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長谷部恭男の作為 - 「リベラル・デモクラシー」の欺瞞
憲法学のアカデミーの現状はどうなっているのか、憲法をどう考えているのか、それを知りたいと思って、長谷部恭男の『憲法とは何か』の頁をめくってみた。読み終わって、長谷部恭男の憲法観なり日本国憲法論なりをストレートに知るには、この岩波新書ではなく、ちくまの『憲法と平和を問い直す』の方が適当なのだろうと直観したが、正直なところ、時間とお金をかけて二冊目まで購読しようという気にはなれない。この本では、立憲主義とリベラル・デモクラシーの二つがキーワードになっていて、二つの術語を用いて日本国憲法を思想的に定義し、その意義を説明する内容となっている。また、この二つの言葉は、憲法学者である長谷部恭男の立場を示すものでもあり、すなわち現在の日本の憲法学の主流が、この思想的立場と言説方法にあることを読者は窺い知ることができる。「立憲主義」という言葉が、憲法を説明し日本国憲法を性格づけるにおいて、これほど頻繁に登場し、さらには過剰に氾濫するようになったのは、実は最近のことだ。憲法について、われわれは小学6年、中学3年、高校3年の社会科で学習し、大学では一般教養の必修科目で講義を受けたが、教科書でも授業でも、「立憲主義」から憲法を概論するという場面に遭遇したことがない。ロック・ルソーの自然法思想と社会契約、フランス人権宣言、ワイマール憲法、平和主義という歴史的流れで日本国憲法が説明されるのが一般論だった。
立憲主義の概念と学説は、憲法学においては新しいものではないのかもしれない。だが、<日本国憲法=立憲主義>という等式を当然のものとして教師が押し出し、生徒が頷くほどには、立憲主義は憲法の教育の中で常識的な範疇ではなかった。人口に膾炙されるようになったのは最近のことで、世間に言葉が普及し定着したのはここ10年のことである。リベラル・デモクラシーという言葉も、聞いてイメージが浮かばないものではないが、厳密に概念定義されたものが一般の通念になっているとは言い難い。長谷部恭男は、「本書では、リベラル・デモクラシーを、立憲主義を基底とする民主主義体制という意味に用いている」(P.70)と説明している。思想的な中身は、立憲主義もリベラル・デモクラシーも同じ意味らしい。それでは、長谷部恭男の言う立憲主義とはどういう意味かということになるが、こう書いている。「立憲主義を理解する際には(中略)制度的な徴表のみにとらわれず、多様な価値観の公平な共存という、その背後にある目的に着目する必要がある。立憲主義と敵対した思想家―たとえばカール・シュミットやカール・マルクス―と立憲主義との対立点は、制度的な表層の背後にこそあるからである」(P.71)。この件で言わんとする真意が判明する。長谷部恭男の立憲主義とは、ファシズムと共産主義に勝利した思想という含意で使われている。近代国家の憲法を基礎づける思想は三つで、立憲主義とファシズムと共産主義だと言うのであり、冷戦で共産主義が敗北し、立憲主義が勝ち残ったと言う。
長谷部恭男が立憲主義を説明するとき、何度も「多様な価値観を互いに認め合う社会」の重要性を繰り返し、小林節や枝野幸男が唱えて言論空間を席巻したところの「国家を縛るもの」の契機が二の次になっているので、その論理を不思議に思って読んでいたが、思想的な核心部分がプリミティブに露呈され、「なるほどそうか」とニヤリとさせられる。やはり、日本国憲法を立憲主義で強調する方法やその憲法論は、ポスト冷戦時代の脱マルクス・脱戦後民主主義に力点と狙いがあるのだ。1990年代以降に変節した日本のアカデミーの新常識であり、脱構築主義と密接に繋がる思想性である。「正体見たり」という感覚が私の中にある。宮沢俊義の憲法学の流れ(主流)だから、それはそれで自然であって、何も憲法学界が突然変異を起こしたとは言えない。そして、政治方面からの改憲論(自民党)には消極的であり、保守的護憲論とも言える立場なので、マイルドでニュートラルな、目を剥いて批判する相手でもないだろうという気分にもなる。左派一般は、憲法学の主流である「立憲主義」学派に対して、そうした認識と表象を、そして期待感を持つに違いない。しかし、私は、それは問題だろうと思う。彼らは、決して護憲派であるわれわれの期待に沿って動いてくれる知識人ではないのだ。この20年の最高裁の憲法判断、内閣法制局の憲法解釈を考えないといけない。憲法学アカデミーの主流が護憲であったなら、これほど反動的で反憲法的な政策や法律や判決が溢れるのはおかしいではないか。安全保障にせよ、社会保障にせよ。
社会と国家の現実は、日に日に憲法の理念から遠ざかっている。憲法へのリスペクトは踏み躙られている。彼ら(主流派憲法学)は、憲法の理念に即した立場から、現実の政治過程や法過程に介入しようとしない。どれほど憲法の理念に違反した法制度が施行され、判決が出されても、それに対して知識人として正面から批判して論議を起こそうとしない。政治と憲法学を隔絶させ、憲法を官僚の道具にし、政治にフリーハンドを与えている。長谷部恭男の説明を聞いていると、「多様な価値観を認め合う」体制すら実現されていれば、現実の政治過程は何をやっていてもよく、憲法学はそれを容認するという具合に聞こえる。実際、憲法改正論のところでも奇妙な記述がある。「憲法9条の改正論についても同じことがあてはまる。従来の政府解釈で認められている自衛のための実力の保持を明記しようというだけであれば、何の『意味』もない改正である」(P.21)。まるで、憲法を変えても変えなくても同じだから、変えたいのなら変えてみればいいと言っているのと同じだ。この憲法が平和主義の原理を基本として制定されたものであり、300万人の犠牲の上で戦争放棄と戦力不保持が宣誓されていることが考慮されていない。日本国憲法は、立憲主義よりもはるかに平和主義の憲法である。「憲法とは何か」と題を立て、読者・学生に日本国憲法を説明するなら、何より平和主義から説明しなくてはいけないのではないか。
前文
を見よ。半分は平和主義が語られている。「多様な価値観を認める」などとは書いていない。この憲法は戦争肯定論者の価値観を認めてはいない。
長谷部恭男の「リベラル・デモクラシー」の用語について、私はその悪質な作為性に気づいた。正鵠を射ているかどうかは、ブログの読者にご判断いただきたいが、これはラディカル・デモクラシーに対置した言葉だ。日本国憲法のラディカル・デモクラシーの本質的属性を否定し、その性格的特徴を巧妙に隠蔽し、日本国憲法を欧米諸国の憲法一般と同じカテゴリーに投げ込み、表象をスリ換え、単なる(毒にも薬にもならない)没価値的な神棚のお飾りの法典に祭り上げている。本当は、他先進国の憲法よりもずっとラディカルな理念を持ち、現実社会にラディカルな民主主義を要請する憲法を、その性格を剝ぎ取り、脱色させ、すなわち憲法の牙を抜く言説が、長谷部恭男の立憲主義とリベラル・デモクラシーなのだ。日本国憲法は、リベラル・デモクラシーではなくラディカル・デモクラシーの憲法である。制定の初発からそうだった。この憲法の誕生にかかわった面々は誰か。鈴木安蔵、森戸辰男、高野岩三郎、ベアテ・シロタ、E.H.ノーマン、丸山真男。まさに、ラディカル・デモクラシーの知識人たちだ。そして、この憲法を今日まで守る防衛勢力のバンガードだったのは誰か。丸山真男、吉野源三郎、中野好男、家永三郎、加藤周一、日高六郎、木下順二、久野収、鶴見俊輔、小田実、大江健三郎といった戦後知識人ではないか。日本国憲法の思想像を構成する具体的人格は、まさに彼ら戦後民主主義の知識人にあり、東大で主流派憲法学の椅子に座っていた面々にはない。その脈流に連なる現在のアカデミー官僚でもない。日本国憲法の別名は戦後民主主義である。
主流派憲法学の「立憲主義」や「リベラル・デモクラシー」の論は、憲法からラディカル・デモクラシーの歴史や性格を消去する目的の言説であること、われわれは見抜かなければならない。長谷部恭男の『憲法とは何か』は、日本国憲法を説明する概説書だが、そこには制定過程の歴史が全く登場しない。憲法をめぐって二つの勢力が厳しく激突した戦後政治が語られず、この憲法が生きてきた姿が描かれない。焦点は冷戦後であり、冷戦後の現在の憲法を、彼らにとって邪魔者であった革新勢力(護憲で奮闘した戦後知識人)が消えたために、憲法の理念や歴史に触れることなく、人目を気にすることなく、意味不明な「立憲主義」で定義づけ、それが日本国憲法だと既成事実化するのである。憲法の性格を姑息に変えている。捏造している。ラディカルな憲法からコンサバティブな憲法へ。現実の政策や判決に異議を唱え、国民の権利を守ろうとする憲法から、政府のやることを黙認する口数の少ない憲法へ。脱構築系やアカデミー官僚の学者の態度は常にそうだが、彼らの理論敵として意識され措定されているのは、現実社会で国民生活に脅威や厄災をもたらせている反動右翼や新自由主義ではなく、戦後の革新勢力であり、マルクス主義+近代主義の戦後社会科学なのだ。もし、日本国憲法がラディカル・デモクラシーの憲法であると認め、戦後民主主義の思想史の上に憲法を定義づける者なら、長谷部恭男の主張に安易に肯首してはいけない。「立憲主義」の欺瞞に誘導されてはいけない。以上、かく長谷部恭男を照射するとき、今、憲法学がどうなっているか、どうして憲法の存在感が薄れているか、感触をつかんでいただけると思う。
丸山真男の思想像を、ラディカル・デモクラシーからリベラル・デモクラシーに改変し、既成事実化しようとする動きは、長谷部恭男ら憲法学だけでなく、東大・岩波の政治学でも行われている。憲法を市民の手から奪い、官僚の所有物にし、官僚の道具に変質させた官僚アカデミー、その同志たち(東大・岩波)が、丸山真男を官僚の所有物にしている。丸山真男を「リベラリスト」として定義する苅部直がそうだ。東大・岩波による戦後民主主義の否定と抹殺の動きであり、反動的で悪質な思想工作と言うほかない。
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thessalonike5
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2013-04-04 23:30
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