■松竹の撮影所は大船ではなく林間都市に移転予定だった
さらには大日本相撲協会(当時)が力士の養成所を開いた。1931年(昭和6年)6月には300人もの力士を集めて盛大な土俵開きを行い、当時の大関、大ノ里や関脇の天龍らが参加する相撲大会を実施。期間中、電車は連日満員だったという。
しかし翌1932年には関脇・天龍らが力士の待遇改善を求め協会を脱退するなど騒動が勃発。相撲学校もそのあおりを受け、あっけなく消滅してしまった。
スポーツ都市構想とは別に、ゴルフ場も生まれた。これが相模カンツリー倶楽部、現在も続く名門ゴルフ場だ。会員権は流通しておらず、会員になるのが難しいゴルフ場として知られている。
野球場の近くには女学校、大和学園が開校した。小田急創業者、利光鶴松の娘、伊東静江が園長を務めた。現在は「大和学園 聖セシリア」となり、幼稚園から大学まで運営している。
実現しなかった計画もある。松竹は当時、蒲田にあった撮影所を林間都市に移転する構想を持っていた。つる舞の里歴史資料館の箱崎さんによると、実際に土地も取得したという。しかし結局移転は実現せず、蒲田撮影所は神奈川県鎌倉市の大船に移ることになる。
■小田急創業者・利光鶴松、林間都市への遷都構想も
何ともスケールの大きな林間都市。一連の計画を主導したのは小田急の創業者、利光鶴松だった。
利光は衆議院議員などを務めた政治家だ。鉄道事業に進出し、小田急を創業した。新宿から小田原まで80キロ超をわずか1年半で敷設した手腕は当時、大きな話題となったという。
小田急電鉄の社史、「小田急五十年史」によると、利光社長が林間都市を構想したのは大正中期以降。小田急線の計画と並行して考えていたらしい。当時、渋沢栄一が田園都市会社を設立し、息子の渋沢秀雄らが中心となって田園調布に「田園都市」を建設した。後に東京急行電鉄の母体ともなるこの計画が、利光社長を刺激したという。
社史によると、利光社長はさらに大きな構想を抱いていた。林間都市に首都を移転するというプランだ。東京郊外こそこれからの時代の中心となる――。利光社長にとって、林間都市は理想の都市像だった。
小田急電鉄、中央林間、東京急行電鉄、渋沢栄一
中央林間、南林間、東林間――。小田急電鉄の路線図を見ると、「林間」と名乗る駅が目に付く。相模原市から大和市にまたがるエリアにあり、住所にもなっている。この辺りに伝わる由緒ある地名なのだろうか。調べて…続き (4/5)
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