満州事変

内蒙古自治区

蘇鄂公爺

中村大尉殺害事件跡

1931年6月、興安嶺方面の軍事地形を調べるため関東軍から派遣された中村震太郎大尉が、 現地の中国軍により殺害された事件。この事件によって日本国内および満州在留邦人の間に中国討つべしの機運が高まり、 3カ月後、満州事変が勃発した。内蒙古自治区の蘇鄂公爺付近。烏蘭浩特から近い。

カラチン旗

満蒙独立運動関連史跡

満蒙地域を独立させようという試みは、満州事変以前にも何度かあり、なかでも有名なのが辛亥革命後二度に わたって起こった満蒙独立運動である。第1次満蒙独立運動は、清朝崩壊直後の1912年に起こったもので、 別名宗社党事件ともいう。中心となったのは元清朝遺臣からなる宗社党と川島浪速をはじめとする 日本人大陸浪人グループ。計画によれば、日本から調達した武器を満鉄線公主嶺から内蒙古のカラチン王府と パーリン王府まで秘密裏に輸送。蒙古人部隊による武装蜂起を促すというものであった。だが、 この計画は武器輸送の段階で中国側に発覚し、未遂に終わった。1916年の第2次満蒙独立運動の首謀者も、 やはり川島浪速ら日本人グループと宗社党の一派であった。ただし、今回は蒙古独立を悲願とする 蒙古人パプチャップが主力部隊として加わっていた。計画では、まずパプチャップが北満州で蜂起し、 それに呼応する反乱部隊とともに奉天を占領。さらに北京を襲って内外蒙古と満州および華北を併せた 「北清帝国」を建設するというものであった。 だが、この計画も袁世凱の急死によって再び頓挫。 中国軍に追われ、敗走したパプチャップも内蒙古の林西で流れ弾に当たって死亡し、 ここに第2次満蒙独立運動も第1次と同様あっけない幕切れを迎えたのであった。なお、 この第2次独立運動には、日本の財閥大倉喜八郎も一枚かんでおり、当時の金で百万円を 資金として差し出したといわれる。一説によれば、間島(満鮮国境地帯)に東洋のスイス ともいうべき中立の独立国を造り、大倉をその王にするという密約が川島らと交わされていたというが 定かではない。カラチン、林西ともに内蒙古自治区内にある。

ノモンハン

ノモンハン事件跡

1939年5月から9月にかけて満州国とモンゴル人民共和国との国境地帯で戦われた戦争。 日本では一般にこれを「ノモンハン事件」と称しているが、モンゴルでは、戦場がハルハ河付近だったことから、 「ハルハ河戦争」と呼んでいる。当時、満州国と日本は、モンゴルと満州国との国境線を このハルハ河と決めていた。ところが、モンゴル側はハルハ河から満州国側に入った地点を 国境線とみなしており(これは歴史的にみてもモンゴル側の主張が正しかった)、5月12日、 突然越境して陣地を構築し始めた。これを迎え撃つべく関東軍と満州国軍が出動、 ここに数カ月にわたる悲惨な戦いの幕が切って落とされたのである。モンゴル軍はソ連軍の支援を得て、 戦車や飛行機を含む圧倒的な機甲軍団を投入。 対する日本側は、貧弱な装備しか持たず、 また辻政信参謀の作戦ミスもあって、ソ連軍の重戦車に対して火炎ビンなどほとんど素手同然で 立ち向かわねばならなかった。犠牲者の増大を懸念した陸軍中央は、関東軍に対して再三、 戦闘中止を要請するが、辻政信少佐は「北辺の些事は関東軍に依頼して安心されたし」と返電、 なおも無謀な戦いを続行しようとした。だが、同年9月ナチスドイツが、突如、ポーランドへ侵攻し、 第2次世界大戦が始まると日ソとももはやノモンハンのような局地戦争にかかずらっている余裕はなくなり、 やがてモスクワで停戦協定が結ば れた。ここに日本側犠牲者の数1万8000名ともいわれる ノモンハン事件がようやく終結したのである。中国側に最も近い都市はハイラルの西南、約150キロほどの新巴尓虎左旗。

上海

三友実業社跡

1932年1月18日、勤行中の日本山妙法寺の僧侶が、たまたま通りかかった工場の前で、 中国人暴徒によって殺害されるという事件が起った。日本政府はこの事件を重大な挑発と見て、 上海駐屯の海軍陸戦隊に出動を命じた。これに対して、中国軍部隊が応戦、ここに第1次上海事変が勃発した。 なお、この事件は満州事変に対する列国の関心をそらすため、上海公使館付武官・田中隆吉と女スパイ川島芳子らが 仕組んだ謀略であったことが戦後、明らかになった 。現場は楊浦公園の南、引翔港近くの馬玉山路。

 

天長節事件跡

天長節事件の現場跡。1932年4月29日、天長節(天皇誕生日)を祝って日本軍による大観兵式が 虹口公園で催された。この際、祝賀会の式台に突然、爆弾が投げつけられ、壇上に並んでいた 白川義則大将はこの時の傷がもとでのちに死亡、重光葵公使は右足切断の重傷を負った。 犯人は朝鮮独立党の志士尹奉吉。爆弾は水筒に擬装されていたという。場所は虹口公園。

爆弾三勇士事件跡

 上海事変の真っ最中の1932年2月22日、日本兵3名が爆弾をかかえて敵の鉄条網に突入、 そのまま爆死した。軍がこれを突撃路を切りひらくための覚悟の自爆と発表したため、 マスコミは「爆弾三勇士」と名づけ、軍国熱をあおる美談に仕立てあげた。だが、 実際は間違って導火線を短く切ってしまったために起こった事故だともいわれる。 現場は 虹口公園北方の廟行鎮。

北京

粛親王王府跡

 清朝の筆頭皇族で親日家だった粛親王家の跡。川島芳子の生家でもある。東城区東44条小学の斜め向かい。 現在は工場となっている。

宣武門外第一監獄

1945年8月、日本が敗退すると、国民党政府は抗日戦争中、日本側に協力した中国人を漢奸(裏切り者) として一斉逮捕に乗り出した。満州国建国前後、東洋のマタハリ、満州のジャンヌダルクとして 一世を風靡した川島芳子もこのとき、北京へ乗り込んできた国民党特務によって捕えられ、 ここへ収監された。その後、彼女が日本国籍を取得していたかどうか(日本国籍であれば漢奸の罪には問えない) などをめぐって裁判が繰り広げられたが、結局、漢奸と認定され、1948年3月25日早朝、 銃殺刑に処せられた。享年42歳であった。なおこのとき銃殺されたのは「身代わり」で、 本人は金を積んで処刑を免れたというまことしやかな説も流れている。しかも後日、 その証人となる人物も現れたといわれ、真相は今もって明らかではない。現在の北京監獄。宣武門外南西の濠沿い。




四川省

宜賓

趙一曼記念館

趙一曼は「満州」で反日武装闘争に殉じた有名な女性ゲリラ隊長。趙一曼は1905年に生まれ、 1927年にモスクワの中山大学に留学するまでの22年間をこの町で過ごした。ソ連留学から帰国後、 しばらく江西省や上海などで地下活動に従事していたが、1931年、九・一八事変がおこると 中共中央の指令で「満州」へおもむき、瀋陽やハルピンなどで労働運動の指導にあたった。その後、 反日ゲリラの根拠地、中共珠河道北区(ハルピンと牡丹江を結ぶ鉄道沿線の北側地域) 委員会の書記として武装闘争を指導した。だが、1935年、日本軍と交戦中、負傷してとらわれ、 ハルピン警務庁(現在、烈士記念館となっている)に護送され、そこで処刑された。 ここはその趙一曼の記念館で、彼女に関する多くの資料が展示されている。成都の南方、 宜賓市の郊外翠屏山にある。




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