今帰仁村字天底の山岳(サンタキ)に川上写真館がある。創設者は故川上清永氏(明治三四年生)で昭和9年に大阪から帰郷し、湧川の川竿・仲宗根の旧市場、さらに現在地の山岳に移転してきた。清永氏は大阪で写真の原料をつくる工場に勤め写真の技術は安仁屋という方にならったという。昭和9年沖縄に帰郷して写真館を始めたが、昭和19年になると戦争が厳しくなったので一時写真館をやめた。
戦前は村内に写真館がないため、ほとんど川上写真館によって撮影された。戦後は宮古出身で友利という人が西平医院の隣で写真館を開いていた。川上写真館は戦後昭和23年頃、清永氏から清一(大正15年)氏に引き継がれ、現在に至っている。
写真上は昭和28前の川上写真館前の様子である。まだ、茅葺き屋根の建物で、「川上写真館」「迅速」「丁寧」と書いた看板と写真を貼った掲示板が見える。中央の杖をついているのが川上清永氏、左側の三男の一雄氏である。その頃の写真館は、川上清一氏が継いでおり清永氏は隠居の身であった。三男の一雄氏は最近まで浦添市で写真館を営んでいた。
戦前、写真が写せたのは裕福な家庭であった。そのため、学校の卒業式などの記念写真はよくあるが、風景や施設や個人的なスナップ写真は少ない。自転車に写真機を積み主張撮影することが多かった。たまに二重写しをしてしまい失敗刷ることもあったが、結婚式の撮影で失敗することはほとんどなかったという。
下の写真の子ども二人は、川上稔氏と川上進氏である。川上清一氏は大正15年生まれであるが、今でも現役のカメラマンである。昭和23年に金武町の金城写真館で見習いをし(二ケ年)、その後石川で写真の引き伸ばしの仕事をした後、今帰仁で家業の写真館を継いだ。
50年余り写真に携わってきた川上清一氏は、自転車で屋我地まで主張、撮影以来が夜遅く間でかかり、次の家は間に合わせきれず怒られた等様々な思い出がある。特に「天底小学校五十周年誌」が思い出深いという。写真業界で「一番の転換はモノクロからカラーになったことです」と感慨深く語られる。
92.運天の間切役場(番所)と百按司墓図(1999年6月)
大正五年まで運天に今帰仁間切(村)番所(後の役場)があったことはよく知られている。その割りに番所や役場の様子を描写した記録や写真が究めて少ない。今回は今帰仁間切役場の写真と百按司墓の図の紹介しよう。
菊地幽芳氏が名護を訪れたのは明治39年3月18日。北山城を訪れるため、渡久地村し今泊村へと迂回し、運天村に着いたのは22日である。案内役を勤めたのが今帰仁出身で、当時国頭郡役所の書記をしていた仲村源正氏である。
『琉球と為朝』で運天の役場や百按司墓や為朝について述べている。その一端を揚げると、「われ等の今宵の宿と定めた今帰仁間切役は髑髏塚を後に背負った海岸にある。・・今宵の宿所ほど気に入ったところは無いと思った。・・ 間切役場は湾の奥、船つきの極めて安全なところに建てられてある。・・・役場の建物は昔の番所をそのまま用いているのも嬉しい。役場の前には一列に大きな福樹が数本他に又五本の榕樹が枝を連ねているが、その中三本の榕樹は凄じい大きさのものだ。琉球にはそこそこ随分巨大な榕樹があるが、こんな立派なものは余り類が無い。・・・
この榕樹の外に内地に見馴れぬ枝振りの、45本の熱帯樹古巴梯斯が適宜の間隔を置いて港を守る番兵のやうに立っている」と役場や周辺の様子を記してある。
下は百按司墓の図で、明治39年当時の百按司の第一墓所の様子である。丸太の柱を組み、棟木と8枚の屋根板を置き、屋型である。その中に人骨を入れる木棺が四基置かれ、周辺に頭蓋骨が散乱している。同書に「・・・唐櫃が四基あった。この唐櫃の高さ二尺幅二尺長三尺程の者で、これに黒塗りの古風な脚がついて居る。内地の唐櫃とほぼ同じであるが、ただ蓋がなく、その代わりに破風作り・・・朱塗地に黒塗の桟が細かく打ってあるのが乗って居る」とある。
『琉球と為朝』から一部揚げてみたが、役場や墓などの描写から、運天の歴史や番所を紐とく貴重な史料である。
天底の外田原にあるアミスガーは、ムラの人々が飲料水や生活用水に使っていたカー(湧き水)である。そのアミスガーに淡水産の紅藻が成育くし、シマチスジノリと呼ばれる。シマは島のこと、チスジは血筋(血管)のことで、色と形が血管に似ていることに由来する。また、海産のモズクのことをスヌイとというが、それに似た淡水の藻なのでカースヌイと呼んでいる。アミスガーのシマチスジノリが注目されるようになったのは、大正13年天底校に赴任した大城長二郎訓導(天底出身)が、昭和6年にふとしたきっかけで見つけたノリ(後にシマチスジノリと命名)が学会に報告され、それから注目されるようになった。
その当時、シマチスジノリが貴重な水藻だということが知られていなかったようで、大城長二郎氏は昭和8年『沖縄教育』で報告した「マコウギ液について」で、シマチスジノリについて少し触れている。当時の様子を「変な水藻が生えているよ!」「まったくあれは海藻の様で居て、淡水に生息する変わりものだ」「大昔から絶えないものらしいよ」「食えないものかしら」などと、字の人々の話題にはなっていたようである。井戸浚いがなされる度に、周囲に生えていた水藻(シマチスジノリ)が問題となり、剥ぎ取っていたようである(『創立百周年記念誌・天底小学校』参照)。辛うじて戦後まで残り、昭和30年に県指定の文化財(天然記念物)に指定される。
写真は昭和30年のアミスガーの様子である(新城徳祐氏提供)。「天然記念物 ちすじのり」の標柱があり井戸はトタン屋根が乗せてある。カーへの道や洗濯場は、周辺の人達が飲み水や洗濯用水として利用し、周辺の草がかりとられ、生活の匂いがあり息づいてる。
シマチスジノリの成育条件として、石灰岩地帯できれいな水が湧き出てくることや一定量の水量と日差しを必要とする。昭和54年と55年の調査では、手前の壁面は水面から85センチの所に密生、また奥の壁面は水面から底まで密に生息しているとの報告がなされている。(『今帰仁の文化財 第四集』)。
現在、シマチスジノリの姿が消えかかっている。その理由は、井戸を使わなくなったために水を汲み出さない、周辺の草木が伸びた状態、日光過不足、周辺の土地利用などで湧水の変化など、シマチスジノリの成育に適しない環境になっているのであろう。写真の状態は、シマチスジノリを繁殖させるヒントにでもなろう。
94.今帰仁街道(すくみち)の松並木(1999年8月)
今帰仁村内の街道筋には、かつて松並木が至る所にあった。今でも僅かに残る松の老木は往時の松街道を彷彿させる。今帰仁街道は、宿道(すくみち)とも呼ばれ、かつて首里王府から各番所に達を伝達をする道筋でもあった。
故新城徳祐氏は昭和30年2月に謝名から今泊に至る西側の道沿いの松並木調査を行っている(『新城徳祐氏ノート』・二枚目の写真)。今帰仁街道の松並木を文化財に指定するための予備調査で、その時調査地点は、今帰仁校・馬場・平敷・仲尾次・与那嶺・諸志・兼次・兼次中学校前・今泊・ジャニーで、計410本の松を確認している。その年の9月には「今帰仁村役所」の調査があり、謝名〜今校(90本)、仲原馬場(50本)、平敷〜崎山入口(60本)、仲尾次(30本)、与那嶺(44本)、諸志(3本)、兼次(40本)、親泊(ニークン迄)(22本)、計347本である。
一枚目の写真は兼次中学校の街道沿いの松並木である。昭和30年には兼次校前の松並木は36本もあり、往時の街道筋の松並木の面影をとどめている。
近世から明治、大正にかけて、首里王府(県庁)を起点とした各番所(役場)への道筋は松並木だったのであろう。普天間街道や宜野湾並松、恩納馬場の松並木、美里など旧街道筋にあった松並木の写真を目にすることがある。
二枚目の写真は、昭和32年の仲原馬場である。松の大木が一本倒れているが、フェイ台風で被害にあったものである。フェイ台風は昭和32年9月26日沖縄本島北部を通過し、那覇で瞬間最大風速60メートルを記録、各地で大きな被害がでた。
松並木の後方に見える建物は今帰仁小学校で、昭和30年代に入り。茅葺き校舎からコンクリート校舎になった時期である。左側を歩く小学生はランドセルを背負い、一年生と見られるが裸足で下校である。現在の運動場地は、まだ芋畑や砂糖キビ畑である。
戦後五十年余経ち、スピード優先の時代となって道路も大きく立派になった。しかし蔡温松と名ずけられた松並木に見られる先人達の道に対する政策は、私たちが失ってしまった生活の真の豊かさを教えてくれる思いがする。
95.集落移動の痕跡を示す火神の祠(1999年10月)
今帰仁城跡前方のアタイ原に今帰仁村(ムラ)があった時代がある。今帰仁村の集落が、17世紀初頭アタイ原から城下の海岸沿いに移動していった。1609年の薩摩の琉球侵攻で今帰仁村が焼かれた直後に今帰仁村と志慶真村の移動があった。移動した理由は「場所が良くない故」と記されているが、薩摩軍の今帰仁城焼き打ちが村移動の直接の原因となっているのであろう。
今帰仁村が移動した跡地に今帰仁ノロ火神や阿応利屋恵按司火神、古宇利殿地火神、トモノカネイノロ火神がある。アタイ原の四軒の火神がある場所は、今帰仁ノロやトモノカネノロなどが住んでいた住居跡である。ムラ移動で引っ越した後、故地に祠をつくり火を残し祭る習慣がある。その典型的のが今帰仁城内にある「今帰仁里主所火神」である。それは今帰仁城内で今帰仁按司(山北監守)を勤めた一族の火神の祠である。
1665年まで今帰仁間切総地頭職を勤めた今帰仁按司が首里に引き揚げるが、故地に火神の祠を、首里からやってきて祭を行った。
上の写真はハタイ原にある今帰仁ノロ火神の祠である。赤瓦屋根の建物は傾き、つっかえ棒で支えられ、中には三個セットの火神の石が置かれている。この建物はセメント瓦の建物になっている。今帰仁ノロ家は、現在城下の今泊の集落にある。住居を移動しても故地に祠を作り火神を祭っている。今帰仁ノロは今帰仁城内で行われる海神祭(ウンジャミ)ヲ親泊村、そして志慶真村の祭祀を管轄するノロである。また、今帰仁城内で行われる海神祭(ウンジャミ)を司り、今帰仁村と親泊村、そして志慶真村の祭祀を管轄するノロである。また、今帰仁城内で行われる海神祭(ウンジャミ)や島ウイミなどの祭祀を司る。
二枚目の茅葺きの建物は、トモノカネイノロ火神を祭った祠である。この祠もハタイ原にあり、トモノカネイノロの住居跡と見られる。トモノカネイノロはトゥムヌハーニーと呼ばれ、今帰仁ノロに次ぐ神役である。今では茅葺きからセメント瓦葺きの建物に葺き変えられている。
ムラや集落、ノロが住んでいた住居が移動しても故地に火神の祠を残す習慣がある。350年余りの歳月を経た今日でも祭祀が行われ、故地の火神の祠は移動したムラの歴史の一端を伺わせている。
96.古宇利島の海神祭(ウンジャミ)(1999年11月)
毎年旧盆明け最初の亥の日に行われる古宇利島の海神祭(ウンジャミ)。今年は8月27日に行われた。その頃に行われる祭祀を大折目(ウプユミ)と呼ぶ場合もある。
1713年編纂『琉球国由来記』の郡(古宇利)巫火神と神アシアゲの所に「大折目」と記され、古宇利でも海神祭を大折目と呼び、『由来記』編纂の年代から1713年にはすでに行われていた。海神祭が行われるようになってから、少なくとも300年以上の歴史を持っていることになる。
今回紹介する写真は、1958(昭和33)年の海神祭の場面である。後方に茅葺き屋根の神アサギがあり、アサギナー(アサギの庭)で弓(ヌミ)を持ち、頭にハーブイ(リュウキュウボタンズル)をかぶり、白や色柄(赤の模様)のついた神衣裳を着た神人達が、コの字型に七回往復する。弓(ヌミ)の代わりに植物(ダンチク)を持った神人が一人いるが、その年に新しく神人になった方である。弓に餅を結び、それを落とす所作がある。餅を落とした後に、神人一人ひとりに餅が配られる。弓の先に結ばれた旗はトーシンケージ(唐船旗)と呼ばれ、進貢船が描かれている。それは航海安全を祈願しているのだろうか。
二枚目の写真も同じく1958年の海神祭で、シャチャバアサギでの様子である。アサギナーからフンシヤーに移る。庭先の小さい祠を船首みなし、二本の縄を張り船に見立て、神人達は中で弓で船を漕ぐ仕草をする。次に神道を通りシチャバアサギ(クヮッサヤーグヮの隣)に向かう。座っている三人の男性は男神でフシン神(古宇利春夫氏)、オーギ神、クニヌ神だという。お膳に盛られているのは、神餅やお米やお菓子。それと神酒(泡盛の瓶がある)である。
40年前の古宇利の海神祭の様子を二コマの写真から紹介してみた。当時からすでに神人をしていた古宇利春夫さんや兼次フミさんなど、若い頃の姿が見える。
このように島で生活している人の姿を見ると、人々と島が一体となって歴史を刻んでいることがひしひしと伝わってくる。
▲古宇利島の海神祭(ウンジャミ)(1958年) ▲ヒチャバアサギ男神人達(1958年)
97.今泊の公民館付近の移り変わり(1999年12月)
二枚の写真(故新城徳祐氏提供)は昭和42年の親泊(現在の今泊)のコバテイシ付近である。中央のコバテイシの回りは、木の囲いがめぐらされ文化財に指定されているからであろうか。親泊のムラヤーは、昭和23年の写真を見ると茅葺きの建物であり、「親泊事務所」の看板がかかっている。これ以外の何枚もの写真を見ていると今泊の公民館付近は、意外と動いている。
コバテイシの右手の瓦屋根の建物(上の写真)は、昭和42年の親泊区の公民館である。建物の柱に「今帰仁村字親泊公民館」の看板がそれ以前は茅葺きの建て物であった。当時の公民館の場所は、現在の神アサギと老人クラブの事務所、それに公民館の側を通る道路あたりに位置する。
コバテイシ(フプハサギ)である。ハサギも公民館付近を何度も移動している。神ハサギは茅葺きから瓦葺きに変わり、場所も二転、三転し、現在地に落ち着いたのは昭和48年のことである。昭和36年頃には、子供達が遊ぶすべり台が設置され、その側に神ハサギがあった。
公民館とコバテイシの間に受付の紙があり、後方には紅白の幕や花、それに横断幕が取りつけられた舞台が準備されている。五年回りの豊年祭の準備をしている所である。
コバテイシの後方のトタン屋根の建物(下の写真)は、他の写真では豆腐や雑貨品が並べられ店として使われ「石油」の看板も見え、また、上映中の映画のタイトルも張り出されている。
『今泊誌』から付近の動きを整理すると「トタン屋根の建物は、終戦まもない頃物資配給所を兼ねた青年クラブであった。後に青年クラブは移動し、親泊共同売店として使われた。また、親泊、今帰仁両字の配給所として長い間利用された」とある。豊年祭の為、一時店を閉めているのであろう。入口には、寄付者名簿が張り出されている。
このように、写真はムラの移り変りを見ていくことができる資料であると同時に、記憶をよみがえらしてくれる。瓦葺きやトタン葺きの建物は、必ずしもりっぱとは言いがたいが、当時の時間の流れの緩やかさにほっとさせられる。それは、単に郷愁としてだけでなく、人間の身に染みついた感覚をよみがえらす役目も果たしているのであろう。
98.松並木のある風景(宿道)
松並木のある風景。それは今帰仁村の誇りであり、歴史の中でムラづくりに大きく影響を及ぼしてきた。先輩方は大木の松を「蔡温松」と呼び、現在でもしばしば「本当に蔡温が植えた松なのか」との議論がなされる。このような松並木の大木を「蔡温松」と見る人が多いのは、それだけ蔡温の林政に対する功績が大きかったのであろう。
「蔡温松」と呼ばれる松並木が戦前・戦後と残ってきたのは、松に関する取り締りが近世から厳しかったこともある。近世末の「今帰仁間切各村内法」に山野境へ小松を入念に植え付けさせること」(第二九条)、また「村抱護松の苗を植え付けるべき所は気をつけ、毎年十一月中に植え付けさせること」(第三十条)などの条文がある。
これまで数回年輪の調査をしたが、松の大木の樹齢は二百年前後であり、蔡温の時代より5、60年は若いことが分かる。つまり、現在ある松の大木は蔡温の時代より後に植えられたものである。戦後、各地に松の名所があった。例えば、旧羽地村稲嶺から源河への途中の松並木、本部町謝花小学校にあった五条の松、名護から伊差川に行く途中、「恩納松下の・・・」歌碑の松などである。
上の写真は「今泊から具志堅に至る(今帰仁区)」(1953年)である。撮影したメルビン・ハッキンス氏のメモによると1953.April Nakijin ku Near Imadomari Village. Beautiful Pines, Sea and Sky.(美しい松の木と海と空)とのメモがある。
昭和40年代までかつて本部間切番所と今帰仁間切運天番所をつないだ街道(宿道、スクミチ)沿いには、このような松並木の風景があり、今帰仁街道の面影を残していた。
二枚目の写真は1961年、本部町具志堅と今帰仁の間の街道で、ワイダムン(割った薪)を馬車に積んで渡久地のマチあたりに運んでいる風景であろうこのように馬車が使われるようになったのは明治16年頃からで、それまでは船による海上輸送が主であったが、道路整備なされるに従って増加した(『沖縄タイムス百科』)。トラックはまだ少なく、馬車が薪や砂糖キビの運搬の主役を担っていた頃である。
ガス・電気が普及していなかった昭和30年代、多くの家が薪を焚き付けにしていた。山原だけでなく、マチ方でも買って手に入れるワイダムンを焚き付けとして使える家は比較的裕福であった。
99.平敷と崎山の前田原一帯(2000年12月)
今帰仁村の今泊・与那嶺・崎山・平敷・謝名・仲宗根・湧川の字に「前田原」と呼ばれる小字がある。名の示す通り、水田のあった場所に付けられた地名である。昭和30年代まであった今帰仁村内の水田跡は、前田原や安田原、掟田原などの小字名にその名残を留めている。
上の写真は昭和22年から24年にかけて、崎山のハーラマイアジマー(川回辻)付近から山手の方に向かって崎山と平敷の前田原一帯を撮影したものである(Okinawa lsle of Smiles,William E.Jenkins)。
後方の山は、一番右手の山がハサマ山(標高約252メートル、崎山地番)さらに左側が乙羽岳(標高約275メートル)である。左右に走る直線道路がスクミチ(現在の国道五◯五号線)で、中央部を斜めにいくのがジニンサガーラである。台風や大雨の時に氾濫を起こすことがあった。
ジニンサガーラを挟んで手前が崎山の前田原で、向こう側が平敷の前田原である。因みに国道の向こう側は、平敷の掟田原。平敷掟を勤めた間接役人の役地があったことに因んだ地名であろう。
ジニンサガーラの両側に広がる水田は水が張られ、田植えはこれからだろうか。土地改良が、まだなされておらず、戦前からの曲がった畦道は不便ではあるが風情がある。
下の航空写真は、平成3年の崎山・平敷の前田原一帯である。昭和48年に平敷土地改良事業が着手され、水田から畑地に切り替わり、現在に至る。中央部を「〜」字形に流れているのがジニンサガーラである。川の水をモーターで汲み上げ、現在、キク畑、ビニールハウス(ニガウリ、キュウリなど)、緑化木、砂糖キビなどの潅漑用水として利用されている。国道沿いにガソリンスタンドや民家ができた。
戦後、今帰仁村の土地利用が大きく変わった要因の一つに昭和30年代後半から40年代にかけて、稲作が消えたことがある。水田跡の水はけのいい土地は畑地に切り替わったが、湿地帯はそのまま放置された。昭和40年代になると土地改良事業が進められ、一筆一筆の形が直線的に区画された。土地改良の目的は小規模農地が雑然としている、一筆ごとの面積が少ない、低湿地帯の土地改良をし、生産高を向上させることにあった。
100.戦後間もない頃の民家と教室(最終回:2000年12月)
戦前の今帰仁の人々の家は茅葺き屋根の家が一般的で数多くあった。近世から建築に使う材木の制限があり、また身分(貴族・士族・平民)によって屋敷や屋根の材料などに制限が加えられていた。それが解かれたのは明治22年になってからである。明治になって屋根や建物の制限が解かれたが、地頭代やノロ家などウェーキ(富豪)を除いた多くの人々は、まだ茅葺き屋根の住まいが主で、瓦葺きの建物は番所(役場)や学校などであった。
建物の多くが南側に向き、一般的な住まいは二棟建ての茅葺きである。母屋と炊事場の二棟建てである。母屋と炊事場の間はトタンの雨樋で雨漏りを防いでいた。茅葺き屋根の家は、夏は涼しく冬は暖かったと言う。一番の敵は、やはり台風だったようだ。
一枚目は、戦後数年の村内の民家である。母屋の柱は石柱で、壁は板が用いられている。小さな台所のある棟の壁はチニブと芽で、外にバンドー(水甕)が置かれている。戦後の民家の規模は、近世の制限を踏襲しているものではなく、復興期の建物である。
二枚目の写真は、学校の教室の一棟である。敗戦後、材木や瓦など物資のない時代。テントの仮小屋や茅葺きの教室が使われていた。建物の回りにつっかい棒が何本もあり、倒壊を防いでいるのであろう。ムカデ教室や馬小屋教室などと呼ばれていた。日中は暗く、雨天の日は雨水が入り込み田んぼ状態であったという。
おわりに
平成2年6月にスタートした「写真にみる今帰仁村」は今回で100回(最終回)を数える。その間に180枚の写真を紹介することができた。主なものに風景や神アサギあるいは人々・今帰仁城跡・運天港・役場の建物・人物・古宇利島・仲宗根のマチ・生活・祭祀・塩田・学校・公民館・仲原馬場・上空からみた字(アザ)などである。毎回念頭にあったのは、ムラ・シマは何かという問いと、ムラの移り変りを記録することであった。写真を手掛かりに今帰仁の様々な出来事を一つひとつ拾うことができた。同時に写真が文献史料と同様に時代を写し出していることに気づかされた。
その間、村民から数多くの貴重な写真の提供があった。特にメルビン・ハッキンス氏やクロイド・クリスマン氏や新城徳佑氏から、まとまった写真の寄贈があり、お陰で話題を欠くことなく継続することができた。写真をはじめ、それにまつわる話題の提供、また読者のお力添えがあり、10年間、百回のシリーズを無事に終えることができました。紙面を借りてお礼申し上げます。