豊川工業高校が知多市で開かれた県大会に優勝し、初の全国高校駅伝出場を決めたのは1998(平成10)年11月だった。
1区には県ナンバーワンの石原元晴選手が、6区には後に実業団コニカミノルタの黄金時代を支えた山田紘之選手がいた。優勝タイムは2時間9分55秒。2位の中京大中京に1分16秒差をつける圧勝だった。
監督は当時36歳。初めてつかんだ都大路切符にもおごることなく、「試走で2時間8分台を出して手応えを感じていた」と冷静に振り返り、「優勝は部員32人が力を合わせて勝ち取ったもの。京都では全国の強豪から学ばせてもらえれば」と謙虚に語った。
東三河の高校が県大会を制したのは1950年第1回の新城以来、48年ぶり。
この快挙を心の底からたたえたのは、現在愛知陸協東三河支部の支部長を務め、当時豊橋東高校陸上部顧問だった夏目輝久さん。夏目さんは豊川工の部員たちがコースの試走時に中央分離帯や側溝のごみを拾っているのを目撃し「彼らは自分たちのためだけでなく、他校の選手への思いやりも込めて一生懸命きれいにしていた。あの気持ちがある限り、豊川工時代は続く」と予言した。
男子部員と一緒に清掃活動に励んだ女子は、県大会こそ2位で出場権を逃したが、11月下旬の東海大会で力走して出場権を確保し、男女アベック出場を決めた。
この初出場と前後して、教諭は新城市内の自宅に寄宿舎を建てた。男子も女子も預かれるように工夫した。建設費はすべて自費。長期のローンを組んだ。
奥さんも全面的に協力。朝食、昼弁当、夕食をつくり、栄養面で部員を支えた。
93年4月に豊川工に赴任し、ひなたぼっこをしていた部員たちに「一緒に自分を鍛えよう」と誘って長距離の指導を始めて5年半。豊川工陸上部は陸上界の曙光(しょこう)として一気に輝きを放ち始めた。
だが、この頃から体罰の噂も漏れ聞かれるようになった。なかには「指導」の範疇(はんちゅう)を越えた噂もあった。
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