araki hatsuko - sukumo okinoshima island

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昭和4年度の弘瀬尋常小学校卒業記念写真。前列一番左の少女がのちに「孤島の太陽」として島を救った保健婦 荒木初子である(わが故郷 土佐・沖の島)


孤島の太陽の家

荒木初子さんの自宅は弘瀬港から集落の階段をしばらく登った所にあり、「孤島の太陽の家」として今も残る。


昭和42年頃であろうか。自宅前(現在の孤島の太陽の家)で記念撮影に応じる荒木さん(小説「沖ノ島」よ 私の愛と献身を〜より)


部屋には当時の写真や映画の台本、日誌などの貴重な資料が保管・展示されており、荒木さんの功績や沖の島の歴史を窺い知る事が出来る。


家は2007年4月現在近隣住民の善意で保たれている。末長く保存される事を祈らずにはいられない。



荒木初子と横山やすし

お笑い芸人として一斉を風靡した横山やすし。彼の母親は沖の島弘瀬の出身だ。横山やすしも生まれは沖の島で、数年を沖の島で過ごしたと言われている。その横山やすしを取り上げた産婆さんが荒木初子だったと島民の間で語り継がれている。横山やすし誕生は昭和19年、その当時荒木初子は結核療養の為に沖の島弘瀬に戻っていた。確証はないが可能性は高い。

孤島の太陽 荒木初子
沖の島を救った「孤島の太陽」こと荒木初子の生涯


荒木 初子 (あらき はつこ) 1917 - 1998

大正6年5月10日沖の島弘瀬生まれ。弘瀬尋常小学校に入学、おてんばで運動が大好きな子供だったという。その後母島の補修科に進み卒業後は高知市の産婆学校で学ぶ。母親の死により一時沖の島に帰省したがその後復学した。看護婦と助産婦の資格を取って卒業し、叔母の居る大阪の病院で看護婦として働いたが肺結核に感染し退職。失意の内に沖の島へ戻る。

やがて太平洋戦争が勃発し、沖の島はレーダー基地や特殊潜航艇基地などが作られ隣接する鵜来島と共に四国防衛の最前線となった。昭和20年8月には一般島民全員に強制疎開命令が出るが、彼女は病身の為に担架に収容されたまま橋上村まで移動した。 晩年、強制疎開の様子を尋ねられた彼女は「月の明かりだけを頼りにみんなが歩いた」「10歳程の子供が文句も言わず2歳の弟妹を背負って10キロも歩いていた」と話しながら泣いていたという。病気と戦争は荒木初子の心の中に深い傷を残し程なく終戦を迎える。その後も孤独な療養生活が続いたが体調は徐々に治癒していった。体調もほぼ回復した昭和23年、荒木初子は県からの依頼もあり保健婦になる事を決意する。高知県衛生会産婆学校に入学、そして翌年の春に保健婦免許を取得し、当時医師のいなかった沖の島(鵜来島も兼任)の駐在保健婦として24年10月に赴任した。戦後当時の沖の島は衛生環境が悪く、乳児死亡率が全国平均の4倍、それに加え風土病として恐れられていたフィラリアが猛威を振るっていた。更に戦後の食糧難で当時の様子を「NHKのおしんの様だった」と語ったほど貧しい生活だったという。

赴任当初は住民達に保健衛生という観念が理解されなかったが、彼女は午前中に役場にて実務をこなすと、午後からは島内を巡回訪問する。赴任当時は道路が整備されておらず毎日徒歩での山越えだった。隣の鵜来島にも保健指導に出向き、帰宅が深夜になる事は日常茶飯事であったという。島民の出産時には産婆役もこなし、育児面でも常に的確なアドバイスを与え尽力した。島内に病人が出れば時間を問わず駆けつけた。荒木さんの保健日誌によると昭和30年代は風土病フィラリアのピーク時期で、子供達の中にも患者が発生するという深刻な状況の中その対応に苦悶している様子が伺える。病原菌の蚊の発生を防ぐため集落の衛生環境改善に奔走し、夏場はお墓の花差しを使わないという所までその取り組みは徹底したという。更に寝る間を惜しまず深夜の採血調査に奔走し、住民に根気強く全島検診の参加を呼びかけた。長年に渡って保健衛生向上に尽力し、島の乳児死亡率・フィラリアの発症率低下に多大な貢献をする。島民の生活相談にも気さくに応じ、いつしか皆に「はー姉」と呼ばれ全幅の信頼を受けた。

昭和31年、県の優良職員の第一回表彰者5名の中に選ばれる。宿毛市改善業者の表彰受賞。そして昭和41年に自治大臣賞を受賞。NHKテレビ番組「育て赤ちゃん」で荒木さんの活動が紹介され一躍脚光を浴びる。翌年昭和42年には保健婦としての18年の功績が認められ、国民文化の向上に尽くした個人または団体に与えられる文化功労賞である「第一回吉川英治賞」を受賞、沖の島は快挙に沸く。荒木さんの半生は伊藤桂一著「沖ノ島よ、私の愛と献身を」で小説化され、更に「孤島の太陽」(樫山文枝主演)で映画化される事となり、土佐のマザーテレサとして全国的にも話題となった。高知県に寄託した吉川英治文化賞の賞金を基金に県から特別予算が組まれ、昭和43年春に「沖の島衛生館(宿毛市沖の島へき地保健衛生相談所)」が完成したが、彼女は東京で孤島の太陽の試写会に出席した直後、志半ばで脳卒中に倒れた。そのまま東京の病院に緊急入院。報を受けた樫山文枝さんや伊藤桂一先生達も相次いでお見舞いに駆けつけたという。その後伊豆や高知で治療したが右半身不随となり保健婦を退職した。沖の島に戻ってリハビリを続けながら島民達の良き相談相手になった。

晩年には宿毛市内の施設に入ったが、「怒られてもあんたの所(沖の島)に帰りたい」と友人に語ったという。島民達との絆の深さがわかる逸話である。1998年9月10日宿毛市内の病院にて死去。享年81歳。お墓は故郷沖の島弘瀬地区内にある。保健婦としての職務に全力を尽くした彼女は生涯独身だった。荒木初子は保健婦五ヶ条の精神を見事に実践し、高知の地域医療発展の先駆けとなった。彼女の愛と献身の生涯は、島民の記憶の中に今も爽やかな印象を残している。

 
今も残る沖の島衛生館(宿毛市沖の島へき地保健衛生相談所)
荒木初子の功績の一つとして弘瀬地区に残る「沖の島衛生館」の今昔。荒木さんが第1回吉川英治賞を受賞したのを機会に、その賞金をもとに高知県が建設し昭和43年4月に完成した。地域活動の拠点として使用されたが市の保険制度の変遷により、やがて沖の島に常駐保健婦はいなくなり本来の目的を失った。現在ではイベント時の調理場などとして使用されている。

 
今も残る荒木初子の歩いた石段
1967年と2007年の沖の島母島集落の風景の今昔。荒木さんの真後ろに写る家二軒は畑になり港には防波堤が増設されたが、右手に写る家数軒など健在な家屋も多い(小説「沖ノ島」よ 私の愛と献身を〜より)。過疎化で40年前程の密集感は無いものの町並みは当時と大きくは変っていない。尚、荒木さんの歩いた石段は若干の補修と手すりが付けられた状態で今も残っている。情緒溢れる石段なので沖の島に訪れた際にはぜひ散策して欲しい。

*この頃の沖の島は戸数540戸程で生徒数は約270人。それを荒木さんたった一人でくまなく巡回訪問していた。

島民達の信頼を集めた荒木初子

荒木さんに関するこんなエピソードが残っている。昭和35年に鵜来島で沖の島町全域の相撲大会が開催された。大会終了後に沖の島への帰りの船が用意されたが、母島地区と弘瀬地区の対立感情が災いしどちらから先に沖の島へ帰るかで双方がもめだしたという。この時双方の仲裁に入りうまく話を取りまとめたのが相撲大会に居合わせていた荒木さんだった。

島民達にとって荒木初子は単なる保健婦という存在を越えており、「はー姉」として全幅の信頼を集めていた。島民の縁組などもよくしており、荒木さん自身も「自分は結婚せんと他人の世話ばかりして」と話していたそうだ。


晩年は過疎化の進む沖の島の現状を心配していたそうで、「この島は診療所もでき、新しい保健婦も配属されて安心。でも、子供が恵まれず人口が減少しているので、それが残念でたまらない」と嘆いていたという。