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皇室全般画像掲示板
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周りがお膳立てしてくれて菊のカーテンに隠れられた時代、皇族も楽だったでしょうね。
国民の目線を気にして、わざと、ツンツルテンの背広を着ていた裕仁は、稀代のペテン師。悪魔も真っ青!http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html昭和天皇が戦争狂になった訳ー途中からー こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕かけて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。 ー続くー
−続きー彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。 ー続くー
ー続きー 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。 ー続くー
ー続きー戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。 ーまだまだ続きます。サイト開いて、人間「裕仁」の内面を見てください。興味がつきませんよー