人生の分岐点
~弁護士に至るまで~
神奈川県横浜市の横浜法律事務所で、敏腕を発揮されている滑石出身の岡田尚さん。弁護士歴30数年。数え切れないほどたくさんの裁判の弁護を行い、社会正義を実現する岡田さんは、依頼者、他の弁護士から高く評価され、横浜法律事務所弁護士9人、事務局員6人の頼れる存在である。多くの裁判の中で一番印象に残っている事件はというと、1986年国鉄民営化によって国労組合員が集められた「人材活用センター」で起こった事件で、1993年無罪判決を受けた国労横浜人活刑事弾圧事件であると言う。
岡田さんは、1945年滑石に生まれる。小・中学校の時は、「何でも尚ちゃんが一番」と言われ、勉強も喧嘩も一番、野球は4番でピッチャー。おまけに郡市の弁論大会でも優勝したりして人望もあった。そんな岡田さんは、みんなでいるときが一番好きで、嫌いなのはみんなに会えない夏休みであった。
玉名の豊かな自然の中、八幡様の節頭や氏神様の座祭りがあり、その時食べた淡雪寒(あわゆきかん)の味が今でも忘れられない。幼い頃、巡回映画があり小学校の講堂で、鞍馬天狗を見た。嵐寛十郎や美空ひばり等出演していたと懐かしそうに話してくれた。
高校は、野球をやるために進学校ながら選抜高校野球に全国優勝した済々黌高校に行くつもりだった。ところが、中学3年の時、急性腎炎で10ヶ月入院。一年以上の闘病生活を強いられた。留年も経験し、もう一生スポーツもだめかと人生最初で最大の挫折を味わう。「人間は何時死ぬか判らない存在だ」と言うことを強烈に意識した。
玉名高校に進んだ岡田さんは、体を最優先の高校生活を送らざるを得なかった。牧師の兄、映画プロデューサーの義兄を見ていて、漠然とではあるが普通の就職はしたくないと思い、いずれは司法試験を受けようと決意し、早稲田大学法学部に進学する。大学生活でも健康に万全の自信をもてなかった岡田さんは、どのサークルにも学生運動にも参加しなかった。その代わり大江健三郎・サルトル等色々な本を読み、映画や芝居にもどれだけ通ったか分からないほど通ったと言う。
大学生活は、なにごとにも参加しきれず、一歩引いて見つめる日々だったので「見てばかりで飛べない自分というイメージ。あまり楽しくなかった」と当時を振り返る。
司法試験に26歳で合格。研修所に入り青年法律家協会に出会い、川崎公害、水俣病、労働事件等々さまざまな活動に飛び込んでいった岡田さん。
弁護士としての活躍が始まるのは、これら司法修習生の活動を通じ、社会のひどい実態に生で触れていったからだった。
(平成16年5月1日号広報たまな)