■東京から1時間 不況重なり分譲進まず
鳴り物入りで始まった林間都市計画はしかし、思うように進まなかった。土地の分譲が低調だったのだ。資料館の箱崎さんによると、「当初5000戸を見込んでいたのに、10年後の1939年(昭和14年)時点の販売実績は全体の31%程度にとどまっていた」という。なぜなのか。
「東京からあまりにも遠かったこと、その割に分譲価格が高すぎたこと、そして時代の逆風と悪条件が重なってしまった」
北海道大学大学院の越沢明教授によると、林間都市の分譲価格は当時、高級別荘地の江ノ島よりは安いものの、鎌倉より高かったという。
しかも当時、林間都市から新宿まで約1時間かかっていた。さらには1時間ごとの運行で本数も少なかった。これでは人々の関心はなかなか、集まらない。
小田急は次々とてこ入れ策を打ち出す。まずは土地取得者は新宿までの乗車運賃を3年間無料化した。さらには無料期間後も「永久に新宿―成城学園と同等まで割り引く」といった措置を発表するなど、通勤客にアピールした。しかしそれでも分譲は増えなかった。
折しも昭和恐慌から戦争へと突き進む時代。不況下で購入後に解約する人も多かったという。関東大震災直後、郊外への関心が高まった時代に開発を進めた東急とは対照的なタイミングの悪さだった。
1941年(昭和16年)、小田急はついに決断を下す。中央林間都市、南林間都市、東林間都市の駅名から「都市」を外したのだ。その理由について1980年(昭和55年)発行の社史はこう記す。
「雄大な駅名に反して肝心の『都市』の建設は一向にはかどらず、林間都市と呼ぶにはへだたりがありすぎた」
壮大な計画は、こうして道半ばで進行を止めた。
■小田急、東急の中央林間接続に異議
中央林間が再び注目されたのは、昭和30年代になってから。そのきっかけとなったのが、東急・大井町線の中央林間延伸だった。現在の田園都市線だ。
実は、この延伸計画が浮上したとき、小田急は異議を唱えている。
東急がまとめた「多摩田園都市 開発35年の歴史」によると、1960年(昭和35年)、計画を説明する公聴会を前に、小田急は東急に対してこんな文書を送った。
「貴社申請の終点予定地中央林間およびその周辺は弊社の新宿線の勢力圏内と考えられますので、貴社の終点予定地を弊社江ノ島線の鶴間以南に変更されたいと存じます。なお大和・鶴間地区は、工場誘致等の計画があり、将来の発展が予想されており、地元民もこの方を歓迎している情勢にありますので、貴社にとってもかえって好都合かと存じます」
要請を受け、東急は既に免許を受けていた「溝ノ口(当時)~中央林間」のうち、「長津田~中央林間」間について工事を見送った。「多摩田園都市 開発35年の歴史」はその理由について、ルートの確定ができなかったこと、土地買収が進行途中であったことと並び、「終点予定地の変更を求めた小田急電鉄の申し入れを考慮に入れた」と書いている。
しかし再検討の結果、中央林間での接続を決める。ただ東急・中央林間駅の設置場所がなかなか決まらなかったことなどから開業はずれ込み、1984年(昭和59年)、ようやく田園都市線は中央林間まで開通した。ここから中央林間は一気に開発の度を早めていく。
東急の田園都市計画に触発されて始めた中央林間の開発が、東急との接続によって息を吹き返す。何とも皮肉な展開ではある。
■「都市」の時代に「林間」名乗る
現在、中央林間は小田急、東急合わせて約20万人が乗り降りする神奈川県の中核都市の1つとなっている。小田急の社史は記す。
「三駅は『林間』の時代に『都市』であり、『都市』の時代に『林間』を名乗るという皮肉な結果となっている」
都市開発は一筋縄ではいかない。今も街のあちこちに息づく計画の名残は、複雑な要素が絡み合う計画の難しさを物語っている。(河尻定)
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