開始する・・・という、一風変わった趣向をもつ2時間枠作品「潜入捜査」(シーズン3)。
小野田が過去に公安部の管理官であったことから右京らに潜入捜査を依頼するという、イレギュラーな“スパイアクション版「相棒」”である旨が「僕がお前に頼むんだから非公式に決まってるでしょ」(!)という一言にも書き込まれているのですが、人の心の整然としない部分を取り上げようとする一方で、物語としても理路整然としない文脈に陥ってしまうことが少なくない輿水氏脚本回を、むしろ[度外視する部分はそれと割り切り]説明しすぎない手法、美しく象徴的な映像によって独自の世界観に昇華した、橋本一監督の演出が光る作品です。
また個人的には、右京や薫の人間関係の足場が輿水氏自身の手によって破壊されたシーズン3前半の混乱から、「相棒」世界が本来のメインフレームに戻るまでの折り返し地点に位置する(そしてこの話以降、再び好きになれた同氏脚本回はシーズン7「還流」を待たざるを得ないことになってしまうという)話としても着目しています。

極めて個人的な感想に過ぎないながら、私は輿水氏脚本による長編が多くの時間を占めるシーズン3前半部があまり好きではなかったりします。
事後的に、唐突に語られる薫と美和子の破局。傷ついた薫を気遣う一方で捜査のためとはいえ彼を騙し、怒りを買う右京の描写のちぐはぐさ(この頃から“右京=天才、変人”という「キャラ設定」に書き手自らが幽閉されてしまう状態が始まった?)。個性派キャストと大きな舞台を用意しながらも陰鬱な病理に向かうことを免れない物語(権力自体が持つ性質、意味を問うと言うよりは「スキャンダルを暴けるかどうか」が展開の主眼となる)。何より、右京自身が自分の出した答えに納得をしていないような表情をみせる・・・
特命係への愉快な闖入者・陣川によって薫に対する右京の愛情が再認識される「第三の男」(砂本氏脚本、長谷部監督作品)という小粒ながらの良作がひととき振り戻してくれるものの、この時期の輿水氏による連作中には、“怖美しすぎる代議士”片山雛子や院内記者・鹿手袋といった強烈なキャラクター[彼らはのちの戸田山氏脚本「劇場版」(1作目)において味のある活躍をすることになる]の誕生以外には全般に着地点が見いだせず、それらのキャラの成立も実際には和泉監督の演出と俳優陣の仕事に寄与するところが大きいと感じていたりします。
そうした迷走を一度突き抜け、主人公たる右京が自身を取り巻く世界との間に生き生きとした感覚を取り戻すまでに必要だったのが、本作「潜入捜査」において潜り抜けることになる《“相棒”をめぐる象徴的な死と再生》だったのではないか?というのはあまりに観念的な捉え方かもしれませんが・・・
実は本作で描かれる“事件”=IT企業の美形社長の疑惑も、二つの指輪の謎とともに語られる聡子の愛と悲劇も言わば“過程”であって(潜入の発端であったはずの過激派への資金供与云々も結局真偽不明なまま話は終わってしまうのだが、仮に語られたところでこの物語終盤の真のテーマと同時に盛りこむのは文脈的に困難である)、それを筋のねじれと感じさせない形で物語を演出しきったこと、[(一定の現実性、筋道だった説得力が必要とされる)警察もの]としてというよりも、日常の文脈から切り離された世界として昇華し、【映像化】したことこそが、言語情報のみでは見えにくい魅力を引き出し、迫力ある2時間作品たらしめたのではないか、と個人的には考えていたりします。

冷たく無機質な大都市。生あるものを拒むかのような真夜中のオフィスビル。自分よりも年かさの相棒“杉山”に先輩風を吹かし、夜闇に生きることに慣れた人生を受け流すように「陽の光が恋しい」とうそぶく気のいい警備員・葛城(温水洋一氏が好演)。夜勤明け、カフェに立ち寄る右京の脳裏に蘇る小野田の声。
エレベータ内での緊迫、窮地にあっても気安く触れることを許さない右京の気高さ(過激な描写に頼ることのない「相棒」だが、このシーンといい、右京がハンドルを握る終盤のカーアクション(無論、子どものふいの飛び出しにも即反応!)といい、僅かな秒数の中に鮮烈な印象を残すアクション要素も出色)。潜入捜査の失敗という形で迎える《無名のスパイとしての擬似的な死》と引き替えに、薫との関係の中の唯一無二の存在、《右京》として、陽の当たる世界への生を取り戻す---
そして、右京の明察によって崩壊していく二重世界の果て、視聴者の前に忽然と姿を現すことになる、闇の中の“相棒たち”のうちのかたわれ---失われた相棒との、現身では果たせない再会のためだけに禁を犯して姿を現した存在、その《彼》と向き合い、何か説明のしがたい情念で形ある世界へと連れ戻そうとする右京の姿こそが本作の主題であったことに否応なく気づかされる終盤、常に静かで冷静なはずの右京の瞳の奥に宿る異様な光をとらえる幾つかの描写には、言葉(台詞)よりも強烈な何かを突きつけられることになります。

端的には、もしもこの「潜入捜査」が、一定の公平な視点を要求する[警察もの(広義での「国家権力への疑問」もの)]として方向付けられていたなら私は説得力を感じられなかったかも知れないのですが(それは丁度、色々と盛りこもうとしすぎた各要素の手っ取り早さ故にややもすればキャッチフレーズ先行の感を免れなかった「劇場版II」が、その終着地ともいうべき右京と小野田の物語にこそ焦点化されていたならもっと愛せたのではないか、という思いと同一線上にあるような気がする)・・・
こと、日常的には一小市民がおよそ関知し得ない世界を、男同士の熾烈なドラマ(エンタテイメント)として成立させると同時に差し迫った問題(全体主義の危険、手段の正当性の維持の困難さ=ある種の労働問題としても観ることが出来る)として視聴者に感じさせるまでにたぐりよせる「暴発」(櫻井氏脚本・近藤監督作品、シーズン9)の凄まじさを1時間枠にして目にしてしまった上では、シーズン3という比較的初期に属するこの作品の感想を敢えて書くべきなのか、無意味な迷いが一瞬よぎりもするのですが・・・
それでも(弊ブログを何度かご覧の方にはお見通しの通り私は櫻井氏脚本回に特に好みが偏るのですが;、それを差し引いても)、「サザンカの咲く頃」(櫻井氏脚本・和泉監督作品、シーズン5)と、本作「潜入捜査」は、幾つかの僅かな箇所をディテールアップすれば劇場作品としても遜色はないのではないか・・・?という感触すらあって(“迫力”とは、過激な描写や火薬量とは必ずしもイコールではないのだとこの二作品を見ると感じさせられる)、[亀山編]、ひいては[右京の精神世界]を見つめようとするとき、長いシリーズ中でも欠かせない作品であるように個人的には感じています。
全てが闇へと還っていくなかで、《彼》の本当の名を小野田に尋ねようとする右京。一切の表情の消えた小野田と目を合わせた瞬間、それが叶わぬことであると悟る右京からも、いつもの柔和な、人に容易に内面を読み取らせない微笑が消えていく---
この時既に高官である小野田も、また薫という[陽の当たる世界での自分]を取り戻した右京すらも、実は“闇”を体感として知っていて、だからこそそこに言葉の入る余地はない---全編に渡り葛城が口笛で吹く英民謡「グリーンスリーブス」が、ベースのみで静かに奏でられるメロディへと回帰していくラストシーン、冒頭と同じ夜景のなか、哀しく、寂寞とした余韻が一つの世界を静かに締めくくっていきます。

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櫻井脚本の「相棒」を観る【「消えた死体」-右京の不思議なラブストーリー】

薫のお陰で一度は更生しながら、新たな借金のかたに再びヤミ金の取立業に戻ってしまった栄一。栄一の妻・真子から離婚の相談を受けた薫が様子を見に行くと、金を取り立てるはずだった阿部という男が自殺した上、その死体が消えてしまった、と泣きつかれる。“消えた死体”が取立に失敗した栄一の作り話だと疑うヤミ金融の社長から、数日中に証拠を見せなければ指を切り落とすと脅されているというのだ。
あやふやな記憶の栄一、夫の借金を払うつもりはないと捜査を拒む阿部の妻。栄一のような人物は「嫌い」とにべもない右京だが、懸命な薫にほだされ力を貸すことに・・・
違法なヤミ金に偽装自殺・・・と題材はシビアながら、薫の人となりや舞台装置の作りに示される“人情派”風味、トラブル体質のダメ男・栄一のどこか笑ってしまう憎めなさ(マギー氏が好演。S2-15&16、S3-16にもタクシー運転手として立ち直った同じ役柄で再登場)、右京の合流によって進み始める謎解き、それぞれの組み合わせの妙がウィットと温かみのある世界を創り出す「消えた死体」(シーズン2)。“静”の右京と“動”の薫の対照的なシーンが切り替わりながら並行する冒頭部分[薫サイド=面倒見の良い薫を描くと同時に推理劇の準備として観る側への状況説明の役割を兼ねている/右京サイド=推理が始まるまでの時間(?)を名曲喫茶で静かに過ごすなか、事件に関係する男・多治見とそうとは知らずに出逢う様子が描かれ、もう一つの物語が語られはじめることになる]は演出共々小気味よく、観る者の興味を引き付けていきます。
どんなにダメでも愛想を尽かしても、本当に困ったときは助け合わずにいられない・・・顕在的には夫婦の情が一つのテーマといっていいかと思うのですが、よく目を凝らしてみると、同時に進行しているのは右京と薫の不思議な関係性の物語でもあり、多分に誤解を招く言い回しながら敢えて私見を申せば、これは右京の、薫をめぐるひとときのラブストーリー(?!)でもあったのではないか、という感触を持っていたりもします。

名曲喫茶で偶然同じ曲をリクエストした、影のある男・多治見。そろそろ見慣れた“相棒”よりも遙かに大人で、音楽の趣味も合う。思わぬ出逢いに一瞬心が震えているというのに、当の相棒・薫はといえばこちらの気持ちもつゆ知らず、昔の知り合いの面倒を持ち帰ってくるありさま。それもだらしのない、つまらない男のことにかまけているなんて・・・
右京サイドの語り出しをこのように要約するならばそれはまごうかたなきロマンスものの展開であり(えぇッ?!)、書き手である櫻井氏や、演じる水谷豊氏の中でどのような解釈が行われていたかは知る由もないのですが、多治見との出逢いに伏し目がちに見せる繊細極まりない表情も、薫の頼みを一度はシャットアウトしてから結局訊いてしまう人間的な様子も、(ここでの右京が女性的に描かれているわけでは全くありませんし、そもそもロマンスもの=女性(的なもの)、というのも今日的には必ずしも要求されるフォーマットではないような気がするのですが)実に文脈に適っているとしか言いようがない・・・
右京と多治見のエピソードがなければむしろストレートな推理ものですし、右京と多治見、薫の三角関係というニュアンスが前面に押し出されれば任侠ノワールもの・或いはボーイズラブもの(この二者が、命のやりとりに及ぶ不幸な結末か、ハッピーな関係の成就かによって大別できるという解釈に私は割と納得しているのですが(苦笑))に行ってしまうかと思うのですが、あくまで「相棒」である、という足場が見失われない点が、幅広く柔軟な表現を可能にしていると言うことなのかも知れません。
悩む真子に、夫婦の機微を音楽に擬えて解く右京。“消えた死体”のトリックの証拠を得て、ヤミ金の違法な取立をめぐる事件を解決しようという終盤、右京は思わぬ形で多治見と再会することになる・・・
[実はこの時点で観客には“非情なヤミ金社長”の正体が右京の小さな恋の対象としての多治見であることが既に明かされており、明察によって物語を引っぱっていくのが常である右京をして、思わぬ事実を知った彼の表情を観客が目にすることになる、という珍しい構成も心憎いのですが、]あなたがこのようなことに関わることはない、とあくまで暗黒街風に男前な(そう、ヒロインを見初める(ヒロインではないですが・・・)悪者のボスとは概してそうしたものです!)多治見を前に、右京は取り乱すでも怒るでもなく、落ち着き払ったいつもの口調で「僕はあなたのような人が嫌いなんですよ」とさらっと返してのける・・・
そのさりげなさ、ああ、「相棒」だな~というツボを射た描写に浸りつつ、故郷に帰る栄一と真子を見送る大団円のその後、更に小粋なラストシーンが用意されていたりもします。
拘置所の多治見に差し入れられた、そこでは聴くことのできないレコードと一枚の小さなカード。「友より」とは、情の深い薫に影響された右京の心のひだの奥の真意なのか、それともほろ苦い恋の終わりのサインなのか?
“相棒”にはこの先仔細が語られることも、理解されることもないであろう右京の行動はむしろ清々しく、何事もなかったかのように、奇妙な取り合わせの刑事が二人、いつものように飄々と肩を並べて歩いていく・・・
「『相棒』シナリオ傑作選」座談会では「(ラブストーリーは書いてみたいが)オファーがない」と述べておられた櫻井氏、何をご謙遜を、と観ているこちらが照れ隠しにツッコミたくなるような不思議な味わい、「相棒」たちの姿に覚える心地よい感覚は、夫婦でも恋人でもない二人---現実にはなかなか得ることは出来ない、損得も駆け引きも、互いを縛り付ける必要もない関係への憧憬と言い換えることも出来るのかも知れません。

果たして、この奇妙な、ほろ苦くもチャーミングな、ラブストーリーと呼ぶにはあまりに牧歌的な二人の文脈が神戸編としての現在にも持ち込めるかと言えば(薫→神戸への交代のせいというより、「相棒」の世界観自体に期待されるものが時代性、或いはファン層の裾野の広がりと共に変容していった結果かもしれない、という意味で)困難に思え、シーズン2とは右京にとっての穏やかなりし季節だったのかもしれない、と逆に思い起こしてみたりもするのですが・・・
トリック面で言えば、どちらかといえば“砂本氏脚本回風な櫻井氏脚本回”かもしれない本作[全く勝手な印象に過ぎないのですが、世界観やモチーフの“やりとり”が時折あった両氏の脚本回にあって、本作は恐らく砂本氏の「殺してくれとアイツは言った」と陰陽に対をなす物語だったのではないかと推察]。
・・・とはいえ、鋭い問題意識と骨太な作風で知られる櫻井氏脚本群にあって、「信じた相手に裏切られたくないから」という理由でとことん人を信じ、見捨てようとはしない薫の常識はずれな熱さ、そんな薫を愛した右京の繊細で感受性豊かな表情もまた主たる特徴の一つといえるもので、それらを描く上で何ら気負うところのない小品としての本作も、しばしば見返してしまう好きな物語であったりします。

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右京と“It's Probably Me”【「相棒」の意外な受賞】

「ボーダーライン」(シーズン9)が、「相棒」Wikipedeiaによれば「貧困ジャーナリズム大賞2011」を受賞とのこと(今の所、ネットで見られる報道が同じく受賞の京都新聞とWikipedeiaからの参照先である東スポだけなのは私の探し方が下手なのでしょうか?;【後日追記:番組側が賞を受け取ったのか辞退したのかよく解らない上、Wikipedeiaでも議論があるようで、現在は削除されているようですね・・・>更に後日追記:その後、きちんと掲載されるようになりました。】)・・・見返すのにも心の準備がいる物語なのですが、感情移入によって説得力をもちうるドラマが、現実を伝えるものとしての“ジャーナリズム”として評価された点がこの作品の異色さで、且つ「相棒」の、櫻井氏脚本回でなければ現れなかった状態なのだろうなあと今更ながらに思い返します。
“三つのカギ”や“謎の食事”など一応ミステリドラマ風のとっかかりを用意しているものの、実際に右京が見つめていくのは男の身に何が起きていたのか、何が一線を越えさせ、後戻りさせなかったのかの謎であって、これまで櫻井氏が手がけた幾多の社会派ストーリー同様、一側面だけ見ていたなら解らない、複合した原因を解明していく“名刑事”右京によってその構造が視聴者に提示されていくことになります。
(物語の内容については本放送時に書いた感想同様なので、ここでは主に「相棒」という作品の中で本作が占める位置から眺めてみようかと思うのですが、)事件の全体像が明らかになっていく終盤、ああ、あそこでも、あの時点でも、別の選択肢があったのではないか、こんなことにならずに済んだのではないか?と思いつつ、母親が入院したとき顔も見せずに今更、と怒る兄も、閉塞状況に苛立つあまりあなたなんかもう無価値だ、と暴言を吐いてしまう婚約者も、全ての案件に事細かに取り合っていられないと情けない言い訳をするハローワークの職員も、販売員としてはごく当然な言葉をかけただけのドーナツ屋の店員も、そして踏みとどまろうとしながらも周囲からの断絶の中で絶望を深めていく男も、あまりに普通で現実的で、「どうしてあのときああしなかったのか」と他人の視点で責めることは出来ても、自分に置き換えてみれば途端にその根拠は揺らいできてしまう・・・
“定番的な刑事ドラマ”であればあり得たかも知れない慰めが一切排された文脈は「相棒」にあってそれほど珍しいことではないはずなのですが、現実性(組織人、鑑識)とファンタジー(趣味人、幻の女房)を独自の方法論で内包しながら「相棒」世界の一角に愛すべきユルさを導入する米沢すら、この物語では自らを差して何の迷いもなく「独り者」と表現するほどに“現実的”でいざるを得ないことに少なからずショックを受けた記憶があります。
絶望した男がその日を食いつなぐため自分の名前すら売り渡し、貧困を食い物にする者たちに“酷使”され、使い捨てられていくくだりを思うにつけ、【かつて右京をして「名前よりも、あなた自身の腕を信じるべきだった」と犯人を諭させた】「最後の灯り」の美の世界から、或いは【小野田に右京との食事という密会の機会を度々与え、右京の愛情を味わうべき薫に天才的な味覚を授けた】同氏脚本回に見え隠れする口唇的なロマンチシズムから、何と遠い場所まで来てしまったのかと観る側としては愕然とするのですが、時代を敏感に、色濃く反映する側面と、突き詰めたところで想いが一貫し続けている部分、そのいずれもが長期シリーズとしての「相棒」(と、初期から継続して執筆し続けた櫻井氏の方向性)がもつ希有な特徴と言うことなのかも知れません。
一体、男の死の捜査をきっかけとしてブラック企業に警察が入るシーンなどで僅かにドラマ(エンタテイメント)的な意味での敵討ちが表現されるものの、謎を全て解き終えた右京すら“男を殺したもの”に自分ひとりでは太刀打ちできないことを知っていて、「残念です」と述べることしかできない現実が突きつけられる・・・
「現代の貧困を多くの視聴者の心に刻んだ歴史的なドラマ作品だった」というのが受賞理由とのことですが、“貧困”を安易な楽観を排して描いたことや、題材を扱う素早さもあったとして、“現代の”=貧困そのものが社会からの隔絶の原因となること、1年足らずで命を脅かすまでになることを整然と、観る者に的確に伝わる形で描いたのはやはり“ジャーナリズム”と呼ばれるものかもしれず(本作を書くことにした櫻井氏のきっかけについては「相棒シナリオ傑作選」インタビュー中に記述があるのですが)、ドラマが受賞して喜ばれるところのテレビ局や有名脚本家の名を冠した華やかな賞とは全く趣旨の異なるものながら、「相棒」一ファンとして記憶に留めてよい出来事なのかも知れない、と思ったりもします。

これが、決められた尺の中でテーマ性とエンタテイメント性を巧みに両立し続ける“職人”櫻井氏脚本回における名作かと言えば一瞬立ち止まらざるを得ない一方で、他の可能性があったかといえば、やはり櫻井氏が手がける以外にはありえなかっただろうと思うのですが・・・
同氏の「相棒」が現実世界に投げかける鋭いまなざしに幾度となく衝撃を受けながらも、もう一つの表現のありかた=足を挫いた右京に何の躊躇いもなく大きな背を差し出す薫と、ひどく躊躇いながらも背負われてみる右京、二人が海岸線を何処までも歩いていくいつの日かの幻想的なシーンのような、現実にはなかなか得られない何かにも強く心掴まれる身としては、本作「ボーダーライン」において「どちらかが本気で手を差し出したなら」と語るのは、今も“内なる”海岸線を見忘れていないが故の右京なのだ、と感じるのですが・・・
・・・賞の話題とは全く関係がなくて恐縮なのですが、シーズン9の放映中にたまたま初めてスティングの「It's Probably Me」という曲を知る機会があり、へえ、カッコイイと思って詞の日本語訳を見てみたら、なんとこれもまた「相棒」的な(エリック・クラプトンが参加した哀愁を帯びた楽曲、破天荒な刑事コンビを描いたアクション米映画「リーサル・ウェポン3」のテーマだったらしいのでバディなことが盛りこまれるのは当然でしょ?と思われるかも知れませんが、何というか、単にそういう歌ではないのです)・・・おかしな話ですが、「ボーダーライン」で男が得ることを許されなかったもの(悲劇を防ぐことが出来たかも知れないもの=それはあまりに牧歌的な捉え方なのかもしれませんが)があったとして、その過酷さ、絶望を描く上でも、媒体が《右京という主人公と、その“相棒”の姿を描いてきた》「相棒」である必然性はあったのかも知れない、とふと考えたりしました。

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彼はそこにいる【右京の中の小野田とシーズン9以降の神戸】

小野田は他ならぬ、右京にとって薫がどういう存在になっていったかを見届けた人ですから[右京が生き生きとするなら傍におくのも良い、というニュアンスだったものが、“特命係を動かしている”となり、やがてあの小野田をして「知らなかったの?相棒なのにね」とある種のライバル心をのぞかせるまでに至ったのはご存じの通り]、薫が旅立ったとき“次はどうするか?”=右京を一人にしておくのは本意ではないが、薫ほどに互いに浸透し合ってしまう存在を近づけるのも危険、というようなことを当然考えたのではないかと勝手に推察していたりします。
FRSセンター構想には問題が起きるまでタッチしていなかった小野田が、それでも神戸を右京の元に送り込むことに荷担したのは、賢くて気が強くてちょっと右京の興味をひきそうな、且つ自分がそこそこコントロールし易い存在を置いておくのが得策だろうという計算あってのことと解釈すると何となく得心がいくのですが[小野田は自分自身が右京と共には往けないことを解っていますから、小野田的な行動様式を持ちながらも右京から見ての可愛さのある“プチ小野田”としての神戸を置くことで自分が右京の傍らにいることと擬似的に同義になる?]、その神戸も、小野田や渡辺の思惑通りには動いていかないであろう未来図がシーズン8最終話「神の憂鬱」をもって暗示される・・・
と、誠に勝手ながら(?)小野田の側から薫卒業~神戸始動への一連の流れを捉えた状態が、そのまま一視聴者としての私のシーズン7~8観にも適用できるのですが、さて、シーズン9はといえば、個別に見れば力作・意欲作があった一方で、私にとっては「神の~」で納得できたはずの神戸登場の意味が再び捉えにくくなってしまった試練の時期・・・
それもそのはず、私にとって「相棒」の“永い物語”を読み解く上で重要であったものが突然遠ざけられてしまったのだから、と改めて痛感するわけですが、では右京にとっての小野田が既に完結してしまったものなかといえば全くそうは思えない、というのは「暴発」について感じた衝撃と得心の通りであったりします。
危険な(エンタテイメントとして成立する)男同士の相克を見せながらも社会派な問題意識と冷静な語り口を堅持する「暴発」が、[既に実体としては持ち得ない小野田との関係を含めて]右京の右京たる所以を体現している一方で、「正義とは?」という命題を筆頭に色々な要素を盛りこもうとした(し過ぎた)劇場版IIがその顛末として行き着いた地平も実は「決定的な対立をしたくないから」という理由で右京の傍を離れようとした小野田の身に起きた取り返しのつかない事件であって、この点も、むしろ右京と小野田の物語であると焦点化していってくれたならもっと感情移入できたのではと惜しまれてならない(テレビシリーズとしてのシーズン9が小野田と右京の身に起きたことを半年近く“隠蔽”し続けなければならなかった、逆に言えば劇場版IIがそのこと自体を集客の目玉の一つにしていたとも見えることの是非については、「相棒」ともあろうものがもう少し全体の方針をブラッシュアップできたはずでは、と未だに引っかかりが払拭できない)・・・
どうにもグチっぽいので(スミマセン;)劇場版IIおよびシーズン9を経ての今後の神戸はどうなのかということに話を戻しますと、類い希なる純粋さ故に右京と共に歩くことが出来てしまう薫に対して、そんな薫を愛していた右京が度々「本当に覚悟はあるのか」と厳しく問い返さなければならなかったのが“相棒”としての彼らの間にあったドラマなのだとしたら、頭の良さ故に右京の行動原理やその正しさをかなりのスピードで理解しながらも、判断や行動の仕方においては小野田的な処世術も理解している(目的が異なるとはいえ2度の証拠隠滅を図っている)今の神戸に覚悟を問える者がいるとするなら、[既に実体としてはそこにはいない(にも拘わらず“まだ、右京の両腕が掴もうとしている範囲にいる”)小野田]その人であるような気がする・・・
それはとりもなおさず、小野田と、というより[かつて小野田を右京の傍らから連れ去り、小野田自身の願望とは逆に再び遠く引き離したもの(曖昧模糊としていますが、「相棒」の中での表現を借りるなら、国家の体面であったり、権力構造であったり、“組織も人”であることの苦悩であったり、真相よりも短期的な解決を優先させることを要求する現実であったりする)]と戦い続ける右京の物語へと回帰していくことでもあって、そこが失われてしまわない限りは、薫が旅立った後に神戸が「相棒」の世界に現れた意味にももう一度向き合えるのかもしれないと、漠然と考えたりします。

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砂本脚本の「相棒」を観る【「殺してくれとアイツは言った」-右京の“力場”と小野田】

“退屈な人生を送るくらいなら命を狙われてみたい”と発言したハードボイルド作家・菅原英人のもとに脅迫状と切断された人間の指が届いた。菅原夫妻と旧知の間柄である小野田の依頼で警護につくことになった特命係だが、常識と束縛を嫌う英人は自重のそぶりもない。最近筆の鈍りがちな英人の自殺願望なのではないかと妻の珠江は心配するが、その珠江が菅原宅に届いた小包爆弾で死亡してしまう。珠江は学生時代の小野田の想い人であった。
「僕や英人に高いものを喰わせようとして、自分じゃ安いものばっかり食べてた」。英人、そして珠江と過ごした若き日を言葉少なに語る小野田の背を、痛恨の思いで見送るしかない右京だったが・・・
作家をゲストキャラクターとした話が幾つかある中で、“物語を生み、その世界観に生きる”彼/彼女らの世界に特命係を置いてみる形でいつもと異なるタッチを見せる作品といえば、孤高の女流ミステリ作家が登場する「蟷螂たちの幸福」や、“特命係in探偵小説”とでもいうべき「名探偵登場」(戸田山氏脚本、それぞれシーズン6、シーズン5。「名探偵~」の矢木は作家ではないのだが、探偵小説に憧れ、染まりすぎな探偵という濃いキャラクターによってユニークな文脈を実現しており特に列挙したい)が出色なのですが、砂本氏脚本による本作「殺してくれとアイツは言った」(シーズン2)においても、ゲストキャラ・英人の書く作品世界の如き退廃的なタッチが特命係の“今回の舞台”として用意されることになります。
平生なら“組織の中のアウトサイダー”として描かれる特命係もここでは英人に振り回される側としての一警察官であり、特命部屋にふらりと現れて何事かと思わせる小野田もいつもの鷹揚な語尾が影を潜め、簡潔に言葉を切るハードボイルド仕様(?)。世間に対して挑発的な作家が巻き込まれた劇場型殺人と思われたものが、実は・・・という仕掛けそのものがストーリーの枠組みとなるのですが、その無軌道な世界観に相応しいといえる衝撃的なラストシーンもあって人気が高い砂本氏脚本回の一つである本作、にもかかわらず個人的にはこれまでさほど注目をしていなかったという経緯があったりします。
勿論、多趣味ぶりが意図せず右京に手がかりを供することになる米沢や、麻薬パーティー摘発に踏み込む組対五課と角田のバタバタ、といった定番シーンもあり、特に嫌いであったわけでも、注目しなかったさしたる理由があったというわけでもなく、私にとっては「消える銃弾」が砂本氏脚本回における個人的なベスト作品であったことや、トリック(物理)と動機(精神)の謎解きの組み合わせに妙味を感じさせる同氏脚本回にしてはトリックの部分がストンと来なかったこと、また、上述したような小野田の漠たる“いつもと違う雰囲気”=まさに作中の右京が「あなたにこのようなお友達がいるとは意外でした」と表明している感覚を、初見時の私はどう消化したらいいのか解らなかった、というのが最大の要因であったのではないかと思うのですが・・・
印象ががらりと変わったのは久々に見返したつい最近のことで、「英人に振り回される小野田および右京の話」から、「英人を通して描かれる小野田と右京の話」だったのでは?と解釈の角度が変わったとき、むしろその“いつもと違う小野田”こそが本作のキモであることが諒解され、ふいに数々のパーツが感情の移入先として繋がりはじめたのでした。
英人とは“右京が知るより前”の言葉で話し、別の気分で酌み交わす小野田。「あいつには学生時代から苦労のかけられっぱなしでね」と語りながらも英人の我が儘につきあう小野田と、「じゃあ、どうしてつきあってるんですか」と率直に問わずにいられない薫(この言葉が小野田と英人→菅原夫妻に関する感想から、物語の中で右京、小野田、薫自身の不思議な関係にも重ね合わせられていく点に注目)。珠江の死を責めるでもなく、ただ想いを吐露するためだけに右京を求める小野田と、痛恨の中で静かに小野田を受けとめる右京。
やがて事件の真相に気づき始めながらも小野田の前では語ろうとしない右京と、“含みのある言い方”をめぐる小野田とのやりとり。同席の薫を引き合いにいつものように茶化しながら、あくまで横目で流しながら、その真意を見透かそうとするかのように右京から目が離せなくなる小野田と、暗い瞳を決して小野田とあわせようとしない右京の無言の駆け引きが緊張感溢れる画面を創りだしています。
ここでも、右京と小野田のうちどちらかが沈黙するとき、その意味を察することが出来るのが実はもう一方であるということが描かれるのですが《“ここでも”というのは、右京と薫の“相棒”の完成形を提示すると同時に、右京を巡る小野田と薫のパワーバランスを暗示的に描く後年の名作「サザンカの咲く頃」「黙示録」(櫻井氏脚本、それぞれシーズン5、シーズン6)においても、という意味なのですが》、本作において犯人が見いだされた後にも残る謎であり、視聴者にとっての深読みの面白さとして提示されるもの---小野田は結局、右京が見抜いた真犯人を知ることが出来たのか、というより、【右京が小野田に明言しなかった《本当の理由》は何なのか?】
ラストシーン間際、海外に発つという英人と、その小説の台詞を真似て別れの酒を酌み交わす小野田の姿がある一方で、状況証拠しか残されていない不利の中、真犯人に向かって「今は時間がありませんが、いつか必ず僕はあなたを落とします」と強い敵意を顕わにする右京の姿が描かれる---
何の罪もない珠江を殺害した犯人に対するごく正当な怒りに加え、小野田の人となりを思うが故の感情があったとして、小野田に対する思わせぶりな沈黙、そして犯人に対する敵意は本当にその意味合いのみのものであったかどうか?
小野田への謎めいた態度は物証を得ていない以上不用意な発言はしない右京の真面目さゆえ、と説明することも出来ますし、小野田が英人につきあいつづけるのも珠江を亡くした感傷の延長上にあったかもしれない。何より、右京と小野田の複雑な関係を思えばそれらの理由を言語的に明示できると考える事自体がそもそも野暮、ということも出来る気がするのですが・・・
シリーズを通して小野田が右京を手中に収めることが出来ない(逆に言えば、不可能と知りながら手に入れようとし続けている)ことが繰り返し描かれる一方で、実は右京の側からも、目に見えない何らかの力場が小野田を捉えようとし続けていたことを描いた数少ない作品として、本放映からは随分時間の経った作品ながら、小野田が失われた今、改めてその多くの“含み”に注目したくなる物語です。

果たして「相棒」世界における“小野田”はシーズン9終了現在において過去形なのか、それとも“右京”が進み続ける限り現在形なのか?
思えば、アナーキーな作家・英人といい、同窓にして過激派の元幹部・本多といい、そして他ならぬ、警察人であることをつきつめるが故にそこから排斥されることも恐れない右京といい、自分とは異なる生き方を選んだ“はみ出し者”たちに複雑な愛情を抱き、見つめ続けた人でもあったのだと、右京の傍らに並べば長い影を落としたであろう小野田の長身を思い返したりもします。

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櫻井脚本の「相棒」を観る【「SPY」-連続性と客体と主体の大河内】

警視庁や警察庁の幹部が出入りする高級クラブのホステス・まどかが殺害された。彼女の携帯電話からの最後の発信先であった神戸は捜査一課から“個人的な交際”を疑われるが、警察庁時代の半年前に店を訪れたきりである彼には営業電話以外の心当たりがない。
やがて遺品の中に警察官の民間金融機関からの借り入れ状況のデータが見つかる。民間への金融犯罪前科者リスト漏洩と引き替えに取得された疑いのある信用情報、それも警視庁職員だけを抽出したと見られる内容に、警視庁人事第二課長・水木が何らかの恣意性=“警察庁からのS(スパイ)”の可能性を指摘したことから両庁の間に緊張が走る。
一方、警察庁の長官官房・渡辺から神戸に対する聴取の指示を受けた大河内は、その動きに不審を覚えると同時に、神戸の特命送りの理由を監察官である自分が今もって掴めないことに苛立ちを募らせる。神戸が冗談めかしてこぼした言葉が大河内の耳から離れない---神戸は、組織に不都合な真実をも暴く危険人物・杉下右京を監視するべく警察庁が送り込んだ“庁内S”なのか?
新キャラクター・神戸尊が密かに書き続けるのは誰に宛てた“報告”なのか、神戸自身がその状況をどうとらえているのか、不明なまま放映期間の折り返し地点を迎えた[=この時点でも神戸が「特命係に残るための仕掛け」が決まっておらず、最終話「神の憂鬱」に至ってついに形成されたことがのちの書籍「相棒シナリオ傑作選」座談会中で触れられている]シーズン8。シーズン初回(輿水氏脚本)において大河内と旧知の間柄であるという意外な設定が付与されながらもその後の方向性が《洒落たバーで親密そうな様子の美男同士という絵柄以外に?!》見いだされず、あの監察官殿が不自然な左遷について調べを進めていない筈があろうか、としびれをきらしかけていた視聴者(私だけ・・・ではなかったと思うのですが)の前に、満を持して提示された櫻井氏脚本回「SPY」。
“飼い主”渡辺の登場、事件に巻き込まれた神戸に対してそれぞれの反応を見せる右京と大河内の描写など、シーズン8初といっていい人間関係の掘り下げが行われた回であり、同時に、“体制側にして大勢側ではない”キャラクター、右京とは別の方角から組織を見つめる存在としての大河内がこれまでになくクローズアップされた物語でもあります。
「ありふれた殺人」「警官殺し」(シーズン3)等、勝手に動き回る特命係の前にしばしば威圧的に現れつつ、警察のあるべき姿についての突き詰めた部分でのシンパシーという独特の側面が短い登場シーンの中に掬い上げられていった櫻井氏脚本回での大河内。しがらみに縛られない右京の大胆さに度々出し抜かれながらも、自らの理想を叶えるだけの破壊力をそこに嗅ぎ取る様子が描かれる「裏切者」「サザンカの咲く頃」(シーズン5)を経て、取調過程で起きた不祥事とその隠蔽の構図をえぐる亀山編末期の名作「最後の砦」(シーズン7)では、冷徹な表情の背景にある職業的な信念、小野田ほどに明暗を踏み分けることはできない純情さが書き込まれ、造形の奥行きを増しています。
櫻井氏の得意分野の一つとみられる[社会派要素の強い警察もの]作品群にあって、組織の“内と外”を観る者に意識させる監察官という役柄(役職)が印象的に用いられてきたのはある意味必然とも思えるのですが、本作「SPY」では、情報を正当に得る/不正に得る、公開する/隠蔽するという氏の脚本回ならではの視野を一貫させつつ、大河内のキャラクター自体の面白さにも焦点を合わせており、監察官聴取の為に呼びつけた神戸にふいに小言を言い始める兄のような姿、罪を認めた“庁内S”に対する武士道を思わせる姿勢の一方で、そんな存在を生み出した上層部の誤った内部統制にこそ憤りを隠さない熱い姿など、(これもまた櫻井氏の得意分野に思える)男の一途さ、つい肩入れしてしまいたくなるある種の美学が、そのコブシ回しを丁寧にとらえようとする近藤監督の演出で追求されていくことになります。

事件の真相を看破しながら、別の誰かへの語りかけでもあるかのような微妙な角度で切り取られる右京のまなざし。覚悟の表れであるかのように動機と残る謎を告白し始める犯人。その告白から自分が事件に巻き込まれた理由を知ると同時に、ある問いをつきつけられることになる神戸。神戸についての懸念を内に秘めたまま、目の前で明かされていく因果を見届けようとする大河内。
斜陽の公園をゆっくりと横切っていくシークエンスの、静かで淡々とした中に絶えず“関係が動き続ける”画面---あるときは2人、あるときは3人、時には画面の奥行きの中に4人が同時に捉えられていく複雑な[「相棒」らしい]フォーメーションは、特殊な境遇を異なる立場から共有することになった男たちの表情、それぞれに抱える思いをじっくりと描いていきます。
そして、全てを内々に処理しようとする上層部にニヒルな怒りを吐く大河内が、肉を切らせて骨を断つとでもいうべき取引で渡り合おうとする姿が“シビれる様式美”に則って描かれる、本作最大のクライマックス・・・
実にこの時期、神戸始動に伴う亀山編からの雰囲気の変化に目新しさを感じながらも、右京を含む周囲の人々との神戸の関わりに感情移入の足場を見いだせないままシーズン放映期間を折り返してしまったことにモヤモヤとしきりであった私にとって、これらのシーンはテーマ性と共に登場人物にどっぷりと感情移入してしまう「相棒」の楽しみ方を思い起こさせてくれ、溜飲を下げたものでした。
「もしかするとシーズン8とは、(神戸がスパイであってもさほど動じないであろう)右京との間で何かが起きるというより、大河内が抱える戦いによって神戸が自らと組織の距離を問い直すに至るまでの話なのではないか?」とまで考えたものでしたが・・・
実際には、本作「SPY」で整理または新規に設置された幾つかの布石を踏まえたシーズン8最終話「神の憂鬱」(櫻井氏脚本、和泉監督作)において、初登場時点(シーズン7最終話、輿水氏脚本)で神戸に課せられた“特命”(=設定上の未決事項)からの見事な脱出が図られることになり、その後の右京、神戸、大河内のさまざまな可能性を暗示する形で[神戸始動編]としてのシーズン8を語り閉じていくことになります。

影のある役どころながら終始純白の衣装で登場し“儚い純愛”を印象づけるまどか、スマートなルックスとハスキーな声をもつ水木、のちの「神の憂鬱」においてヒール役?としての真価を発揮することになる渡辺、といったゲストキャラを迎えて織りなされる“組織ドラマ+禁じられた恋の物語”と、その過程にスリリングに暗示される大河内と神戸の関係が何より目を引き付ける本作「SPY」ですが、《今にして思えば》独特に思える部分[=櫻井氏脚本回において繰り返し問われ続けながらもこれまでは“切られたしっぽ”や“内部告発者”の側から描かれることが多かった問題意識がここでは体制側=大河内の視野から語られている]などは、単なる「神の~」の設定上の準備回、或いは“ファンサービス回”と片付けてしまうには勿体ない要素も孕んでいるように思えたりもします。
即ち、最大のクライマックスとなる大河内の怒りが、作中の人々及び視聴者が漠然と抱く正義“感”(庁内Sへの同情心、或いは内偵・密告という行為に対する一般的な嫌悪感など)によって主に裏付けられると言うよりは、組織を正常に機能させたいという大河内その人の行動原理へと帰着していくこと---[事件によって顕在化するまで情報漏洩の事実を感知し得なかった]監察官・大河内と、[不祥事を内々に処理する目的で放った庁内Sによっていち早くその状況を掴み得たはずの]警察庁上層部の対峙が描かれる終盤、それでも、自らの求める組織の理想には何が必要で何が無意味かを知らしめるかのように、躊躇無くある奇妙な取引を発動させることになる大河内の姿は何を表していたのか?
“庁内S”の寓話を通してコンパクトに描かれた【監視社会の功罪】の命題は(本作を準備編とするなら、その本編とも言うべき)「神の憂鬱」に継承され、スパイ行為と目的の正当性を維持することの困難さ、その間に横たわる危険についての暗示は【“適法な”内偵捜査】の中で起きた悲惨な出来事を追う「暴発」(シーズン9)へと深化していったようにも見受けられます。
無論それらは一視聴者の勝手な解釈に過ぎないのですが(実際には上述の命題は「サザンカの咲く頃」には既に出現している)、何故そんなことをしたいのだと(ある意味至極真っ当な疑問として?!)問う上層部に向けて大河内が答える、一小市民には追体験しようもない理由にも拘わらずカッコ良さ故の直観的説得力に満ちた「それは、私が監察官だからです」の画面を見るにつけ、本作もまた櫻井氏脚本「相棒」の血脈に他ならないことに改めて思いを馳せたりもします。

その後のシリーズでの大河内と神戸については、シーズン9での描写がほぼ劇場版II準拠であったこともあり(この過程でごく個人的に神戸像が再び捉えにくくなってしまったことも含めて)別項として考えた方が良さそうなのですが・・・
なお、本作以前に“S”(=警察が用いるスパイ、情報屋)を扱った櫻井氏脚本回としては「最後の着信」(シーズン4)があり、警察用語が多い一方で結末はあっけなかったようなという放映当時の感想に対して、「SPY」~「暴発」視聴後に改めて見直した際にはまた違った印象を持つに至ったという個人的な体験もありました。右京の「同業者から一番嫌われる人」という言葉を受けてそこにも登場する[客観的人物像としての]大河内は相変わらず生真面目な仏頂面なのですが、やがて神戸との間に人間的な表情を垣間見せることになる[主体としての大河内像]と併せて眺めてみるのもおつな楽しみかも知れません。

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