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第二部 有希、コマされる
2-1-13 志方教諭の生理カルテ
その日、志方有希教諭は生徒である山室沙耶香をともなってR高校の一室に来ていた。
『生活指導準備室』という札がかかった六畳程度の部屋で、昨年から指導教員の任を命じられている志方先生の持ち場でもあった。
二人は陸上部の顧問と部員の関係である。
「──お茶、入れようか。ね?」
有希は山室沙耶香に笑顔をみせながらそう言った。
部屋には簡単な流しが付いている。ここに寄る生徒のほとんどは緊張しているので、有希自ら給湯器を使って茶や珈琲を入れることが多かった。笑顔とともに、少しでも教え子の気分を楽にするための小道具である。
「珈琲のほうが良かったかしら」
「・・・いえ、お茶で結構です・・・」
明るい有希の声とは対照的に、沙耶香の返答は暗く沈んでいる。
「山室さん、元気出して。顧問の私も同席するのだから、何も心配することなんてないのよ」
暖かい湯呑みを沙耶香に握らせ、制服の肩に優しく手を置いて励ます二十六歳の女教師。
「・・・ありがとうございます・・・でもコーチは凄く怒ってるって・・・」
有希はその意見を否定しなかった。山室沙耶香は陸上部の下級生の中でトップクラスの才能を持った選手だ。その彼女が部の伝統的な練習方針に馴染めないといって、退部までほのめかしているのである。自他ともに認める絶対的指導者の中西益雄が激怒しないわけがなかった。
しかし理由がどうであれ、成り行きがどうであれ、何の罪もない一生徒をここまで恐怖させるのはそもそも尋常な教育とはいえない。部の顧問であるより前に、この高校の教員として沙耶香の側に立ち、あの男と対峙しないわけにはいかなかった。
「こっちは何一つ間違ったことをしていないのだから、堂々と胸を張るべきよ。保健室の中村先生も真っ赤なデタラメだっておっしゃっていたでしょう。生理の女性は穢れの『気』が出るので隔離しろだなんて」
自分のことのように腹を立てた表情の志方先生。こうした時代錯誤の女性蔑視がまかり通っている事実こそ、彼女にとっては許せないのである。
「・・・でも生理周期を記録したメディカルチャートをコーチへ提出するのは女子スポーツの世界では常識の範囲内だとも・・・」
「それはもちろん肉体的な影響はあるわけだから理解できるけれど──」
問題なのは提出した記録を種に、どうみてもセクハラ・パワハラとしか思えない規則や習慣が存在しているという部分なのだった。そしてその詭計の総元締はとうぜん中西益雄ということになる。
「おかしいじゃない。PMSの状況把握だからってコーチ自ら女子部員に触診を施したり──」
PMSとは月経前症候群のことである。生理前の一週間から十日間ほど、女性に生じる精神的肉体的変異・不調の症状名だ。深刻なケースは加療が必要だが、個人差もあり、専門医の診断が求められてくる。
「精神状態のチェックと称してプライバシーを根掘り葉掘り事情聴取したり──」
まさに根掘り葉掘りである。恋愛観や恋愛体験、性欲に関する意識、異性への言動・・・さらに女子部員本人ばかりでなくその家族にまで調査の対象を広げるのだから。
「そして正体不明の薬を飲ませる──」
PMSの女子のみ飲むことが事実上義務づけられている液体が陸上部にはあった。
見た目にはスポーツドリンクと変わりがないこの飲み物は、コーチ自身がライセンスを持っているらしく、詳細も出処も不明で、わかっているのは『エンコー軟水』という不可解な名称だけと言っていい。
たしかにPMSの治療には薬を処方することも多いのだが、医師免許を有した人間の指示がなければ渡されないわけで、中西はこれを医薬ではなく、鎮静効果のあるガムみたいなものだと説明している。
だが沙耶香が有希に語ったところによれば、これを継続的に服用すると、かえって平常心が崩れ、感情がもろくなり、不安に苛まれるようになるという。結果、他人への依存心ばかりが突出して大きくなっていくと訴えるのだ。
それは彼女の現在の姿をみても頷ける。
期待よりも不安を口にし、視線が落ち着かず、志方先生がいないと何も手がつかないような様子である。
現物が手に入れば疫学的な分析に回し、正体を暴けるのだが、それは中西が徹底的に管理しているから不可能だった。手渡しで与えるのも彼なら、その場で飲ませ、女子部員の口を開けさせて覗きこみ、一滴残らず飲み干したかどうか確認するのも彼である。その体内吸収率なるものを計測するために、採尿させ、提出させる異常な執拗さ。
この行程を『中西ドーピング』と自称して憚らない彼のドヤ顔には、有希も開いた口が塞がらない思いである。
陸上部における奇怪な指導方針については以前から噂を耳にしていたので、この春、顧問に就任──青天の霹靂だったけれど──するとすぐに有希は事情把握のため行動を開始した。
しかしそのすべては一笑に付され、一言の元に拒否され、一顧だにされなかった。
顧問とはこの部の場合、何の権限もないオブザーバーといった実態で、教育委員会や自治体の文教部門が定めている学校課外活動としての部活指針に合わせるため渋々置かれている形骸的な地位に過ぎなかった。おまけに有希はスポーツの門外漢であるし、陸上競技などチンプンカンプンである。就任当初は素人に何がわかると吐き捨てられれば口惜しいが引き下がるしかなかった。
悶々としつつも激務を縫って勉強を重ね、理論武装を蓄えていったが、そんなとき山室沙耶香が飛びこんできてくれたわけだ。彼女が他の女子部員達とはちがい中西ではなく自分に依存を求めてきた理由は幾つかあったろうが、ともかく彼女の口からもたらされる情報の異様性に有希はいっそう中西への反発と警戒を強めていったのだった。
少なくとも有希が立ち会っている陸上部の練習の現場では、中西は部員達へ暴力的指導を行なわなかったが、裏ではやはり日常的に用いられていたのである。
やはり──だ。
とくに部の合宿所として使用している施設──市外の山間部につくられた宿泊設備付きセンター──内では挨拶代わりに横行しているらしい。
顧問になりたての頃であれば、その証言を耳にした途端、有希は中西の元へ飛んでいき激しく詰問したにちがいない。しかし今回は青い衝動を抑制し、他の考えを巡らせることを決意した。なぜなら新人顧問はまだ中西個人が所有するその合宿所に立ち入りを許可されたことがなく、体罰の有無を査察する旨の彼女の要求をあの男が一蹴するのはわかりきったことだったからだ。それよりも山室沙耶香の意思を尊重し、保護することで、陸上部の問題点を顕在化させる方向を選択したのである。
何度か保健室へ立ち寄って養護教諭の口から最新の保健医療の常識をレクチャーしてもらったのも、沙耶香への励ましとともに、学校側へ事の深刻さをリークする一環でもあった。そのように遠回しに持っていくほうが、この学校における有希の立場からして実際的と思われた。
有希の企みは成果を上げかかっていると言っていいかもしれない。
その間、沙耶香は陸上部の練習を休み、休部届を提出しようと決めた。
察知した中西は口角泡を飛ばしたが、有希は彼を素直には沙耶香に引き合わせず、交渉のテーブルを設定して公の場でちょくせつ対面するよう促した。沙耶香から自分の考えや行動を説明させ、妥協点を見いだす形で、陸上部の体質改善を提起していく流れを作りだせるかもしれない。
陸上部の『内紛』は有希の策謀通り、まもなく全校に広まっていった。心配した校長の大村が仲立ちしたこともあって、当初消極的だった中西も断りきれなくなったようだ。ようやく面談に応じると伝えてきた。
沙耶香の両親は中西の指導に疑いを持たないどころか、彼を娘の才能を開花させてくれる恩人と妄信しているようでちっとも味方にはならず、沙耶香はかえって彼らが面談に参加することを望まなかった。彼女が有希を頼った理由の一つがそれなのである。
さて、面談には有希も同伴し、場所も中西が提案してきた部室や合宿所を拒否して、有希のフランチャイズといえるこの準備室を当てることにした。すべては沙耶香の安心感を護持するためのプランである。
沙耶香も志方先生と一緒ならと覚悟を固めた。
それが本日この日なのだ。
「山室さん、錦の御旗はこちらにあるのだから、弱気になる必要なんかないのよ」
「・・・先生、錦の御旗って何ですか・・・」
「あれ、古くさかったかしら。正義の印ってことかな。それを持ってるほうが結局は勝つっていうお守りね。簡単にいえば」
沙耶香は分かったのか分からなかったのか、神妙な顔をして肩をすくめた。期せずして二人とも大笑いとなった。
突然、準備室の扉が開放された。
大村校長の眼鏡顔が覗きこんだ。彼はこの会談に参加しない予定のはずである。
「ずいぶん余裕があるのだね、君達──」皮肉ともつかぬ口調で大村が続けた。「──有希先生、ちょっとお話が」
廊下に出てこいという。心配そうな沙耶香の肩を叩き、有希は大村に従った。
「校長、今になって何ですか?」
彼が中西を説得したのは意外だったが、そのほうが自分の保身に有利に運ぶと考えたからに他ならないのだろう。それしか頭にない男であるという有希の彼に対する評価は修正されていなかった。
「──有希君、本当に大丈夫なんだろうね──」
準備室の扉を閉めると同時に、大村は眉をひそめ、まるで耳打ちをしてくるのではと思うほど顔を近づけて囁いてきた。
この上司はいつの頃からか自分を姓で呼ばず名前で呼ぶようになっている。母である元教師の和美と面識があるとかで区別するためについそうなってしまうのだと言い訳をするが、母はもう現役ではないのだし、知り合いと言っても一二度すれ違った程度のものであるらしいから、何らかの底意があるに決まっている。今のように生徒の前でもあけすけに『有希先生』を使うのは、未熟な教師だ、上司は俺だ、と徹底するための嫌がらせだろうと有希は受けとっていた。
(まあ私も家では『ヅラ校長』なんて言ってるんだから同罪かもしれないけど。生徒の前では自粛してるって)
艶々と黒光りする前髪の流れが額を隠す、大村の精力的な顔を、いつもの通りの仏頂面で睨みつける有希。
「大丈夫ってどういう意味ですか、校長。中西さんがまだ来ていないのを除けば予定通りですよ」
「──っ」
大村校長は思わず絶句してしまう。絶息と表現してもいいくらいの胸の震えを隠すのに慌ててしまう。
志方有希──。
大村は不自然さをさらけださぬよう、しかししっかりと目の前の若手ピチピチ教師を心の中でレタッチする。
グレーで揃えたジャケットとズボンは色香というものがまったく感じられない。紅々とした膝や爽やかなふくらはぎを審美採点できるはずのスカートは、最後に履いているのを見たのは何時だったかと苦労して記憶を掘り返さねばならないほどこの下半身には無縁だった。上着の下には白ブラウスが清楚だったが、高温多湿のこの時期にもなかなか上着を脱がないし、第一番目のボタンまで留めたままのガードの固さは、透けブラウスやデコルテの露出という夏期定番エロスを徹底拒否する意思表示にちがいあるまい。
顔もそうだ。
前髪までひっつめたポニーテールのせいで、額に垂れた一筋のほつれ毛以外、演出するものは何もないほぼ素っぴんは労働協約違反ではあるまいか。
女性誌でもめくって上級者向けのメイクアップ技術を識るだけで、あと三割か四割は上等になる器量の土台を持っているというのに、そうした『職業婦人』の基本マナーの習得を偏向した信条的理由で意図的に怠り、この顔で職員室へ毎日通勤してくるのは、いや、もはや犯罪だ!
おかげで切れ長の目はますます尖鋭的に見え、セクシーなはずの鼻頭は高慢にしか映らず、素色の唇は怜悧な論理しか話さぬ印象であるのだ。
男の視線などひとつも意識するものか、媚びるものかと、大村が教員になりたての頃の同僚女性の中にも、そうした肩肘を張った喰えぬ女史気取りが少なからずいたものだが、当世ではこの志方有希のようにブスと決まっていた女史の美形度が上昇し、体格も肉感的に向上しているから、いっそうフラストレーションが溜まるというものだった。
「──中西さんがまだ来ていないのを除けば予定通りですよ」
尊敬心の欠片もない口調、敵意と猜疑の色しか浮かんでいない瞳・・・。
まったくこうした反乱分子は芽のうちに摘みとっておくにかぎる。情にほだされて見逃していたらこいつの母親のような筋金入りの女闘士に育ってさらに厄介なことになってしまう。
「・・・その中西コーチが有希先生にお話があるそうだよ。三者面談の前に今すぐ、とおっしゃっている」
「私に? どういうことですか。終わった後では駄目なのですか」
そりゃ駄目だろうよと大村は腹の中で嘲笑した。
お前は今日から中西益雄の手中に落ち、全力で再教育されるスケジュールなのだから。
こそこそ嗅ぎまわらなくとも、山室沙耶香を焚きつけなくとも、面談などという小賢しい工作をしなくとも、『我々』に歯向かった女がどういう運命を辿るのか、その身で体験すればいいだけだ。
その運命を知っていればこその胴震いであった。
「前に話さなきゃ無意味だとおっしゃっている。またまた凄い剣幕でね。せっかく私が取りなして三者面談に持ちこんだというのにこれでは元の木阿弥ですよ。有希君、胸に手を当ててよーく考えてみたまえ、何か思い当たる節があるのじゃないか」
「思い当たる節って」
「教師としてあるまじき行いに手を染めておらんでしょうな。指導課の先生は狙い撃ちにされやすいんですよ。生徒の父兄から付け届けを贈られるとか」
有希は細い眉を持ちあげて大村の言葉そのものに理解できないという表情になった。
「ありえませんねっ。中西さんがそう言っているのですかっ」
「一般論だからそう興奮しないで。プライベートはうまく行っておりますか。若い女性教師はすぐ脇が甘くなるものですよ。世間は口さがないですから、少しでも澱みを見つけると、淫行したとか不倫をしたとか、針小棒大に騒ぎ立てる。そうなってからでは遅いんです。常日頃から身を綺麗にしておかないと。潔白だと言い切れますか」
「誰のせいか知りませんけど、休む暇もないほど働き詰めですから!」
「フェミニンなコンディションは如何です。疲労や鬱積が一瞬の気の迷いを導き、軽微な過ちへ走らせるということも少なくない。バイオリズムは規則的に山・谷を作っておりますか」
大村が何をいいたいのか察すると有希の目元が気色ばんだ。むろん羞恥にではなく憤激にである。
「・・・それこそ中西コーチの言説ですねっ。わかりました。ひとまず彼に会って問い質してみますっ」
今回の騒動で、若さに任せて勇み足を連発していた『こなしごろ』の時代は早くも卒業したかと危惧していたが、やはりまだまだ青さが残っているようだと、大村は安心する。これなら女をチビらせるプロフェッショナルである中西の軍門に下るのも早いはずだ。
「中西コーチはレスリング部の道場におられるそうです」
「レスリング・・・」
有希は準備室の沙耶香に、コーチを連れてくるから心配しないで、と声をかけた。
校長と若手教諭は廊下を旧校舎へ向って歩きだした。運動部の部室やトレーニング室はそこにある。
「それにしてもなぜ陸上部ばかりでなく他の部にもコーチ面して出入りしているのです、彼は?」
「有希君、コーチ面はないだろう。目上の男性に対してはもっと敬意を払った言葉遣いをしてもらわないと。そういう常識の欠落が中西さんを怒らせているということを、そろそろ分かってほしいんですがねぇ」
「校長は彼がうちの運動部全体に影響力を伸ばしていくのを黙認していらっしゃるようですが」
「そんなことはありませんよ。減量のハウツーに関して、彼は指折りの知見を持っているんですよ。こんにち、あらゆるスポーツにウエイトコントロールは必須ですからね。事故が起こることだってある分野だし専門家に助言を戴けるなら僥倖ですよ。しかも中西さんはボランティアでやってくださっている。素人の有希君が黄色い嘴を挟むのはお門違いですぞ」
久々に言い負かしてやったと嗜虐感に浸る大村。165センチの自分よりわずかに低い身長の有希をニンマリとチラ見する。横顔のアングルのほうがいける造作かもしれない。頬の肉も薄いし、鼻の形もいい。
「ドクターの資格を持っているとも思えないし──」つぶやく有希。「──校長が指摘したとおり、十代の若者の減量は危険が伴いますから、医療現場からのアドバイスを受けるべきですよ。中西コーチはどんな資格をお持ちなのです。もちろん確認されてますよね」
「・・・うん、まあ、それは、ねえ・・・」
「山室沙耶香の話によると、名前のわからない飲料水を強制的に飲まされるそうです。民間療法とだけ説明して。私には科学的根拠のあるものだとは思えませんが、もしあるなら、それを素人が処方するのもおかしいでしょう。どうお考えですか」
顔だけでなく、このアングルならバストのふくらみもわかりやすい。やや大きめサイズのブラウスを着用しているため正面からではなかなかボリューム感を把握できないのだ。背筋をピンと伸ばした姿勢の良さと、サイドからの視点があって初めて胸乳の位置が判明する。巨乳など邪魔なだけ、なのがキャリアウーマンの煩悩だろうが、彼女達が多用するきつい矯正ブラジャーまでは付けていない。ゆったり目のブラウスだけで猥褻な視線を撹乱できると高をくくっている。量感の豊かさに自覚がないともいえる。
(たしかに巨乳ではないがな・・・。とはいえ82、83はあるだろう。母親は貧乳だったが娘は発育している。アンダーバストがダダ拡がりしていないと見た。美乳だな)
言うまでもなく、志方有希の全情報は調査済みであるから、秘密の会員サイトにアクセスすれば、スリーサイズくらい簡単に閲覧できるのであるが、妊婦がお腹の子の性別を教えぬように主治医へ依頼するのと似た気分が大村校長にはある。どうせ中西達に喝され賺されながら全裸に剥かれ、全身に尺を巻きつけられて何もかもを計測されるのだ。その時の表情や姿を思い描きつつ、垢抜けない衣布の下の肉体の丸み具合を妄想するのこそ『通の悦び』というものである。
「どうお考えですか?」
歩みを颯爽と進めながら質問に答えようとしない校長へキリキリとした目つきを飛ばしてくる志方有希。平均月経周期26.3日。
生徒の権利と自由を守るという使命感に燃え、管理職からのどんな嫌がらせにもへこたれずに理想主義的な発言をくりかえす志方有希。月経開始まであと三日。現在PMS中。軽度の乳房緊満感を感覚。
スリーサイズは見なかったが、生理の項目だけはついついチェックしていた。これを色眼鏡のレンズにして改めて観察する有希の冴えた表情ときたら再び絶息物である。
PMSか・・・。
中西コーチが面談の場所を妥協しても日にちを譲らなかったのはこのためである。女の精神力はこの時期が最も減退すると確信しているのだった。
(どうだか知らないが、子宮を巡る、精密なデータを調べあげているという事実こそ、そそられるわけだ。有希君、君の子宮はもう鷲づかみされているのだよ)
さらに大村校長は彼女の24時間平均の排便排尿回数を思いだして、にやけそうになる。
さすがにここまでのデータ取得となれば種があるわけだ。
種とは本校の養護教諭、中村久美子だった。
(あの女がこちらのスパイだとは、これっぽっちも疑っていなかっただろうよ有希君)
彼女は昨年、他校から異動してきたのにかかわらず、瞬く間に一番人気になった美女教師だ。
同時にR高校の保健室は、校内暴力や体罰からの駆け込み寺だと、評判をとるようになる。
なぜなら中村先生は保健的見地から生徒の安全を擁護する態度は言うまでもなく、とくに女子の悩み事にまで耳を傾ける精神面のケアにも熱心で、中西登場以来、表面化する体罰派の台頭とともに、急増した暴力被害者を憂慮して、すみやかな改善をたびたび職員会議で訴えもしたからだった。
まだ赴任してから日が浅いということもあり反体制派としてオルグするまでには至っていなかったが、いずれ有希と連携するのも自然の流れだろう。事実、山室沙耶香の一件では積極的に情報を交換しあう段階にきているのだ。
オルグの対象者と見こんでいる通り、有能な養護教諭であるのも明らかだから、有希は自身のプライバシーに関する情報を問わず語りに中村先生に漏らしていた。この情報に加えて、有希のかかりつけの産婦人科病院の職員を買収して得たカルテのコピーと、さらにこの半年間、彼女のマンションに取りつけられた数個の盗撮カメラからの映像分析もあるので、専門家の中村が総合してこうしたデータを作成するのは簡単なことなのだった。
中村久美子──三十代半ばの蠱惑的魅力に包まれた肉体の持ち主。
大村は彼女が中西とともに河徳学園グループから送りこまれてきた、R高校乗っ取りのための先兵隊である情報をもう何ヶ月も前から胸に置き留めている。
中西が強面の追いこみを得意とするなら、中村は反乱分子を炙りだすために思想を偽り、内情に潜入するマタハリの役を任務とするのである。
学園乗っ取り──
その気配があるのを知った時はさすがに驚いたが、大村としては今の地位と今の給料が保証されるなら系列などどうでもいい話で、むしろ河徳の提示する条件のほうが現状よりいいのだから、その流れを黙認した。積極的に動く場合もあったが、校長が露骨に寝返るのは過去事例からして摩擦が大きくなると河徳側からの指令もあり、控えていることが多い。しかし今日のような大活劇ともなれば居ても立ってもいられず馳せ参じてきているのである。
「──校長、聞いていないでしょう。私の話など取るに足りませんか」
有希は徒労感を見せつけるようにそっぽを向いた。魅力的な横顔が冷えびえとしている。
「まあまあ、とにかく落ち着いて話をすることが寛容だ。礼儀を忘れずに。彼が本当に怒ったら我々など、ひとたまりもないのだからね」
「ええーっ、それは恐ぃ恐ぃ──」
戯けて嗤ってみせる。全くリアリティを感じていないという愚かさの発露ではなく、校長の軟弱無神経な対応を揶揄したかったのだろう。
二人は校舎からいったん屋外へ出た。
旧校舎へ接続する渡り廊下はなく、シートをかぶせられ、野ざらしに近い形で置かれている学校備品の列に沿ってさらに歩かねばならない。
「ご母堂はお元気かな」
「母には興味がおありのようですね」
「それはお世話になっていたわけだし・・・いやホント、有希君を見ていると和美先生を思いだしてしまう。彼女も君と同じように・・・いや君以上に活発な教員だったからな」
「そうでしたか。母は大村校長のことをほとんど覚えていないと言っていましたよ」
「うん、和美さんとはちがって私は平凡な教師だったからねぇ。彼女は言ってみればアイドルだ。学校の枠を超えて評判が高かったんだ。ああいう眉目秀麗の女性はそうはいない。志方と結婚してつまらぬ思想に感化されてしまったが、そうでなければ教頭の椅子ぐらいには楽に座れただろうに。勿体ない話さ」
有希が和美を尊敬し倣おうとしているのはわかっているので、時々こうして牽制してやるのだ。今の言葉の裏には、結局女は容姿で人物評価をして妥当だとか、男の後を追ってでしか女の社会的意識は発達しないとか、女の昇進は女の武器を使った結果に違いないとか、そんなオトコの本音が嫌みという形で散りばめられている。
ただしこの娘も耐性ができてしまったのか、そう安々と挑発に乗ってこなくなっていた。心は大村ではなく中西との対決に勇んでいるのだろう。
「まあ志方が急逝したのは残念だったが、物事は前向きに受けとっていかないとね。和美さんも新しい人生を始めればいいのさ。まだ若いのだし、あんなに美人だし、女としてもう一花も二花も咲かせられるだろう。噂によればハヤリの住民運動なんかに首を突っこんでるそうだが、時間の浪費だな。未だに志方の呪縛から抜けきれていないのだろうけど、完全に解放されなきゃ不幸じゃないか。君からもきちんと意見してあげたらどうだね」
有希は毅然として立ち止まり、完全に大村へ正対してはっきりと言った。
「母のプライバシーを詮索する権利はあなたにはありませんよ、校長。それと母は自らの信念で行動しているのであって誰にも従属してなんか、いませんっ。父にもですっ」
「ああそうか。誤解だったね。住民運動に参加しているのは政治的理由じゃなくて、次のベターハーフを見つけるための婚活なんだな。なら和美さんの未来は薔薇色だ」
物凄い目で睨んでいる有希の右手がぴくりと動いた。
どうやら俺の顔を張り倒そうとしたんだな、と大村は承知した。
それならそれで一興だったが、有希は思いとどまり、黙殺をもってこの侮辱に応じようとしている。ここで全面戦争に突入している暇はない。教師として山室沙耶香を置き去りにするわけにはいかないのだ。
「──校長、早く行きましょう」
砂利を跳ね上げるように向き直り、大股で旧校舎の入り口を目指した。
旧校舎は木造独特の匂いで二人を迎えた。
「ここを取り壊さないで良かったよ。何かほっとするマイナスイオンで満ち溢れている。我が学園の故郷、郷愁を感じるねぇ」
「だったら体育会系ばかりに独占させずに、文科系のサークルにも部屋を割り当ててあげればいいのに。彼らは一般の教室とか生物室とかで活動しているのですよ。たまに廊下でデスカッションしている時もありますわ」
「運動部の顧問のくせにそんな心配までしなくてもよろしい。学校運営も世知辛い商売でね。費用対効果を無視して予算を動かせないのですよ。有希先生のキャリアではなかなかそこまで知恵が回らないだろうけれども」
そういって大村は有希の血気盛んな肩をポンと叩く。
しかし有希の主張のとおり、木造のひんやりとした空気は一階の廊下を数メートルも入りこめば、運動部員の身体から発散してくる生々しい『すえ』に取って代わられるのだった。二階から三階に密集する部室に長時間放置される汚物に近い洗濯物の悪臭は、廊下や階段という排気筒を伝わって混合し堆積し、結局は校舎の下へ集まってくる。一階にひしめき合う幾つかの道場やリングも、過激な運動が生産する濃厚な汗の臭いを充満させて、ついには壁の分子から外部へじっとりと放出していく。女にとって胸が焼けるような牡臭の空気はこうして旧校舎全体を、マイナスイオンどころか換気を忘れた畜舎とさせていた。
中西が待っているというレスリング部の道場は一階の最も奥まった位置にある。
「こちらへは初めてですか」
大村は月経前症候群で乳房を硬くしているはずのお転婆教師に尋ねた。
いよいよひややかな表情をしているが、この男性フェロモンたっぷりの空気を吸って、性欲中枢が高確率でざわついているはずだ。なぜなら清楚だが、女の人生で最盛の時期にある若手教師の肉体は、生理前にとくに貪淫な活性化を示すタイプであるのが分かっている。脱衣籠や洗濯機の中の下着を継続観察すれば明白で、盗撮カメラからの画像解析情報は、この娘の性欲が黄体期終盤に下降曲線を描く一群には属さず、有意の上昇曲線を持つ一群の牝であることを実証していた。
「すぐ三階へ上がりますからね。来ることはほとんどありません」
有希の答えた三階には陸上部の部室があった。
「一度は見ておくべきでしょう。いや見たかったのではないかな。男子の真剣勝負の迫力を」
「真剣勝負ならグラウンドのトラックやフィールドでいつも見ています」
「格闘のほうがより生物学的な本能を昂奮させるでしょう」
「生物学的な本能? 何ですそれ──」
色々なところから男子の気合いや奇声が聞こえてくる。
有希の表情に変化はない。
ホルモンの流動化は肉体の深層で始まるので、表面的な取り繕いはとくに頑強な意思力を動員しなくとも維持できる。しかし変化は確実に肉のデリケートな部分を中心に生じているはずだ。
(女はホルモンの奴隷だからな。そう中西が力説していたぜ)
大村はレスリング道場の扉をノックしながら有希の運命に三たび胴震いした。
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