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thessalonike5
憲法学のアカデミーの寡黙 - 立憲主義の言説の遠景
先週末、憲法をめぐる問題で二つの事件があった。一つは、3/30に維新の会が初の党大会を開いて
綱領
を採択し、きわめて過激な改憲の主張と目標を入れたことだ。「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押しつけた元凶である占領憲法を大幅に改正する」と狂暴に宣言している。渋谷の駅前の街宣右翼の口調そのままであり、現在は2ちゃんねる等のネット掲示板で右翼が常套句で並べている言葉だ。「右翼が」と言っても、掲示板に書き込んでいるのは右翼ばかりなので、景観としては、この忌まわしい咆哮がネット言論の主流になっている。この暴論にはさすがに朝日も閉口したようで、翌日(3/31)の
社説
で、「これでは平和主義を含む憲法の全面否定であり、とうてい容認できない」と反発の声を返した。一方、読売の
社説
は、「憲法改正への強い意欲はうかがえた。自民党に対抗し得る保守政党に成長できるだろうか」と応じ、朝日とは対照的に歓迎と期待の姿勢を示した。そして、「憲法改正は、参院選の最も大きな争点の一つになる」と言っている。橋下徹や石原慎太郎の挑発に、私のような市井で彼らを拒絶する者が、何か反論して意味があるとも思えず、憤怒と憂鬱を堪えて黙って聞き流すしかないが、「(平和憲法が)日本を孤立と軽蔑の対象に貶め」たという認識は誤りだ。右翼の脳内で通用する論理であって、事実は逆である。
戦後日本に対する世界の尊敬と評価は、平和憲法と、それを原理とした外交努力の実績やそれを基礎とした国民経済の成功によってもたらされたものだ。74年の佐藤栄作のノーベル賞受賞が、まさにその証明となる象徴的な事実であり、この一事を証拠として提示するだけで、右翼維新の出鱈目な主張は簡単に論破されるだろう。本来、朝日はそれを明言しなくてはいけない。もう一つ、先週末に憲法絡みで話題になっていたのは、安倍晋三が3/29の予算委で、憲法学者の芦部信喜の名前を知らないと答弁した
事件
である。安倍晋三の無知蒙昧にネット世論が騒然となり、それに対してネット右翼が必死で安倍晋三を擁護し、「芦部信喜は左翼学者だから知らなくていい」とか、呆れるような虚言暴言を並べて防戦する醜悪な場面があった。最近の右翼のネットでの発言の数々は、日本語の「暴言」の域を超えている。だが、これが削除もされず、規制もされず、有効な反論も受けず、堂々と積み重ねられ、日常の風景として常態化している。「暴言」でなければ何と表現していいのか、そこに言い表す言葉がないから、やむなくそれを「暴言」と呼ばざるを得ず、したがって過去のまともな(という逆説になるが)暴言の数々と同列に括られるために、言語と事象のカテゴリーに変容が起き、われわれの意識が変わるのである。基準が変えられるのだ。強引に、自然に、常識が変えられ、新大久保の
右翼デモ
のような悪夢が現出してしまう。
安倍晋三が芦部信喜の名前を知らなかったことは驚くに当たらない。日本国の首相が芦部信喜の名前を知らないということは、あってはいけない問題である。「知らなくて当然だろう」という
態度
で答弁に及んだ事実は、国会と内閣の汚点として残るだろう。しかし、件の国会中継の映像を見ると、安倍晋三の隣や背後にいる閣僚も、どうやら芦部信喜を知らない様子で呆けた顔をしているし、野党席の議員の表情も、それをとんでもない非常識の露呈として驚いている気配がない。この問題で考えさせられたことは、安倍晋三の知的レベルの低さや傲慢さに呆れるということよりも、逆に、憲法学のビジビリティはどうなのかという点だった。憲法学のアカデミーの活動や所産の情報エントロピーはどうなのか。学者の名前だけでなく、憲法学はそのセオリーやメッセージを実社会によく届けているのか。社会科学として機能し、しかるべく貢献を果たし、有意味な議論を政治過程や法過程に持ち込み、存在意義を人々から認められているのか。芦部信喜が憲法学の重鎮で、標準的学説を総攬している権威であることは間違いないが、その憲法理論がどのようなものか知っている者は少なく、市民が通念を持っているとは言えない。一般からも、政治の世界からも、あまり関心を持たれていない。このことはどういう意味なのか、そちらの方に私は注目する。おそらく、安倍晋三は樋口陽一は知っているだろう。奥平康弘についても、名前だけは、不当なバイアスのかかった表象で覚知しているだろう。
憲法学はどうしてこんなに不活発で冷淡なのだろうと、90年代後半以降、私はずっと不満に思ってきた。90年代前半までは、樋口陽一や奥平康弘を通じて、それなりにメッセージが届いていた感覚がある。だが、憲法学者の言葉が必要になったときに、日本の憲法学は寡黙になり、われわれが言って欲しい直言を発しなくなった。高齢化したのか、存在感が薄くなった。嘗ての憲法学のアカデミーは、最高裁の憲法判断に対して、あるいは内閣法制局長官の国会での憲法解釈に対して、よく口を出し、そこでの議論がマスコミや論壇で注意を喚起し、市民社会の言論空間に憲法の存在が常にあったような印象がある。例えば、ニュースステーションの小林一喜が典型だが、新聞記者が憲法の判例と解釈に詳しく、大学の教室で習ったとおりの文言が報道の解説を埋め、有斐閣の「別冊ジュリスト」の世界がテレビの中に出現していた。それが、90年代を通じてぷっつりと途絶えた。時空を飛ばして現在を見たとき、憲法の議論は決して言論空間の中で小さくなっているわけではない。ただし、今の憲法論というのは、「あれは占領軍の押しつけ憲法」「左翼の憲法だから即刻廃棄すべし」という誹謗中傷や虚言や悪罵の横溢だけで、現行憲法否定論の憲法論で染まっている。橋下徹や安倍晋三の毒々しく不愉快な讒謗と貶下だけがある。条文についても、前文についても、それを積極的な意味で説明したり、国民の権利のために論じる者がいない。左翼的なもののシンボルにされ、不当な決めつけで悪罵されている。
2005年に自民党が
憲法改正案
を出し、憲法論議が盛んになった時期があった。このときよく言われたのは、自民党の新憲法案は立憲主義を否定するものだという批判だった。
小林節
が頻繁に登場し、この説を論じていたのを思い出す。憲法は国家を縛るものだという言説が頻繁にネット上に登場し、憲法は国家が守るもので国民が守るものではないとか、愛国心だの国を守る義務だの、国家が国民に守らせようとする自民党の憲法案は憲法の本質を逸脱しているという批判がなされた。9条ではなく、立憲主義が議論の中心で、立憲主義のエバンジェリズムが行われた時期だったと言える。小林節の説教と並んで、このとき登場したのは枝野幸男で、野党時代の民主党で憲法問題のプロジェクトの座長をやっていた。結局、民主党は憲法問題の態度をはぐらかして曖昧にし、政権交代に驀進するのだが、そのとき曖昧化を正当化する詭弁を吐いていたのが枝野幸男で、枝野幸男もまた立憲主義に焦点を当て、「憲法を守るのは国民ではなく国家」だとしきりに強調していた。小林節と枝野幸男の言説は、当時(2006年頃)のネット世界で、特に左派系のBlogを感化していた記憶がある。それに対して私は抵抗を覚え、主権者である国民が憲法を守らず誰が憲法を守るのかと反論した。憲法を守る主体を国家機関だとして抽象化してしまうと、具体的な人間の認識とか判断とか決定の要素が解消されてしまう。普通に暮らしている市民にとって、憲法などどうでもいい遠い世界の問題になってしまう。
例えば、憲法99条にはこういう
規定
がある。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。誰もが知っている条文だ。今日、国家公務員たる官僚は、この尊重義務を守っているだろうか。国会議員は守っているだろうか。維新の党首と議員は、この憲法を尊重し擁護するどころか、「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押しつけた元凶」などと罵り、憲法を破り捨てようと国民を扇動している。正真正銘の反憲法勢力だ。現在の日本で、99条を忠実に守っているのは天皇だけである。他はすべて憲法否定派で、国家は違憲勢力によって運営され、憲法は額縁に飾られながら無視された紙になり、今では唾を吐かれ石を投げられ、汚い言葉で貶められる対象になった。やはり、2000年代から急に浮上した立憲主義の言説は、憲法と国民を遮断し、憲法と国民が無縁であるかのように刷り込み、国民の関心を憲法から遠ざける目的のイデオロギーだったのではないかと私は疑念を深くする。本来、法律は憲法に従って制定されたものだ。国民が法律を守るということは、法律を守ることを通じて憲法の掲げた理想を実現することを意味するはずで、国民と法律と憲法の三者の関係はそうでなくてはならない。憲法には国民にとっての社会理念が書かれ、理念実現の方法が書かれている。主権者たる国民は、国家機関を実務する個々に憲法の理念と方法を守らせなくてはいけないのであり、それこそが、主権者たる国民が憲法を守るということであるはずなのだ。
「憲法は国家が守るべきもの」の言説は、憲法を守る主体から人格性や身体性を剥ぎ落とし、憲法解釈を国民から切り離して専門家に委ね、そして、国会議員を含めて、本来は憲法の尊重擁護義務を持つ者がその義務から事実上免れるように巧妙に仕組んだ細工ではなかったのか。天皇は「皆さんとともに憲法を守り」と、即位において決意を述べたが、同じ宣誓を内閣総理大臣や最高裁長官や衆参両院議長から聞いたことがない。東大総長が就任に際して言うのを耳にしたことがない。2000年代以降の立憲主義の説得は、その本来の意味を離れて、憲法遵守義務者からその義務を免責する機能を果たしたように私には見える。今、長谷部泰男の岩波新書『憲法とは何か』を読んでいるが、これを読むと、一層その疑いを深くするし、アカデミーの憲法学がどうして寡黙なのか、その謎が解けたような気がする。長谷部泰男の名前も、安倍晋三は知らないだろう。アカデミーでは著名人だが、その理論と教説は一般社会に届いていない。本を開くと、立憲主義とリベラル・デモクラシーが延々とエバンジェライズされている。立憲主義とリベラル・デモクラシーの二つの要素で日本国憲法を定義し、理論づけ、立憲主義とリベラル・デモクラシーでないものを退けるという論法になっている。立憲主義の論理から排斥されるのは、自民党の改憲案であり、リベラル・デモクラシーの視角から排斥されるのは、マルクス主義と左派の憲法論である。つまり、「右でも左でもない」消極的な護憲派だ。左派的な護憲論からすれば、護憲論者と言っていいのかとも悩む。
この岩波新書を読んで感じるのは、市民に向かって言論されていないことである。アカデミーの内部に向かって、あるいは法曹界の専門家に向かって言葉が発されている。これまで、憲法学会に対して抱いていた不信が、この本で明確なものとして証明され、謎が解けた感がする。
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thessalonike5
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2013-04-03 23:30
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