われわれの得た結論はこうだ。
教諭(50)は、部員の競技力アップ、人間性の向上を願って、指導に取り組んだ。
その先に全国での活躍を通じて、学校や地域の誇りとなる壮大な夢を抱いた。
だが、夢が1つずつ実現し、高みに向かう過程で、教諭の指導に軋(きし)みが出始める。
部員たちに人間的な尊厳を認めることを忘れ、勝つこと、好記録を出させることが指導の中心になっていく。
競技力と人間性は、本来は別々のもの、というより人間性は簡単に計測できるものではない。
しかし、教諭のなかで競技力と人間性は表裏一体のものとなっていく。部員たちの人間性は、「素直」「ひたむき」などの単純な要素に還元され、競技力を支える精神力に変質していく。
われわれは、最大の悲劇は教諭と部員たちの間で、本当の意味での信頼が失われていったことだと考える。
部員たちは、必死になって教諭の求める選手になろうと努めるが、その過程で自主性を押さえつけなければならない。一方の教諭は、本当の姿を見せない部員たちを疑心暗鬼の目でみるようになる。
体罰と暴言は、この不信感のなかで生まれる。なぜなら教諭にとって陸上部は「家族」だからだ。教諭の体罰には、「必死」の思いが込められ、それだけに力と言葉は激しくなる。われわれはこれを「DV」と表現した。
強い愛情と支配欲から生まれる体罰。これは決して豊川工だけの問題ではない。おそらく、強豪といわれる全国の中学、高校の部活動は同じような問題を抱えている。
体罰をなくす抜本的な解決には、指導の根底に部員たちの人間性を尊重することを置くほかないと考える。
尊重を忘れた指導は必ず、歪(ゆが)んだ方向にいく。体罰や暴言を禁止しても、無視という方向に行くだろう。
連載を通じて、われわれも考えさせられた。勝者を賛美し、勝者を地域の宝という視点だけで報道しなかったろうか。反省と忸怩(じくじ)たる思いを込めて連載を終える。
(おわり)
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