花占いのとりとめなさ【あえて、輿水脚本という同一条件下で問題点を比較する】
「綿密なプロットを作るのが苦手」「自分でも結末が見えずにかいていることはしょっちゅう」(キネマ旬報2011年1月上旬号より)とは脚本家の輿水氏の談で、ご本人もその功罪は自認していらっしゃるらしいと言うことが解るのですが、例えば同氏が担当したS10-1について「偽証罪は輿水さんと本を作っていく中で発見したんですよね。「これ、尊がそう言ってるだけじゃん」って」(オフィシャルブック3より、輿水・松本対談中での松本GPの談)という件についてはそりゃ視聴者だって気付かざるをえないんだが、というかミステリ以前に物語としてそれでいいのかと激しくツッコミを入れたくなったのは私だけなのかどうか(勿論、視聴当時の私はむしろ“被害者の側に何らかの事情があり、神戸は被害者の談を信じ込んでいる、或いはその部分を省いて話しているのではないか”と思いながら見ていたのですが)・・・S10-1について更に問題なのは、冤罪で受刑した上自殺した城戸が本当にストーカーであったのかどうかは不問のまま話が終わってしまうことで、もはや「神戸君は被害者の身を想っていたんだからしょうがないじゃん!かわいそう!」とかいう問題ではなくなってしまうわけです・・・(そしてこの、「結果オーライじゃないし、そういう問題じゃないでしょ」感が結局S10最終話にも輸入されてしまうという・・・)
・・・まあそれはさておき、では私が“好きな”過去の輿水氏脚本回=「右京撃たれる/特命係、最後の事件」(S1)「ピルイーター」(S2)「潜入捜査」(S3)「還流」(S7)にその行き当たりばったり感がないかというと、実はこれらにもひんぴんとその傾向は感じられるわけで(汗)、とすると、《好きになれる作品》と《なれない作品》との分岐点とは一体何なのか?
苦手に傾く原因の一つはしばしば出現する露悪的且つ紋切り型の要素でもあるのですが(輿水氏は「タブーに挑戦」というのが一つの売りだと考えておられるようですが、えげつなさ、ショッキングさだけを求めるならばその種のものは他に巷に溢れているとおもうのだが・・・)、好き嫌いを分けるもう一つの要因は、《どのように映像化されたか》・・・演出の過程でどのように全体の傾向、訴求点が“整理”されたか、映像でどのように見せられたか、僅かではあっても時に完成品では削られる台詞、或いは付け加えられる台詞がどうだったか・・・極端な言い方をすれば、好きになった作品の要素は《結末が見えないまま些かダラダラと書かれたものがどれだけ映像化によって収れんされたか》が大きいのではないかと思います。
「特命係、最後の事件」(演出:和泉監督)、次第に風呂敷が広がってしまう物語の中で、葬列を見送る葬送行進曲の不吉さが、標的を逸れた銃弾の撃ち込まれた“奉職”の文字を見せる一瞬のカットが、小野田の傍らにあった若き日の右京の怒りに満ちた異様な輝きが、終盤にたった一言付け加えられた台本にはない右京の台詞「ありがとう」が、右京と緊急対策特命係の生き残りの人々の戦いの人生をどれほど如実に浮き彫りにしたか・・・「ピルイーター」(演出:長谷部監督)、事件が解明されれば誹りを受けることも承知で、「どちらであっても結果に変わりはない」と口では述べながらも、たった一人で死者を悼むしかなかった大河内の孤独は、台本にはある右京の説明的な台詞が僅かに削られ、大河内の沈黙のラストによって締めくくられてこそ“言葉にし難い何か”として強烈に視聴者に伝えられたのではなかったか・・・警察もの、国家権力への批判としては些かストーリー上の客観性に欠く「潜入捜査」(演出:橋本監督)、それでも「あいつの姿は、俺の姿なんだ」と叫ぶ[彼]に、いつになく言葉少なになる中で死と再生を潜り抜けていく右京に、思わず心を寄せてしまうのは、美しくも救われがたい何かの象徴のように映像化される都会の暗闇、抜けるような青空を横切る飛行機雲、死者が現れる朝の海、そして全編を通して響くグリーンスリーブスの調べもまた無関係ではないはずだ・・・
つまり、脚本から映像に起こされる過程にもブラッシュアップの力は働くのだろうな、と素人ながらに感じているのですが、そこが巧くいったときには脚本だけでは現れなかった可能性が発揮されるのかな、という思いです。
逆の例で説明すれば、「劇場版II」(輿水・戸田山氏共著、演出:和泉監督)は脚本上でも演出上でもそれぞれ健闘したにも拘わらず方針の部分が絞り込まれていなかったのでは(小野田がらみの説明不足が生じた上、結果的に多くのカット場面が出てしまった)という印象があったりします。
「和泉聖治さんが、無駄と思われそうな時間も撮って上手に活かす監督だとしたら、長谷部さんは無駄は無駄と割り切って撮らない監督。このシーンでの薫はこの顔しかないっていうのが明確に頭にあるので、役者はそれに向かって集中すればいい」(「米沢守の事件簿」オフィシャルガイドブックより、寺脇氏談)・・・というのを読んで、なるほどそれぞれの良さとはそういうことなのかと思ったことがありましたが・・・
で、ここでやっとこ、先日のS11-1(輿水氏脚本、演出:和泉監督)について言及しますと、ストーリーというよりとにかく会話とシチュエーションで行間を埋めたと思えるほどに長いというか、和泉監督がもはや輿水氏脚本のドロナワ的側面を引き締めることを諦めてしまったような(?)・・・事件部分はともかく、犯人の悲しいロマンスとそれを見つめる新・新相棒・カイト君の心情描写にこれといったものがあるわけでもない・・・冒頭の不機嫌カップルin香港は完成品からはカットして、これからの新規客層であろう成宮氏ファンのためにDVD特典にでもおつけしては?と思ってしまったのは内緒ですが・・・;
和泉監督が「雪原の殺意/白い罠」(S2。終盤の漁港~列車のシーン、非常に地味だが映画と見まごう雰囲気)や「サザンカの咲く頃」(S5。冒頭のスタイリッシュさ、ラストの長い階段!)や「黙示録」(S6。錦元死刑囚の父と三雲判事の邂逅、右京をめぐり小野田が薫に宣戦布告をするあのラスト!なお、ここで例に挙げた3作とも櫻井氏脚本なので単純に比較するのはおかしいのですが)で見せた、ハッと釘付けになるような画面もない・・・近年、櫻井氏脚本を演出された「神の憂鬱」(S8)「もがり笛」(S9)や「アンテナ」(S10)ではその対照的な世界観をいずれも魅力的に見せてくださっていますし、神戸ファンに人気絶大らしい「ピエロ」(S10、太田氏脚本)はむしろ和泉監督あっての作品だったと個人的には思っているので(スミマセン;あの、良かれ悪しかれやや少女マンガ的にアバウトな造形を最後にあれだけ圧巻に見せたのはやはり監督の力が大きいと思うのですよ・・・そしてあれも、前半部がテンションが下がり且つ「これまでのおはなし」を挿入しないと間が持たないほどに長かった)、和泉監督ご自身に何か変調があったようには思えないのですが・・・
何も解らぬ素人が何を言うか、という話なのですが(再びスミマセン)、神戸編でのエピソードの幾つか(新規参入脚本家による)には、以前の「相棒」であれば検討の段階で通らなかったのではと思えるようなものがあったり、日曜洋画劇場枠で放映された劇場版IIや米沢映画(あまりに粗雑なカットぶりだった地上波放映初回版)を鑑みるに、今の「相棒」がブラッシュアップなどするよりも出来るだけCMを入れるためにただただ長い枠/2クールを埋めることが要求されているのか?と思うと、それはもはや相棒が変わった云々以前にテレビドラマについて昨今言われる厳しい状況のせいなのかも、とも思えてくるわけで・・・
初期から一貫してレベルの高い脚本を投入し続ける櫻井氏は無論のこと、薫卒業と前後しての参入組である徳永氏、ハセベ氏もそれぞれ独自のカラーを発揮しつつありますし(併せて、近藤氏、東氏、安養寺氏など、助監督として長く「相棒」に関わりつつ監督へと進出された方々も1時間枠で活躍なさっている)、作品世界として安易に「コマーシャルのためのドラマ」に走るにはまだ勿体ない理由があるだけに、ドル箱として期待されるのも大変だなあと、何とも複雑な心境ではあります。
立ち上げメンバーとしての輿水氏は今やむしろ(その都度制作サイドの要求を受けて物語を書く)脚本家というより、プロデューサー側の立場なのではないか、と対談などを読む度に思いを強くするもので、そのこと自体の善し悪しは何とも言えないのですが、もしも、そこに胡座をかいてしまうことと、出来るだけCMを、というような方針とが利害一致してしまうようなことがあったなら、そのときは・・・「相棒」シリーズ自体の悲しい道行きとなってしまうのかも知れないな、とも思ったりします。
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