タイトル 私の祖父の話
記事No 382
投稿日 : 2003/04/18(Fri) 11:04
投稿者 ウラン
 私の祖父(日本人。生きていれば90歳くらい)が帰国事業が盛んな頃、「地上の楽園!!!」という報道を見て、「そんな天国みたいなもんがこの世に存在しない。」とか「だいたい戦後すぐに国が繁栄するわけがない。」などと言っていたそうです。見抜いていたのですね。(ちなみに、祖父は早稲田卒で、戦前は商社マンとして海外に赴任していました)
 さて、あの「地上の楽園」報道に対して批判的だった文化人はいましたよね。その方達が書かれたものを読みたいのですが、、、。
 

タイトル Re: 私の祖父の話
記事No 383
投稿日 : 2003/04/18(Fri) 12:04
投稿者 祖父は警官
●私はそれほど沢山読んだわけではないのですが、「地上の楽園」プロパガンダの場合、ウソで固めたというよりも、美化で固めたという側面があると思います。
●従って対立軸として「貧しい←→貧しくない」ということは主でなく「貧しいが皆が協力しあって頑張って新しい祖国を建設している、だから苦労するに甲斐のある暮らしがまっている」というような言い方が、あったのではないかと。
●そして、完全にハメたウソ捏造という見方もできますが、「元々朝鮮の文化と日本の文化には物事の理解に違いがある」というような気もします。戦前から先進資本主義国のファンダメンタルのあった日本に居て(いわゆる”帰国事業”は徴用者ではなく出稼ぎ者を主な対象としていた)文化や社会生活の自由の空気を持っていた人がそうではない国に行った時の衝撃はひどいものだったはずです。
●それはもちろんキムイルソンやキムジョンイルの現政権の政策がグロテスクなものであるという側面も勿論あるでしょうが、とにかく67年のクーデター頃までの北朝鮮は、今見てキテレツなほど変な国ではなかったという事も改めて強調したいと思います。
●この唯一独裁体制の確立と、東独の崩壊等に始まった一連の事態の中で対ソ貿易がハードカレンシーに変更(援助がなくなった)事とがどうにもこうにも硬直した「先軍政治」の手詰まりを(当人はどこまで手詰まりと認識しているかは別だが)方向づけたのではないかと。
●つまり、「焦土とかした国が繁栄しているわけがない」というのは、素朴なリアリズムでありますが、「焦土と化し技術文化および労働力が枯渇した故に、復興に必要だからこそ必死に日本僑居者を誘引した」ともいえるわけです。その後、首尾よく約束どおりの建設が進んだかということはご存知のとおりなのですが、一概に霊感商法や会員獲得商法のような意味でのサギとは決め付けられない側面があると思います。
●要するに、当時は別の話題をしていたのです。今の総理総裁である自民党の小泉氏の父親と民主党の先の党首鳩山氏の父親、共産党は61年綱領確定前でしたが最大の穏健派であり現共産党の自主独立平和路線の立役者であった宮本氏がこれを推進しました。社会党は対朝関係では意外にも韓国よりだったので蚊帳の外のはずで左右が激しく内部でゴタゴタしていただけ。創価学会は「朝鮮に帰って広宣流布をせよ」と彼ら特有の狭い関心から好意的でした。従って、話に噛みあうような意味での、帰国事業に関する「警鐘」をならしていた識者というのは私は寡聞にして知りません。
●(日本の国論、論者というのと違いますが)韓国民団の人たちは一貫して「帰国事業」に反対していたそうですが、これも今と比べると隔世で韓国の過去は北とどっこいどっこいの国で、北が貧しいが故に「帰国事業」を企てたとすれば韓国は貧しいが故に帰国者を受け入れることを黙殺却下していて、この韓国の政府の意向にある意味”盲従”していただけであります。
●おっと忘れていました。代表的な「帰国事業」の旗振り人であった故寺尾五郎氏もたしか戦前の早稲田(卒じゃなく中退か?)でしたね。うちの祖父は(おそらくウランさまのおじいさまほど学はなく)明治大で柔道ばかりしていたようです。

タイトル Re^2: 私の祖父の話
記事No 384
投稿日 : 2003/04/18(Fri) 18:25
投稿者 ウラン
お返事ありがとうございました。祖父は警官さんのロジカルなお話、ありがとうございました。例の報道を「ウソで固めた」よりも「美化で固めた」という箇所、非常によく分かります!
 しかし、、、北の現状はどこが楽園やねん?!と思いません?やっぱり嘘つきですよ(苦笑)
 

タイトル Re^3: 私の祖父の話
記事No 385
投稿日 : 2003/04/18(Fri) 22:47
投稿者 祖父は警官
> ロジカルなお話

一言しておきますが、「ロジカルな話」というのは、構築されたレトリックであり、理屈でいいくるめている、とされるおつもりか?
ロジックが間違っているかどうか、ここが全てではありますまいか。実は寺尾五郎氏の話の持っていき方というのが、まさにウランさんのお話のような”エモーション”を重視した情念の話法でありました。
従って、素朴に考えれば「あれだけ激しい内戦をした直後の国が豊かな国のわけがない」という当然の”ロジカル”こそ、寺尾氏の”情念の話法”が攻撃した対象でありました。

そしてロジカルな話ばかりでなく、当時の事情を、私の知る範囲でなるたけ全体像を俯瞰できるように叙述したつもりです。はじめに結論ありきの話をするとか、今現在の認識から、逆算して当てはめてゆくように議論をもってゆくとか、そういうことはおよそこの会議室の議論にそぐわないものと思います。当然私の知らない範囲の事情など、補強、あるいは反駁いただくこともあろうとは思いますが。

>  しかし、、、北の現状はどこが楽園やねん?!と思いません?やっぱり嘘つきですよ(苦笑)

何かに目を閉ざして、自分の気に入らない情報は見なかったことにする、というような事は、結局自分をダメにするものだと思います。ただし全体像は案外複雑です。No383でも触れましたが、当時の日本社会党というのは驚くべきことに、韓国よりであったりします(あとで、まさに正しかった認識を、対朝土下座外交のために、180度手のひらを返して北よりに逆噴射したわけで、それをも含めて社会党はユニークな存在ですな)。

ここの議論の中で67年のクーデターの件をもっとご覧いただきたいと思います。何から何まで全部北が悪いとするのは私は今は支持できません。「帰国運動」を悪だと日本で言い立てている最大の勢力が在日韓国人と一部の在日朝鮮人です。彼らにとり日本の国論を「帰国運動は誤り」とし、帰国者を救出するのに日本の影響力を利用したいとする意図がないのか?

タイトル Re^4: 私の祖父の話
記事No 386
投稿日 : 2003/04/18(Fri) 22:54
投稿者 ウラン
> > ロジカルなお話
>
> 一言しておきますが、「ロジカルな話」というのは、構築されたレトリックであり、理屈でいいくるめている、とされるおつもりか?

いえいえ!そんな!!!私としてはただ、素直に論理的なお話で、「そうか!」と納得したんですよ。なんせ文章なんで、直接お会いして話したわけじゃないから、誤解を招くような書き方だったでしょうか?!私の文章は(涙)ぐすん。一応、これでももうとっくに成人なんですよ(涙)

タイトル Re^5: 私の祖父の話
記事No 387
投稿日 : 2003/04/19(Sat) 00:00
投稿者 祖父は警官
> いえいえ!そんな!!!私としてはただ、素直に論理的なお話で、「そうか!」と納得したんですよ。なんせ文章なんで、直接お会いして話したわけじゃないから、誤解を招くような書き方だったでしょうか?!私の文章は(涙)ぐすん。一応、これでももうとっくに成人なんですよ(涙)

それでは何ゆえ

>  しかし、、、北の現状はどこが楽園やねん?!と思いません?やっぱり嘘つきですよ(苦笑)

のように(苦笑)がつくのですか? しかもその論に内容がない。
議論の対象とならないとするわけでありましょうか?
とにかく私にお相手できる範囲は上記の話で現状尽きております。
申し訳ありませんが、他の論者さんのレスポンスをお待ち下さい。

タイトル Re: 私の祖父の話
記事No 390
投稿日 : 2003/04/19(Sat) 16:19
投稿者 主宰者   <dprk@ni-chika.pobox.ne.jp>
参照先 http://ni-chika.pobox.ne.jp/dprk/
何やら話がややこしくなっているようですが、浅学ながら一言。 

> さて、あの「地上の楽園」報道に対して批判的だった文化人はいましたよね。その方達が書かれたものを読みたいのですが、、、。

私も、祖父は警官さまと同様、帰国事業に批判的だった文化人というのは、ちょっと思い浮かびません。
民団は確かに反発していましたから、激しいデモや北送阻止の実力行使を目論むなど、いろいろ動いていましたが……。

但し、私の認識としては、帰国事業を詐欺のように捉えるのは、如何なものかと思います。
・共和国は戦後復興と社会建設のため、労働力や資金が欲しかった
・一方で当時の日本にとって、在日朝鮮人は厄介な存在でしかなかった
・韓国は経済的に苦しい時代で、在日朝鮮人の帰国を拒否した
・日本で差別と貧困にあえいでいた在日朝鮮人は、打開策を求めていた
といった中で、帰国事業は結局、四者の利害に沿ったものだったといえましょう。

タイトル Re^2: 私の祖父の話
記事No 418
投稿日 : 2003/04/24(Thu) 17:02
投稿者 暇人
> 私も、祖父は警官さまと同様、帰国事業に批判的だった文化人というのは、ちょっと思い浮かびません。
>
 やはり、あの1960年頃の社会主義を礼賛する雰囲気の上に、「地上の楽園」
という認識はあったと思います。 その上で、朝鮮戦争によって荒廃した
社会主義の祖国の建設という心意気で渡った方々も多かった筈です。
 北朝鮮を礼賛した文化人がどれだけ実情を理解していたかは解りません
が、それよりもその後実情を知りながら「地上の楽園」というプロパガン
ダを垂れ流しつづけた方々の方が罪は重いのではないでしょうか?

 1960年当時にあの三井三池闘争がありました、あの炭鉱労働者達は向坂
逸郎のイデオローグの下に社会主義革命を夢見て「総労働対総資本」の闘
争をした結果、職を失いましたがその後の高度成長時代で何とかなりまし
たが、帰国事業の場合は失敗しても北朝鮮から出国出来なかったという点
で悲惨だと思います。

 帰国事業当時に北朝鮮を礼賛した文化人がその後、良心の呵責を感じた
かどうかは解りかねますが、向坂逸郎みたいにソ連型の社会主義の問題点
が明確になってもソ連を礼賛し続けた人物もいるのだから、本気で北朝鮮
を「地上の楽園」と信じつづけた人物も中にはいるのでしょうし、今までの行きがかり上今更礼賛を止められなかった方々もいるのでしょう。
 ただその方々の「良心」とは一体なんだったかということについて、私
としては大変疑問を抱かざるを得ないのです。

>
> 但し、私の認識としては、帰国事業を詐欺のように捉えるのは、如何なものかと思います。
> ・共和国は戦後復興と社会建設のため、労働力や資金が欲しかった
> ・一方で当時の日本にとって、在日朝鮮人は厄介な存在でしかなかった
> ・韓国は経済的に苦しい時代で、在日朝鮮人の帰国を拒否した
> ・日本で差別と貧困にあえいでいた在日朝鮮人は、打開策を求めていた
> といった中で、帰国事業は結局、四者の利害に沿ったものだったといえましょう。
>
 帰国事業が始まった当時の首相は岸信介でした、ガチガチの反共主義者
であった岸ですら、在日朝鮮人を引き取ってくれるのなら北でも良かった
わけですから、韓国が名乗りを挙げれば喜んで韓国へ送り出した筈です。
 そして、日本政府としては帰国事業により厄介払いが出来たし、総連は
在日社会での指導力を確立した上に、帰国者の財産を「寄付」の名目で巻
き上げ、北朝鮮は「在日社会」という将来のカネヅルを獲得したわけですが、韓国の場合は反対したことで数年後に「それみたことか」胸を張れた
ということでしょうか?

タイトル Re^3: 私の祖父の話
記事No 421
投稿日 : 2003/04/25(Fri) 05:10
投稿者 祖父は警官
> > 私も、祖父は警官さまと同様、帰国事業に批判的だった文化人というのは、ちょっと思い浮かびません。
> >
>  やはり、あの1960年頃の社会主義を礼賛する雰囲気の上に、「地上の楽園」という認識はあったと思います。 その上で、朝鮮戦争によって荒廃した社会主義の祖国の建設という心意気で渡った方々も多かった筈です。
>  北朝鮮を礼賛した文化人がどれだけ実情を理解していたかは解りませんが、それよりもその後実情を知りながら「地上の楽園」というプロパガンダを垂れ流しつづけた方々の方が罪は重いのではないでしょうか?

これは暇人さん。前後の文脈を取り違えた議論です。ウランさんの質問のご主旨はそこにあったわけではありません。そしてある種の歴史修正主義的です。後だしじゃんけんともいえます。暇人さんはそれではなぜ当時身を挺して在日朝鮮人の帰国を阻止しなかったのか? まさにウランさんのご質問はそうした「当時に主張をしていた人は誰か」ということを問うている。
>
>  1960年当時にあの三井(略)たが、帰国事業の場合は失敗しても北朝鮮から出国出来なかったという点で悲惨だと思います。

前にも一度三井三池争議時代の話がでましたね。でもあの時もものすごく話が唐突な風に読めたのですけれども。向坂氏らの理論は間違いであったと思います。しかし向坂氏がなぜここに? 氏のソ連盲従が暴威を振るうのはもう少し後の事です。これまた失礼ながら私には「後だしじゃんけん」の歴史修正主義にしか見えません。暇人さんは当時その三井三池争議の中でどのように主張されていたのですか?炭鉱争議というのは国内問題であります。そして労働者と企業側との利害は対立するものです。労組側の戦術として向坂氏らの”戦術”が労働者の利益に「より叶うもの」か「結果としてより少ない利益」「結果としてみすみす利益を逸する」ものかということでありましたが、それはそれであります(再度念押ししますが向坂氏を擁護するための言及ではありません)。 
>
>  帰国事業当時に北朝鮮を礼賛した文化人がその後、良心の呵責を感じたかどうかは解りかねますが、向坂逸郎みたいにソ連型の社会主義の問題点が明確になってもソ連を礼賛し続けた人物もいるのだから、本気で北朝鮮を「地上の楽園」と信じつづけた人物も中にはいるのでしょうし、今までの行きがかり上今更礼賛を止められなかった方々もいるのでしょう。

引用今回はわざと長くとりました。いかに意味ない言及かを示すためです。具体論がでてこないでここでは無関係な向坂氏への非難に終始されていることを指摘させてください。

>  ただその方々の「良心」とは一体なんだったかということについて、私としては大変疑問を抱かざるを得ないのです。
>
まず第一に「歴史修正」をするのではなく、当時の論点を丹念に追ってその中で時流に抗した「真の朝鮮人の利益にたった賢人」がいたというのであるならまだ当方も主宰者さまも存じ上げないので是非ともご示唆ください。

それから、社会党が対外盲従に走るのは暇人さんのご指摘のように60年代でありまして、当方が既に言及しておりますが、”帰国事業”というのは58年ごろから始まりましたので、60年安保や三井三池争議で”疾走”しはじめる直前でありまして、社会党は意外にも韓国よりの主張だった。そして帰国事業にはおそらく当初蚊帳の外だったはずです。

50年代後半から日本共産党が対外事大主義の潮流を排除脱却し、自主独立の路線をとりはじめます。この時共産党の脱ぎ捨てた”汚れ物”を喜んで拾って回り、身につけたのが60年代以降の日本社会党、というのが私の認識です。

タイトル Re^4: 私の祖父の話
記事No 431
投稿日 : 2003/04/30(Wed) 19:06
投稿者 暇人
どうも久し振りに駄文を書き込んだお陰で、無用な混乱を招いたようで
失礼いたしました。
>
> これは暇人さん。前後の文脈を取り違えた議論です。ウランさんの質問のご主旨はそこにあったわけではありません。そしてある種の歴史修正主義的です。後だしじゃんけんともいえます。暇人さんはそれではなぜ当時身を挺して在日朝鮮人の帰国を阻止しなかったのか? まさにウランさんのご質問はそうした「当時に主張をしていた人は誰か」ということを問うている。
>
 まあ、1959年生まれの私には未を挺して阻止は出来ない話ですが、「後
だしじゃんけん」と言われれば仰るとおりです。 私自身は、高度成長時
代以前の日本では「口減らし」のために未だ海外への開拓移民も存在して
いたのですから、帰国事業自体は余り不思議に思われなかったのではない
か、と勝手に愚考しておりますし、また、余りマスコミで取扱われないで
すがドミニカ移民の話と程度の差はあれ同種の問題だとも思います。
http://www.asiavoice.net/rickshaw/n200103.html#029a

 ただ、今回書き込んだ趣旨としては「4者の利害」について質問したか
ったのですが、どうも話が和田春樹氏の時に先祖返りしてしまったのは、
全く私自身の不徳の致すところと反省しております。

>
> 前にも一度三井三池争議時代の話がでましたね。でもあの時もものすごく話が唐突な風に読めたのですけれども。向坂氏らの理論は間違いであったと思います。しかし向坂氏がなぜここに? 氏のソ連盲従が暴威を振るうのはもう少し後の事です。これまた失礼ながら私には「後だしじゃんけん」の歴史修正主義にしか見えません。暇人さんは当時その三井三池争議の中でどのように主張されていたのですか?炭鉱争議というのは国内問題であります。そして労働者と企業側との利害は対立するものです。労組側の戦術として向坂氏らの”戦術”が労働者の利益に「より叶うもの」か「結果としてより少ない利益」「結果としてみすみす利益を逸する」ものかということでありましたが、それはそれであります(再度念押ししますが向坂氏を擁護するための言及ではありません)。 
>
 確かに唐突でしたね、1960年という時代から単純に発想がそこにいってしまったという短絡的な思考回路の産物です。 確かに向坂逸郎のソ連盲
従が暴威を振るったのは、旧社会党の成田委員長時代以降ですが、社会主
義協会設立時のメンバーには旧総評の太田薫、岩井章の執行部もいたわけ
で、先ず総評から社会党へとその勢力を伸ばしていったという経過はあり
ます。
 自分の頭の中で「北朝鮮を礼賛した知識人=ソ連を礼賛した向坂逸郎」
という構図が成立していた結果でありますが、その行為は別にして治安維
持法で獄中にあってもマルクスのことしか頭に無かった彼は学者として立
派な人物だったとは思います。
 それと三井三池労組自体には、石炭産業の斜陽化を予想できず誤った闘
争で自滅の道を辿ったのも事実です。

>
> まず第一に「歴史修正」をするのではなく、当時の論点を丹念に追ってその中で時流に抗した「真の朝鮮人の利益にたった賢人」がいたというのであるならまだ当方も主宰者さまも存じ上げないので是非ともご示唆ください。
>
 ご指摘を賜り恐縮です、今後そのお言葉を噛み締めて行きたいと存じます。
 
> それから、社会党が対外盲従に走るのは暇人さんのご指摘のように60年代でありまして、当方が既に言及しておりますが、”帰国事業”というのは58年ごろから始まりましたので、60年安保や三井三池争議で”疾走”しはじめる直前でありまして、社会党は意外にも韓国よりの主張だった。そして帰国事業にはおそらく当初蚊帳の外だったはずです。
>
 ご指摘のとおり帰国事業の第一陣は1959年12月であり、三井三池闘争は
60年安保の年であります。
 私は社会党の対外盲従は浅沼稲次郎の「米帝国主義は日中共通の敵」に
始まるのではないかと愚考しております。 自らの国の歴史に対する過剰
な反省の余りに国益を考えずに「友好第一」に走った結果は、相手に利用
されただけだったともいえるのではないでしょうか?

 まあ、せっかくアカデミックな話をしている時に藤四郎が野次馬根性を
出して混乱させてしまい慙愧の念に堪えません。
 大変失礼いたしました。