※ ”大石寺誹謗”に血道上げ、己の正しさ示せない”空洞化”創価学会。
昨日は恒例の連合会総会が御山で執り行われました。
参加人数3万とのことで、けっして驚くべき数字ではありませんが、年々増えていることは手に取るようにわかります。
下足は置き場もなく、明らかに去年よりも人が多いのがわかります。
学会員を名乗る人たちから、「とにかく大石寺に行きたいのです」というお便りが、とみに増えてきたなと思っていた矢先のことなので、法華講員の盛る誠心が、宗内外に染み渡る姿かと感慨もひとしおの春季総登山でした。
ごった返す中新来者の方々の勧誡式などの段取りはいきおい時間との戦いとなり、その活気を肌に感じ、また何よりも大石寺の清浄な空気に触れ、新入信の方々の意気もいやおうにも上がり、希望に満ちて”次”を期待する活気に満ちたムードに包まれます。
そこで改めて思うのは、創価の十八番、”デマ報道”です。
なぜウソを言うのか、会員にウソを教えて、心は痛まないのか、いかにも理解に苦しみますが、個人レベルでも、頼みもしないのにウソデタラメ、破綻した理屈を並べ立てる輩が散見されます。
その中に、聖教新聞の「寸鉄」に頻繁に見られた「大石寺は凋落」の文字があります。
「大石寺は凋落」は真っ赤な嘘という法華講側の反論が高まり、会内にも影響を与えたということなのか、そうでなくても見ればわかることですから、「ウソを書いていいのか」という会内の批判を浴びたためなのか、「大石寺は凋落」の文字が、あるときから見えなくなったのですね。
ずいぶんと弱気な印象を受けます。
「結局ウソだったと認めるのか」と、真実を知る人ならば誰しも思うでしょう。
しかるに性懲りもなくそれに伴って、「登山は強制的にさせられている」、「講員からも不満が続出」、「要らぬ法要を次々に打ち出し供養を強要。末寺の坊主からも不満爆発」といった、”内情暴露”を装った論調にシフトして見せます。
言うまでもなくこれもまた真っ赤なウソ。
自分らの実情を、”主語”を変えて言い換えているに過ぎません。
まるで落語の与太郎の口上です。
ただ、”一見するだけでは見えないこと”であるため、検証が難しいので、反論の効果が薄いのです。
結局浅知恵に過ぎないとは言え、会員も魔に頭をおかしくされているため、むしろ奏功します。
「ファミリー支配に坊主の不満爆発」などの論調も同様で、猊下というお立場にある方の親族であるという誇りと使命感から、人一倍の修身をなさり実力が認められるだけのこと。
博正とはわけが違うのです。
嫌いな人間のことは悪く見、悪く言いたくなるもの。
ところがもっと大事なこと、自分たちはこんなに御聖訓に忠実で、こんなに功徳を頂いて、こんなに歓喜に満ち、こんなに幸福ですということは、なぜかあまり声を大にしては言えないのです。
一応言葉は繕ってみても、どこか説得力に乏しい。
聖教の体験談などはおよそこの類です。
いちばん重要と思えることは、「御聖訓に忠実」かどうかという点です。
ここを外しては、どこまで行っても人間レベルのあいまいな正邪論、幸福論にならざるを得ませんが、話がこの程度以上になると、そもそも知能がついてこない人が、学会にはとても多いのです。
しかしそんな人たちにもわかるであろう話として、前述の単純な私の感想があります。
「強制登山に不満爆発、信徒を人間扱いしない姿勢に脱講者続出」ならば、なぜ我も我もと安くない交通費を払って参加者が膨れ上がっているのでしょうか、ということです。
「同じ人間が何回も登山させられ数合わせ」と言いますが、登山は好き好んで何回もするのが普通の信徒の姿です。
1回の登山に同じ人間を複数人としてカウントするなら話は別ですが、1回の登山ごとに一人は1人です。当たり前の話です。
破前のあなたたちはそうではなかったのか、という単純な話です。
またそもそも、猊下を否定することは大聖人を否定することです。
猊下というお方を私たちは、大聖人がお定めになられた「日興が嫡々付法の総貫首」と仰ぐわけですが、それを否定し、かつ”本物の猊下”を示せない以上、大聖人の御遺命は潰えたと言っているのに等しいわけですから、大聖人の仏法はここでお仕舞いです。
遺誡置文の「時の貫首たりと雖も仏法に違背して己義を構へたるときは、これを用うべからざる事」の御文を、「己義を構えるような貫首のいうことをきいてはならない」と曲解して見せます。
これも創価十八番の”切り文”で、これに続く「貫首これを摧くべき事」のくだりとの対比で読むべき所です。
つまり、「貫首」が構える「己義」を用いてはならないというだけのことで、貫首ほどの御方が己義を本気で構えるわけがないという含意があります。
このことは、第66世日亨上人も同様の御指南をなさっておいでです。
平たく言えば、貫首はあくまでも尊ばれるべきお方であるという義が根底にあるのであって、そのお方のお説きになる「己義」は、いい間違えとかお勘違いであるから聞き流しなさい、というほどの意です。
「用いるな」は文字通りの解釈でよいのです。
さらに、それに対比する動詞としての「摧く」が見えてきます。
創価の解釈は、「用いない」と「摧く」を同義に捉える無理なものです。
その解釈の根底には、猊下を人間化し、自分と同じ愚かな人間と見下しまたは同一化する誤った意識があります。
そもそも、猊下が「己義を構えた」ことを明確に示すご発言は一つも見つかりません。
見つかるのは、「これは強調しようとなさるあまり誤解を招きかねないおっしゃりようになっているな」という程度のものがせいぜいです。
要するに、創価学会は、池田教祖の暴走により破門になってしまったため、その立場を正当化するために、その裁定をお下しあそばされた猊下を否定するしか活路はないと考えるほかになかったのです。
そのために、今まで池田自らも「猊下は大聖人」と指導していた自語をたがえるほかになかったという、苦しい苦しい事情があるのです。
さらに苦しいことに、今までの正宗の教義を完全に捨て去ることはできなかった。
そしてニセ本尊までも作る羽目になったわけです。
いっそ「池田大作」の署名のある本尊を作ればよかったのに、それじゃあ会員は納得しないと。
なんだ案外小物じゃねえか。
古くは52年教義逸脱路線、そして破門、さらにはニセ本尊発行、これらのタイミングで憤然と脱会した方々のことを、今の学会員さんがたは、よくよく考えてみていただきたいのです。
猊下を否定しようなど、浅ましいにもほどがあります。
己を改めるほかに、それこそ活路はなかったのです。
そうでないと言うなら、それはどこまでも大聖人否定の宗教になります。
蛇足になりますが、自分で見て確かめてもいないことを信じ込んだら、失敗したとき後悔します。
そこまで面倒くさがりか、試みてもすでに頭をやられて判断不能なら、言いたくありませんが辛く長い時を経て、浮かぶ道しかありませんよ。
さらに誤解を恐れずに言えば、そういう手合いはまだまだ”ヒヨッ子”だと思います。
私のいのちがときどき叫ぶのです。
「あの地獄にだけはもう二度と行きたくない」と。
つまり、地獄を眼前にして飄々とする脳天気は、”まだ火の熱さを知らない赤子”の性情です。
だから眷属と思える同志には、私は心の中でこうつぶやきます。
「あんたもよくよく懲りた口か」とねぇ・・・。
2013年4月1日
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