<鳥インフル>ヒトへの感染しやすく変異 国立感染研が確認
毎日新聞 4月3日(水)12時58分配信
中国で鳥インフルエンザウイルス(H7N9型)の感染者7人が確認された問題で、
国立感染症研究所の分析で、
ウイルスがヒトへ感染しやすく変異していることが確認された。
今回のウイルスを分析した国立感染症研究所の田代真人・
インフルエンザウイルス研究センター長によると、
ウイルスはヒトに感染できるように変異し、哺乳類の体内で増殖しやすくなっていたという。
田代センター長は、ヒトからヒトへの感染は確認されていないが、
上海市のケースでは可能性が否定できないとの見方を示す。
東北大の押谷仁教授(ウイルス学)は、
ウイルスに大きな変化が起きた可能性を懸念し、
「ヒトからヒトへの感染の危険性が増していると考えることもできる。
その場合、大きな被害をもたらす可能性はあり、かなり注意が必要だ」としている。
【藤野基文】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
インフルエンザが豚を媒介して人間に感染する可能性に
以前は触れたこともありますが
鳥→豚→人 ルートでも感染者が出てくる可能性もありますし
それ以前に今回のH7N9型が
以前の鳥インフルエンザウイルスの代わりに
開発された可能性も捨てがたく
今後の感染拡大には警戒を要したいと思います。
偶然なの以前の新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)同様に
春先なのに感染拡大というのであれば
これも自然現象とは思えない話です。
インフルエンザウイルスが拡大するのは
空気が乾燥しだす秋から冬場という
従来の常識を再び覆す事になるからです。
と言うことで人為的感染の可能性を危惧して
皆で警戒を呼びかけたいですね。
感染者二人追加で9人となり
死者3名と言いますから高い致死率となっています。
私の過去記事リンクです。
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/e2e574cbd3f879dfd160acecd75453c8
医療・ウイルス・インフルエンザリンク
闇政府が4月22日付けで更なる偽宇宙人詐欺を計画中。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
サナンダ3/17,2013:限りない創造主の愛と豊かさを分かち合う時
4月12日は銀河系、アセンディドマスター
天使と多くの次元の光の領域の者たちの集会の日で、
この日に皆が集まって、
ディスクロージャーを起こらせる磁気のバブルを創りだす
エネルギーの大量の流入を地上に定着させます。
この変化を通して、高次元の光の存在たちは
映画シリウスの公開と市民公聴会の成功を支援します。
4月22日にドキュメンタリー・シリウスが公開されます。
4月29日からワシントンDCで1週間にわたって市民公聴会が開催されます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここに出てくるサナンダとは一体何者なのか?
銀河連邦太陽系方面の指揮官であり
イエスキリストの生まれ代わりだそうです(苦笑)。
ニューエイジといわれる
フリーメーソン系の思想の救世主の一人です。
何が腹立たしいかと言えば、
50年前には本物のイエスの転生が
太陽系のスペースブラザーズとして極秘に?やってきていたのに
それを追出し締め出しておいて
今度は闇政府の人間達がイエスの転生を
自分達の手で作り上げてしまっていることです。
偽の黙示録の社会の中の偽の救世主登場。
何から何まで嘘だらけのこの社会は
やってはいけない事をとうとう実行するのです。
これで太陽系の兄弟達、真の救世主達の登場は
完全に阻まれる事になると思います。
このサナンダ、地球社会の価値観に照らせば
とても受けが良いと思います。
白人系の美形で目が青く、
そして2000年前のイエスキリストの風貌をも
真似ているからです。
視覚を持って騙されるこの社会の人間達が
心を持って好み受け入れるであろう事も想像できます。
何事も見た目や上辺を作ろうこの社会の実態を
そのまま象徴しているようなものです。
仏教徒様には”マイトレーヤ”が準備してあるようですし
地球社会が宇宙の法則へと転換していくつもりがないことも判ります。
(日本には既にブッタの転生を自称する人間もいましたね)
これがエゴを暴走させた人間達の末期状態なのかもしれません。
似たような意識を持って、もしくは思考能力がなくて
更には既存の誤った価値観を持っているゆえに
そんな偽救世主達に騙されている人間達を
私達は救う術もありません。
私達にとってのイエスの転生はオーソンさん。
サナンダの話は、聖書のイエスの言葉で言えば
”偽キリスト登場”でしょうね。
残念です。
----------------------------------------------------------------
イエスの時代にヘブライ社会を管理支配していた
ユダヤ教パリサイ派長老会サンヘドリンとその傀儡と化した人間達
更にはそれに利用されていた律法学者達の意識が、
そっくりそのまま現代社会の仕組みの大元となっている事を私は指摘しています。
自分達を美化し、他人の粗探しに余念なく、
自分達の非を一切認めることなく責任を他人に押し付けて生きていた人間達。
上辺の姿や形式ごとを重視し、事の本質を無視しては
独自の戒律を作り上げ一般市民に守らせてきた人間達。
税法や経済や金融のすべては彼らが作りあげてきたものですし
その根底にある意識は2000年前の
サンヘドリンの時代のものと何ら変わるものではありません。
思考は常に自己視線で、
すべての想いは心のエゴから出しながらも
一方では自分を尊敬させるために
心にもない事を言ったり行ったりしては
人々の信頼を集めていた偽善者達。
現代社会の中でよりよく生きる事を約束された
ユダヤの傀儡と化した人間や
この社会の支配者層の人間達が、
そっくそのまま彼ら同様の意識を持って生きている事を理解すれば
当時のイエスキリストが長老会の傀儡達を批判していた内容が、
そっくりそのままこの社会にも
当てはまると言うことを認識してください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そのとき、イエスは群集と弟子たちに話をして、こう言われた。
「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。
けれども、彼らの行いをまねてはいけません。
彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
モーセの座と言うのは市民を従え
戒律を与えそれをまとめていく立場の事だと思います。
モーセの亡き後、そして人格神が身近から消えた後に、
彼らに変わって国民管理をする立場になった人間達は
その権力を人間支配だけではなくて独自の富の創出にも利用し始めた。。。
そして神への信仰や、人としてあるべき姿を求めるのではなくて
人格神がやっていた通りの、
国民を管理支配し自分にとって都合の良い社会を作り上げることを
神に変わって実行していたのだと理解できます。
当時の社会を支配し管理する立場にあったのが律法学者やパリサイ人。
イエスは例えどんな人間がその社会を支配していても
彼らが作り上げた法律は守らなければいけないと
信者達をたしなめていたのだと思います。
それは正しいから実行するのではなくて
社会秩序として与えられているのですし、
それを破る事で無法者とされれば
イエスの使徒と言えども責め立てられる理由になり
彼らを批判する以前に悪人扱いされる事にも繋がるからです。
そして悪人の言葉など一般市民は耳を貸すこともないでしょう。
それではイエスの教えを福音する事も出来なくなります。
この社会の中も同じだと思います。
偽善者達が自分達にとって都合の良い法律を作りあげて
それを大衆に守らせていると言う実態があり
法規が国民のためにではなくて
特定の人間達のためにこそ利用されていますが
それを表立って破ると自らが犯罪者とされ
偽善者達の偽善行為を指摘する立場ではなくなってもしまいます。
悪法であろうが、それを受け入れて
取り敢えずは人的戒律においても私達は罪人であってはいけない。
しかし彼らの様な人間の行動を
私達が模倣するような事があってもいけないのです。
その人間達は口では奇麗事を語っていても
行動も心の想いもそれには伴っていないからです。
ユダヤ傀儡達は自分達が正義や平和を実践しているように主張し
それで自分達の行動を正当化してもいます。
しかし彼らは現実には分割を進め、争いを推奨し、
人間同士に殺し合いをさせている事は言うまでもありません。
創造主の予定には存在し得ない”戦い”はおろか
彼らは”殺し合い”までも正当化し美化する人間達です。
私達は人としての心のあり方こそが大切で、
良き想いを持ってそれを実行する事を求めていたイエスにとっては
心の中や口先と行動が異なり、
しかも表立ってのきれいな立ち振る舞いも
実は自分を美化するためであると言う人間達の偽善性は
忌まわしいものだった事が判ります。
そして今私達はそれを身をもって実感しているはずです。
この世の権力者階級・金持ち階級ほど
その偽善性を強く持っているからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、
自分はそれに指一本さわろうとはしません。
彼らのしていることはみな、人に見せるためです。
経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
また、宴会の上座や会堂での上座が大好きで、
広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりする事が好きです。
しかし、貴方がたは先生と呼ばれてはいけません。
貴方がたの教師はただ一人しかなく、貴方がたは皆兄弟だからです。
貴方がたは地上の誰かを、我らの父と呼んではいけません。
貴方がたの父はただ一人、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。貴方がたの師はただ一人、キリストだからです。
貴方がたのうちの一番偉大な者は、貴方がたに仕える人でなければなりません。
誰でも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
例えば増税、そして公共料金の値上げ、
そんなものはお金を大量に持っている人間達にとっては何の負担にもなりませんが
一般市民にしてみれば背中に重い荷物を背負わされる行為です。
彼らは口では
「国民の皆さんのご協力を」とか
「痛みを分かち合ってください」と語りますが
現実に痛みを受けるのは貧しい国民であって
彼ら特権階級ユダヤ傀儡達は痛くも痒くもありませんし
それは負担にもならないものです。
私達に重い荷を背負わせて彼らは自分では
何の負担も感じてはいない事になります。
そしてユダヤの傀儡、もしくはその意識を受け継いでいる人間は
人目を意識しては自分達を取り繕います。
心の本音を隠して建前を語り、時には偽りをも使用しては自分達を美化し、
見た目も着飾って更には社会的地位としての立派な肩書きを持つことで
視覚に囚われ肩書きに囚われ、
それに重きを置いている私達を欺いているわけです。
そして彼らは心のエゴの通り
自分達を奉られたり褒め称えられるのが好きです。
社会の中でもより高い地位や名誉を受ける事を好むでしょうし
その権威や権力にふさわしい?振る舞いをして見せてもいるのだと思います。
馬鹿な私達がそんな権威に頭を下げる事で
彼はますます偉くなる事を心地良く受け止め
特権階級であり続ける事を願う事にもなるでしょう。
そしてそんな人間達は得てして権力は持ちたがりますが
責任からは逃れようとします。
功績や名誉は自分の物にしては、責任は他人へと転化するのです。
他の人間と比べて特別な計らいをされる事を喜び
そう扱ってくれる人間には利益をも与えてくれるかもしれません。
彼らは人の上に奉られて神のごとく賛美される事が好きなのであって
多くの責任を背負わされる事を望んでいるわけではないのです。
しかしイエスキリストは言っています。
誰もの下に使えて誰にでも奉仕する人間こそが偉大なのだと。
しかしこの社会はそうではありません。
権力を持っている人間が、持っていない人間から
褒めたたえられ奉仕される事こそが正しいからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。
おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。
自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。
わざわいだ。律法の専門家たち。
おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、
入ろうとする人々をも妨げたのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これらのイエスの言葉からは、パリサイ派や律法学者達が
単に偽善を実行していると言うだけではなくて
彼らの行動が、結果的に多くの人間が創造主の方へと導かれることを
妨げているのだと言う想いが伝わってきます。
彼らは私達の行動を戒律をもって規制しました。
しかもその戒律は彼らの価値観で作り上げた人間の戒律であり
神の戒律ではありません。
つまりその戒律を作り上げたのは人間の心の価値観です。
しかもこのような戒律が人間の特定の行動のみを悪と規制したために
今度は「法律に規制されていない事は罪ではないからしても良いのだ」
という意識をも導く事になります。
その結果、私達は自分達の良心や魂の想いではなくて
この人間の作り上げた法規を意識して行動する事にもなるのです。
結果、私達は魂に従うのではなくて心に囚われる事にもなりました。
私達は創造主の意識からかけ離れ
永遠の命から遠ざかることになるのです。
パウロの言っていた”罪と死の原則”です。
もしも私達の戒律が魂に従ったものであり
「他人に危害を加える行為をしてはいけない」
と言うものであれば
人間同士の間の犯罪行為は激減する事にもなります。
しかし彼らの作りあげてきた戒律は
「他人を殺してはいけない」「他人に暴力を振るってはいけない」
「他人から盗んではいけない」「他人から騙し取ってはいけない」
と言ったものを事細かに規制しては
結果あちこちに抜け道ができる事にもなります。
私達は”心の戒律”一つで規制できるものを
人間の価値観に基づいた数多くの律法で規制され
規制されていないことはしても良いのだという意識に囚われることにもなります。
そのため人間の作りあげた法規は
一方で抜け道を沢山作り上げては
犯罪意識や犯罪が入り込む隙を作り上げてもいます。
しかもその律法のよりどころが
人が人としてあるために大切な魂からの意識ではなくて
心のエゴの持っている価値観が中心です。
人の心の心地よさを守るためにこそ
法律は存在していると言っても過言ではありません。
その結果私達は魂ではなくて
心にこそ囚われる事にもなるのです。
心に囚われている人間が、天国(記憶を持っての転生、永遠の命)へと
進む事ができないのは私達の理解どおりです。
私達が知識とすべきは律法学者や人間の作りあげたものではなくて
本当であれば魂からの情報と言う事にもなります。
しかし心を持って作り上げた戒律や知識を与えられる事で
私達は魂からの情報を意識する事もできなくなっています。
彼らは私達からキリスト(真理)としての知識を奪ったのだと
イエスは言っているのです。
他人の迷惑となる行為(他人のエゴではなくて人間として当然の道徳に照らして)
はしてはいけないと言う心の戒律を一つ持てば
後の時代になってあらゆる権利が派生しようとも、
複雑な権利関係が派生しようとも
それを一つ一つ規制する必要もないのです。
規制する必要が出てくるのは
私達が心の戒律を守っているのではなくて
人間の価値観で作りあげた戒律を守っているためです。
そして個々の人間が共通した意識をもてない為に
それを調停する必要が出てくることにもなります。
裁判と訴訟の多さは
私達が魂の意識を共有できていないことの
弊害だともいえます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。
おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、
改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ユダヤ教徒やその上の人間達の実態こそ見えませんが
ユダヤに騙され、そしてその傀儡に騙され、
心に囚われタルムード意識を持った人間達は
イエスがサタンの会派と読んだ人間達よりも
遥かに悪魔的に見えるから不思議です。
サタンの会派は独自には権力も名誉もお金も十分に持っていて
表立っては平穏でいられるけれども
末端の人間は人間の欲やエゴをむき出しにしなければ
生きていけないからなのかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。
おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、
律法の中でははるかに重要なもの、
正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。
これこそしなければならないことです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
イエスキリストの話からも判るのは
創造主の法=宇宙の法則にとって大切なのは
形式ではなくて実質であると言う事です。
人格神時代からの慣習として続いていたであろう
「富の一部を神に捧げる」というその習慣や
「安息日を設けてその日には何もしない」と言う習慣を重視して
一方では人としての心のあり方を省みなかったのがこの人間達。
そして今のこの人間社会もまさにそれに踏襲しています。
創造主の法の下、重視されるべきは
万物への慈しみや他人への思いやりですが
ユダヤ教的意識の元では大切なのは何事も形式でありみせかけです。
人の生活を向上させ、人間社会を改善するものが法律ならば
それは人間のためにこそ存在しなければなりません。
しかしこの社会はあべこべで
人間は法律の範囲でこそ救済される事になります。
人間のために法律が存在しているのではなくて
人間の行動を管理・制約するためにまず決め事があるのです。
例えば役所にも警察にも決め事が存在していて、
それを守らなければ届けも証明も受けつけてはもらえません。
聖書のイエスのエピソードにあったように
困った人間がいたとしても、この社会にはルールがあるから、
その日が安息日だからそれを助けてはいけないと言う
あべこべな話にもなってきます。
安息日を守ると言う戒律の実質的な意味は
今現在どのように存在しているのでしょうか。
私達は慣れ親しんだ人間の習慣と心の価値観を
戒律として持たされている存在です。
イエスがここでパリサイ派に語ったように
彼らは習慣やしきたりや先人の作り上げて来た戒律は守ります。
そしてパリサイ派の傀儡たちも同様です。
法律で罪と規制されている事を堂々としてくる人間は殆どいません。
しかし彼らは実質的に戒律を破り続けています。
私達が神の分身であるために、心が本来持つべき戒律をです。
パリサイ人が10分の1収めて、自分達を義としているその姿は
十分にお金を持っているから
税金もしっかり払うことが出来ているし犯罪も犯していない、
だから自分達は義人なのだと開き直っている
ユダヤの傀儡達の意識にも繋がると思います。
イエスキリストは
「神は哀れみは好むが生贄は好まない」
と言う言葉を引用していました。
実際の聖書の記述では
「神は誠実を好むが生贄は好まない」とありました。
勿論、趣旨はどちらも同じで、
創造主が私達に求めているのは
自分に対して貢物や生贄を差し出す行為ではなくて
「神は私達が魂からの神の想いに従順に従って生きる事を好む」
事だと認識できます。
しかしその逆を行っているのが、
ユダヤ教パリサイ派長老会サンヘドリンと
その影響を強く受けているこの社会のユダヤ関連の人間達です。
人としての誤った価値観や質の伴わない形式ごとばかりを重視し
私達の心のあり方として持つべき意識をおざなりにしている
しかしそれがまかり通り
悪い事ではないと認識されているのがこの社会。
そんな社会が一体どれだけ
創造主の法からかけ離れているか想像がつくかと思います。
こんな時だからこそ、私達はこのおぞましい社会の中で
数少ない心ある人間のために創造主の法を伝えなければなりません。
私達はイエスが神の国へと入るための方法を
提示してくれていた事を知っていますし、その方法も知っています。
ただ、この社会の多くの人間は
その意味を正しく理解できてはいないと思います。
今や”イエスの教え”は
それを知っていて更に「イエスが神の子である事」を信じる人間達が、
「自分は天国に行くことが出来る」
と自らを納得させるためのものへと変貌しています。
罪を犯し誤った心の想いを持ちながら
それをそのまま放置しながら何の改善もする事なくても
「自分達はイエスの教えを知っていて
イエスが神だと信じているから自分は天国にいけるのだ」と
自分に言い聞かせているのです。
キリスト教に限らず、今の時代
殆どの宗教がそれに準じていると思います。
自分達が信じてやっていること、
そしてその持っている価値観は正しいものだから
だから自分は天国にいけるのだとです。
彼らは無自覚のうちに自分達にとって都合の良い神を作りあげ
自分達にとって都合の良い教えを作り上げ
それを正しいと信じることで自分達の生き方を正当化し続けています。
分割し、争い、戦い憎しみ合いながらです。
そして自分達がこの社会を地獄に変貌し続けていることをも
いまだ理解できていないのです。
私達はそんなこの社会の実態を客観的に眺める事も出来ます。
そして心ある人間に対して真理の欠片を提示することも出来るはずです。
私達がイエスが”天の国”と言っていた場所に生まれ変わるには
私達がこの社会の中でその肉体を持った状態で
一旦生まれ変わらなければなりません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。
「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。
もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。
「まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。】
ここでのイエスの例えは当時ヨハネが信者に対して与えていた
水を使ってのバプテスマの事であり、
自らが行っていて精霊によるバプテスマの事だと思います。
パプテスマは、それを受けたからと言って
ある日突然人が変貌し神の信託を受ける事が出来るなどと言う
便利なものではありません。
自分は創造主の意志に従って生きる事を選択したと言うことを
自らに実感させ、公にはそれを公表する儀式のようなもので
実質的な救いではないのです。
しかし、それを受けた人間は
その時から創造主を意識して生きる事になるはずです。
過去の自分の生き方を悔い改め、
そして創造主の求める人間であろうと勤める事になります。
パブテスマのヨハネの実行していたのは
水によるバプテスマでした。
イエスキリストはそんなヨハネの行為を尊重して見せた上で、
自分の実行している精霊のバプテスマの存在にも触れています。
イエスの実行した”精霊のバプテスマ”は
言うまでもなく私達の魂に対して神の意識を注ぎ込む、
つまりは私達が魂を通して創造主の意志を
受け止める機会を設けると言うものだと思います。
もちろんそれを効果的に演じて見せたのは
天使達のテレパシーではないかと思います。
私達は容易に創造主の意識を受け止める資質はないからです。
一方ではイエスは12使徒や身近な人間には
”イエスの奥義”と言うことで
私達が魂を感じそこから創造主の想いを表現する
そんな手法を与えたはずです。
それを実践して見せていたのが
新約聖書でも多くの手紙が残されているパウロです。
イエスの与えてくれたその奥義は
私達が理解して実践している生命の科学=宇宙の法則
そのものです。
魂が受け止めた意識の賜物の一つである
預言(神の信託・神の意志)を口で語り
表現し続けたのがパウロです。
パウロは御霊からはあらゆる賜物を受け止める事が出来ると言っていました。
それは神の知恵であり、神の意識であり
アカシックレコードのあらゆる記憶であり
そして時には未知能力であり
さらには預言や異言でした。
この世界の創造以前から存在していた
神の意志や知恵や知識という表現をもしていたはずです。
全ては魂を通じて受け止め私達が表する事になる
創造主の想いでありエネルギーです。
その想いとエネルギーこそが私達が精霊と呼んでいるもの。
精霊と表現されているものは私達が
受け止めている想念と表現することも出来ます。
「地上からの霊ではなくて精霊を受け止める」
という表現であれば
「地上の人間の想念ではなくて神の意識を受け止める」
と解釈することが出来ます。
そしてその精霊は時として神の意志に代わって
天空でイエスを見舞っていたであろう天使達から
与えれらる事にもなったはずです。
テレパシーという形でです。
そして魂の実態を理解し
そこからの意識に従って生きる様になった時
私達は生まれ変わった事になるのです。
イエスが聖書で触れていた父の元に返ると言う意味。。。
放蕩息子が自分の行動を悔い改め、
そして謙虚な気持ちを持って父の元に戻ったと言うのは
私達が心のエゴを持って生きる事をやめて
創造主の意識に従って生きる事を選択する事の例えです。
私達は三次元と四次元に同時に存在しています。
そして肉体としての三次元の体と
霊魂としての四次元の体を持っているのだという事を
パウロも繰り返し表現していたはずです。
私達は通常三次元の体の実態しか気がついておらず
意識も心=脳機能にばかり向けています。
しかし私達が四次元的な実態としての自分達の魂の意識と
それが創造主の意識に繋がっている事に気がつき
それを意識して行き始めることで私達は生き返る事になるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私達は朽ち果てるものとして生まれ
朽ちないものに蘇る
卑しいものとして撒かれ、栄光のあるものとして蘇らされ
弱いものとして撒かれ、強いものに蘇らされ
血肉の体で撒かれ、御霊に属する体に蘇らされる。
血肉の体あるのですから、御霊の体もあるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
パウロは私達の肉体と魂の実態を
このように表現しては取り上げていました。
そしてここでも私達は肉体から御霊の体
肉の想いから御霊の想いへと
私達が変わっていかねばならない事を取り上げていたはずです。
そしてイエスの与える精霊のバプテスマは
それを意識する事が出来るようになるきっかけでもあります。
イエスはそれを信奉者達に与えていたのです。
私達は死んで霊魂になって、その時に独自の意識を持つのではありません。
私達は常に肉体と霊魂が一体となって存在し続けるからです。
しかも私達が霊魂と呼んでいるものは最初から独自の意識を持っているのです。
そしてその想いは創造主の想い。
私達の肉体は創造主の意志を表現するための器に過ぎません
そしてパウロは表現していました。
私達の肉体を”創造主の魂の神殿である”とです。
誰もが持っている創造主の意識、
私達の魂は創造主の残留思念の分身なのですから
私達は誰もが神の子で、
それはイエスにしても例外ではなかったのです。
そしてイエスはその神の意識を
肉体を持って表現する術を知っていました。
それも私達には真似の出来ないレベルでです。
私達は自分の実態を知って、本来在るべき生き方に戻った時にこそ
イエスの言っていた生まれ変わったと言う事になるのだと想います。
私達は、想いと意識を心へと執着させるサタンの教えから脱却し
本来あるべき創造主の子へと戻らねばならないのです。
そして私達はその時に天の国に入るための
きっかけを得るのです。
私の兄弟姉妹と理解者は
残り少ないかもしれない時間の中で
無理のない程度の広報をしていってください。
私達はこの社会の中の数少ない小さなキリスト(真理)です。
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11340819315.html
イエスの教え
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11341663439.html
イエスの教え VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11350189539.html
イエスの教え VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11351112817.html
イエスの教え VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11353060641.html
イエスの教え VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11354468175.html
イエスの教え VOL6
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11440718163.html
イエスの教え VOL7
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11441409335.html
イエスの教え VOL8
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11442143277.html
イエスの教え VOL9
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11442568204.html
イエスの教え VOL10
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11443375918.html
イエスの教え VOL11
気になるキーワード