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正義と平和

2010年 平和旬間メッセージを読んで ②

ヨハネ・パウロ二世教皇は広島で
「過去を振り返ることは
将来に対する責任をになうことです」
と繰り返し訴えました。
この言葉は今も私たちの心に響いています。


今日は何の日かご存じでしょうか?

1937年7月29日、通州事件の起きた日

戦前は、通州事件はほとんどの国民が知っていたそうだ

戦後、語られなくなった、教えられなくなった
意図的に歴史を葬り去ろうとしているため
戦後生まれの私たちはネットで調べなくては
ほとんど知ることができなくなった

    通 州 事 件
 盧溝橋事件から僅か3週間後、即ち昭和12(1937)年7月29日に「通州事件」は起きた。通州は、明朝時代に城壁が築かれ、天津から集荷の拠点として栄えた。交通の要衝、運河の街でもある。北京の郊外、東へおよそ18キロ。事件直前まで日本人にとっては「治安の良い」場所とされた。なぜなら、親日派の「冀東防共自治政府」が通州、天津などを治めており、日本人を妻とする「殷汝耕」が長官だったからだ。

 この自治政府は、付近から雑兵を掻き集めて、一応、9千人の「保安隊」を組織していた。お人好し日本は、自治政府が親日であることを信じて疑わず、保安隊の軍事訓練まで施していた。たまたま事件前夜まで、南宛に向かう萱島連隊が、通州を兵站基地として、盧溝橋事件十日後から駐屯していた。だから居留日本人は二重に安心していたのだ。
 
 しかし通州には、反日派の頭目「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊、合計で3千の軍が野砲で武装して駐屯していた。ひとつは城内に、もう一つの部隊は城外(といっても南門のすぐ脇)に。しかも張らは、親日政府=キ東防共自治政府保安隊の中に密かに潜り込ませた反日分子と接触を絶やさず、また親日派のはずの保安隊の中に、共産党の細胞まであった。彼らは反日では団結する。反日分子たちは日本軍が通州で空になる機会をじっと窺っていた。

 一方、南京の国民党政府は、通州に「冀察政務委員会」を設置していた。事実上の影の政府だが、委員長は中国第29軍の「宋哲元」だった。冀は河北省、察はチチハルを意味する。かれらは極秘裏に居留日本人の住所、家族構成を調べ上げ、リストを作成していた。

 絶好のチャンスがきた。盧溝橋事件から20日後の7月27日、無敵を誇る萱島連隊は、作戦のため、多数のトラックに弾薬を積んで出発した。ただし萱島連隊は、南門城外に不気味に居座った第29部隊が武装解除、撤退に応じないため、先に攻撃してからの通州出発だったが。残留の日本軍守備隊は、自動車中隊、憲兵などを含め僅か110人だった。駐屯するはずの藤尾小隊は、大部分が天津に出張中だった。

 29日午前3時、冀東防共自治政府の保安隊は、突如、日本軍を襲撃した。不意をつかれた日本兵は獅子奮迅の防戦をするも、死者30人あまり。この戦闘の最中に保安隊は自分達のボスだった殷汝耕を拘束し、同時に日本人民間人の虐殺を開始した。居留日本人400人のうち、260人あまりが惨殺されるのだ。

 大局的戦況はといえば、日本軍が蒋介石軍を大破し、南宛を占領した。「北京を死守する」と豪語していた宋哲元は、遥か南方の保定まで逃げ込んだ。それを知らない張慶餘と張硯田ら中国軍と保安隊は、日本人の非武装民間人を虐殺し続け、夕方に萱島部隊が戻ったと聞いて逃亡、北京へ向かった。ところが北京付近で翌30日に日本軍と遭遇、忽ち粉砕され、張慶餘も張硯田もさっと「便衣服」に着替え、一目散に逃げた。部下らは置き去りにされた。こういう卑劣な戦闘指揮をとるのは中国特有であり、日本軍人に殆んど例をみない「規律」である。

 同時刻、惨状を聞いた日本軍の第二連隊はおっとり刀で通州の現場に到着、あまりのむごたらしい惨殺死体に驚嘆、愕然、唖然となった。

 浜田巡査宅では長女が手榴弾で吹き飛び、長男は銃剣で刺され、夫人は凌辱された後女子師範学校まで引き立てられたが、途中で逃げ出した。
 
 付近の日本食堂では男の子が壁に打ち付けられて頭蓋骨陥没の即死、5人の女店員は射殺されていた。食堂・旭軒の女店員8人も強姦のあと裸体にされ、陰部には銃剣がさし込まれていた。他の場所には女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉られ、或いは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま死体を放置してあった。或る店では女店員全員が強姦され、陰部に箸が突っ込まれていたり、口の中に砂を入れられたりして殺されていた。なかには死体から内臓がはみ出し、蝿がたかった現場もあった。
 
 通州の高級割烹旅館だった「近水楼」では女中4人が射殺後に凌辱され、天井裏に隠れていた宿泊客11人は北門付近まで数珠繋ぎにされて連行されたあと虐殺された。ことき同盟通信の安東利男記者が城外に転がり落ちて一命を取りとめ、北京まで這云の体で逃げた。

 こうして保安隊は、事前にリストアップしていた日本人の民家を次々と襲撃し、財産を横領強奪、片っ端から日本人を殺戮し、凌辱を重ねた。逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、ひきずられ、二ヶ所に集められたうえで射殺された。

 日本軍守備隊に運良く逃げ込むことができた120人だけが助かった。
[誤字等一部修正]

http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/tusyu_jiken_1.html

「生きて虜囚の辱めを受けず」

という東条英機氏の戦陣訓

沖縄で自ら命を絶って行った方々は
戦陣訓ゆえ、戦時教育ゆえに命を絶ったのか?

私は、そうは思えない

当時、通州事件など大陸での中国人の残虐行為は
国民の脳裏にこびりついていたはずだ

その残虐行為ゆえに、
人間の尊厳を奪われ、蹂躙されて死ぬのならと
自ら命を絶って行ったのだと思う



そして、もうひとつ覚えていてほしい

この通州事件の犠牲者の半数以上は
半島出身者だった



住民の他、寄留者もいて
しかも惨殺体などの遺体の腐乱のため
犠牲者の人数は資料や証言によって増減する

資料の中には
内地人   男 80名 女 22名
半島出身者 男104名 女 78名
北平からの避難民  40~50名
その他  総合計で 約380名

この事件後、生存者として
内地人 77名  半島出身者 58名

犠牲者は、230名から260名と言われる
この中には、12名の幼児もいた  



当時、治安のよいと言われたこの地に
商売などのために日本人として移り住み
彼らは、日本人として同等の扱いを受けていた

ゆえに、中国人から敵とみなされ、無残な殺され方をした

もし、抑圧された側の人間だったならば
中国人と一緒になって、日本人(内地人)を襲ったはずだ

通州事件の全ての犠牲者のために祈りを捧げたい!




【追 記】

東京裁判での証言があります。

桜井文雄・支那駐屯歩兵第二連隊小隊長

「守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たはって居り、一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されてゐた。婦人といふ婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されて居り、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐へなかつた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合はせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があつた。池の水は血で赤く染まつてゐたのを目撃した」


桂鎮雄・支那駐屯第二連隊歩兵隊長代理

「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあつた。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があつたと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱してゐた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだやうだつた。折り重なつて死んでゐたが、一名だけは局部を露出し上向きになつてゐた。帳場配膳室では男は一人、女二人が横倒れ、或はうつ伏し或は上向いて死んで居り、闘つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のやうだつた。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺されてゐた。階下座敷に女の屍体二つ、素つ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行つたことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素つ裸の女の屍体があつた。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されてゐた。子供は手の指を揃えて切断されてゐた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置されてあつたが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱してゐた。」


萱島高・天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長

「旭軒(飲食店)では四十から十七~八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されてゐた。商館や役所に残された日本人男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだつた。」


通州事件は、戦闘の巻き添えではなく、民間人を対象にしたもので非道としか言いようがありません。

こういう惨殺は、大陸でよく行われていたもので、終戦時、朝鮮半島で、このような仕打ちを受けました。

前日、否、数時間前まで、良き隣人として暮らしていたのに、豹変して、惨殺があちこちで行われました。

満州からの引き揚げ者などは、ロシア兵にレイプされた後、朝鮮人に引き渡され、なぶりものにされました。

京都での日韓友好団体の展示には、そのようなことには一切触れず、大した暴行を受けることもなく、本土へ帰国したと書かれていましたが、大嘘です。
このような犠牲者で生き延びた方のために、引き揚げ船の港には、堕胎のための施設まで設置されていました。


さて、このような恐ろしい歴史の中でも、私たちは、神の存在を感じることができます。

ある人が、異変に気づいてとっさに自宅の便槽に隠れていると、外で日本人の男性の声がしたそうです。

「日本人は隠れろ!
日本人は誰も出てくるな!
日本人は逃げろ~~っ!」


必死の叫び声だったそうです。

そして、ズドンという銃声がし、その声は聞こえなくなったそうです。



本当なら、「助けてくれ」と助命を嘆願するでしょうが
彼は、自らの死を確信し、他の人のことを
それも誰ともわからない他者のために
最後まで叫び続けました。

ここに、神に似て造られた人間の良心を感じます。

日本人の心には、神様の姿を見ることができます。
コメント

知りませんでした。

通州事件。知りませんでした・・・・・
歴史教科書がよく問題になるけど、南京大虐殺と同時に、この通州事件も記載しなければならないですね。
戦争における虐殺行為は、どの国がとか、どの民族がという問題ではない。人類に共通する「悪」の問題として考えなければ・・・

ケニッチーさんへ

通州事件は、よく覚えておいていただきたいです。

Chinaではよくあったことです。

民族性として、こういうことを平気でするようです。
マレー半島でも、イギリスの手先として
マレー人を搾取していた華僑たちが
日本人宅を襲って、床で臥せっていた幼女の首をねじ切って
さらし首にして持ち去るということもありました。

【追記】を書き加えました。

これも、ぜひ読んでください。
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