平成2年6月から平成13年の100回に亘って写真を手掛かりに「広報なきじん」で報告してきたものです。写真シリーズは「今帰仁村歴史文化センター」の資料発掘の足跡でもあります。その全ては『なきじん研究―歴史散歩―』(第11号)に収録しました。その時、写真を手掛かりに何を考えていたのかを振り返ってみます。(随時追加していきます)


1.今帰仁村のある風景(平成2年6月号)

 これは『琉球建築大観』(琉球建築大観刊行会、昭和12年初版)に掲載されている今帰仁村内の写真である。写真の説明では、「国頭郡今帰仁村某氏宅」とあるのみで、村内のどの場所にあたるのか、確定するに至っていない。今帰仁村のどこなのかについてはさて置くとして、とにかく懐かしさと素朴さにあふれ、リゾート、土地改良、開発という声が聞こえてくる昨今、何か訴えているような気がする。時の流れで、このような風景に戻る、あるいは戻すことはないであろうが。

 これまで、ことあるごとに写真も歴史資料の一つであると強調してきた。まさしく、ある歴史的な場面(事実)を時間とともに閉じ込めたのが写真である。この一枚の写真も昭和9年から10年という時間と、今帰仁のある場所を写しだしている。

 昭和10年頃の「今帰仁村のある風景」写真に、近くの家・遠くの家・道路・松・キビ畑・イモ畑・芭蕉・ソテツ・チニブなどが写っている。手前に茅葺のウプヤー(母屋)、向う側にトゥングヮ(台所)があり二棟造りになっている。台所の向いには、プル(便所)か畜舎とみられる茅葺き小屋がある。そのような建物の配置が、今帰仁村に限らず山原では一般的であった。遠くにもウプヤーとトゥングヮが別棟になった二棟建ての家がみえる。ウプヤー(母屋)とトゥングヮ(台所)の屋根は、一部葺き替えがなされており、新しい茅が乗せられている。右手に梯子が立てられており、屋根の修復がなされたばかりか、あるいは修理中のようである。屋根にかけられた竹竿は、洗濯物を干す竿というより屋根の上に茅や道具をあげるのに使われたのであろう。 

 家の右側にチニブ(綱代)が立てかけてある。ヒンプン(中垣)に使っていたのが、支柱が朽ちて家の横に置いてあるのだろうか。あるいは台風で倒れたのであろうか。屋敷に植えられた芭蕉は、今帰仁ではトーヲゥーと呼ぶが、シマバサナイ(島バナナ)なのか、それともナチジンウバサー(今帰仁芭蕉布)の繊維をとる芭蕉なのであろうか。屋敷の回りの小さな丘に自生か、あるは人工的に植えられた蘇鉄がある。蘇鉄は、近世から戦後まで、何度も飢饉から村(ムラ)の人たちを救った植物である。特に大正から昭和の初期にかけて、不況が続き、ムラ人達は蘇鉄からとれる澱粉で苦境をしのいだことがあった。

 この写真が撮影されたのは、その時期より少し後である。戦後も、蘇鉄の澱粉を食糧やミソなどに利用したことがある。今では、ソテツは食糧として振り向かれもしないが、鑑賞用として庭や鉢に植えている。

 素朴な今帰仁村の農村風景である。やはり砂糖キビが目立つ。当時の砂糖製造は、牛や馬を使って鉄車で圧搾していた時代である。ムラのポイントにいくつかサーターヤーがあり、組や班など共同で利用した。今でも、イリムティサーターヤーや「…… サーターヤー」など、小地名として残っている。左手に見えるのは、イモ畑だろうか。白い米を口にするのは、年に指折り数える程しかなかったという。そんな時代の主食はイモであった。

 遠くにみえる道は、松林の森のワイトゥイを通りぬけていく。今帰仁には松並木がよくにあう。大木はみえないが、それでも松の作り出す風景は美しく印象深く残る。昭和十年頃の写真から、いくつか当時の様子を読み取ってみた。場所が確定できると、もっと多くの読み取りが可能である。写真に写しだされた一場面であるが、その読み込みがムラの歴史を描く資料として豊富に情報を提供してくれる。


2. 仲尾次のハサギと公民館(仲尾次)(平成2年7月号)

 仲尾次の公民館に二枚の印象深い写真が掲げられている。どなたが撮影した写真なのか、まだ確認していないが、その方に当時のことをうかがってみようと思っている。

 一枚はハサギに合せてシャッターが切られた写真である。赤瓦屋根のハサギができて、間もない昭和28年か29年の写真である。ハサギのあった場所は、もっと手前にあった。現在のハサギの前はワイトゥイとなり、与那嶺新蔵氏の家の前に通じる道路となっていた。北山高等学校の運動場を造成していたブルトーザーを借りて、ワイトゥイを敷きならしたという。

 ハサギの屋根は赤瓦で真白いムチ(漆喰)が見え、塗りたてられたばかりといったところか。ハサギの正面は未(南南西)の方向に向き、本来のハサギの形に屋根と正面部分を神社風に趣向がこらされている。建設費用は、B円で二万五千円かかったという。当時、まだ茅葺き屋根が一般的であった中で、奇抜な印象を与えたのではなかったかと思う。ハサギの正面に門松が立ててあり、正月から日がまだたっていない頃である。

 ハサギの後方にある二棟建ての茅葺き屋根の建物は、ムラヤー(村屋)と青年クラブを兼ねた建物である。民家風に言えば、右側がウプヤー(母屋)で左側のハサギに隠れた建物がトゥングヮー(台所)である。屋根の所々に新しい茅が挿され、アマハジの所にカンデェイシが置かれている。戦後すぐつくられた建物であろうが、壁板が朽ちているのが目につく。何坪あったか、まだ聞いていないが民家とそう変わらない規模のようである。真新しいハサギと後方に建っている茅葺き屋根のムラヤーとの対比は、素朴さと懐かしさが伝わってくる。と、同時に何か時代に取り残されたような雰囲気にさそわれる。 

 二枚目の写真は、昭和30年に公民館が「仲尾次園芸組合共同集荷場」として建設された。その後、間もない頃の写真である。当初、公民館としてではなく、看板に掲げられているように「仲尾次園芸組合共同集荷場」として、琉球政府から交付された補助金で建設された。瓦屋根のモダンな建物は、B円で十九万八千円かかったという。区長渡名喜長栄氏、書記仲里昭一氏の時代である。仲尾次園芸組合の集荷場として、長い間使われ、一方では公民館(ムラヤー)としても使われた。最初の頃、土間であったが後に床が敷かれた。園芸組合は資金的に余裕ができたので、新しく集荷場を売店の東側に建て移動し、公民館として利用され現在に至っている。

 ハサギの建立が昭和28年、その2年後に公民館が「仲尾次園芸組合共同集荷場」として建てられた。二枚の写真の対比は、古い伝統的な物から新しい物へと変わっていく、

まさに時代の節目を見せつけている。それから、すでに30年余りがたっている。

 二枚の写真を見ていると、戦後40年余の時間の重さと回りの様々な変化に驚いてしまう。刻々と移り変わる回りの変化に気付かなかったり、あるいは気付いていても、なかなか記録することなく過ごす場合が多い。戦後にしろ、その時どきの記録の大事さを二枚の写真が教えてくれる。


3.今帰仁(北山)城跡の正門付近(今泊)(平成2年8月号)

 今帰仁城跡は別名北山城趾とも呼ばれ、今帰仁村では運天港と並んで、歴史的な場面のため多くの人々が訪れる場所である。そのため、撮影された記録的な写真が何枚か残っている。

 この写真は、昭和32年の5月に撮影されたものである。屋我地中学校の生徒が、遠足で今帰仁城跡を訪れた時のスナップ写真の一コマで、屋我地中学校で教頭をされた石川苗貞先生(故人)の撮影によるものである(名護市史編さん室提供)。そこで、目につくのは鳥居と松の大木、それにコイノボリと鳥居の右手の「北山城跡」と記された標柱である。松と鳥居は、写真撮影当時から三十年余りたった現在でも健在である。視点をその奥の方に向けると、まだ平郎門と七五三の石段が造られていず、それ以前の状況をみることができる。  

 奥の方には、北殿に向かってまっすぐな道が通っている。昭和36年に琉球政府文化財保護委員会で造った七五三の階段は、写真を見るかぎり、それ以前から使われていた道路に階段を造ったようである。その時新しく道を造ったものではなく、すでに使われていた道筋に沿って階段がつくられていることがわかる。

  二枚目は、昭和37(1962)年頃の写真である。二枚の写真の違いは、七五三の階段が整備され、最初の石段の手前に「山北今帰仁城趾」の碑があり、この碑は現在の志慶真乙樽歌碑(一九五九年)のある場所から移されたものである。この碑は、さらに平郎門を造るときに移動させられ、現在は教育委員会で保管している。ここに掲げた図面は平面図・断面図・正面図があるが、その中の二枚である。昭和36(1961)年に「文化財保護委員会」(琉球政府)が「北山城復元工事」を行なうために設計図面を描いたもので、設計者は山里銀造氏となっている。先の二枚の写真にも平郎門が造られる以前の向って左側と右側に山のような形をした石垣が写しだされている。また、運よく平郎門を復元した時の図面が見つかり石垣の状況の一端がわかる。図面をみると、やはり写真にあるように左右に石垣が残り、また図面でも破線で記されており修復以前の石垣の残り具合が確認できる。

 今帰仁城跡の平郎門や志慶真門郭や本丸などの整備がなされているが、整備される以前はどうだったのだろうかよく問題にされる。その典型的なのが、昭和36年に造られた平郎門と平郎門から北殿に至る七五三の階段である。平郎門と階段が整備されたとき、どのような議論がなされ、またどのような判断で造られたのか、当時の資料が見つかっていないこともあって、よく批判される。平郎門や七五三の階段を造った理由や何故そのような形にしたのか。それが後世の人達が議論できる資料を残す必要があったのではないか。当時、整備した図面は出てきたが、門の造りや七五三の階段にした理由をもっと知りたいものである。

 昭和30年代の今帰仁(北山)城跡正門付近の動きを二枚の写真にみた。平郎門と七五三の階段の整備は、今帰仁城跡にとって戦後の大きな整備事業である。三十年余りたった現在、やはり30年後、あるいは50年後にきちっと議論できる資料を残しておく。そのことを今帰仁城跡関係だけでなく、もっと身近なところで残しておきたいものだと痛感する。



4.運天港と運天のムラウチ集落(平成2年9月号)

  運天港あるいは運天のムラウチの集落に焦点を当てた、明治後半から戦前にかけての写真、さらに昭和30年代に撮影された印象深い写真が数点ある。その中から二枚と現在の写真を中心に、運天の移り変わりをみていくことにする。       

 一番上の写真は、『望郷沖縄』に掲載された運天港の写真である。まず、目にとまるのが海上に浮かぶ帆をたてた山原船と海岸の護岸、そして数本のコバテイシである。コバテイシの一本は、現在でも健在である。画面には写っていないが、左手に今帰仁間切(村)役場(番所)が、まだ運天にあったころである。運天港とは言いながら、船をつける桟橋がない時代である。当時、運天港では船を横付けできる施設がなく、山原船や大和船は沖に停泊させ、小舟で荷の積み下ろしをしていた。船着き場の突堤ができたのは、昭和34年になってからである。また、ウッパジ付近の崖に白く見えるのはザフンで造られた墓である。現在でも、壊れかけた墓があり、その多くは調査もされないままブロックで閉じられてしまった。

  1816年に琉球を訪れたバジル・ホールは、『朝鮮・琉球航海記』で運天について「道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の目の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。・・・

 浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていた・・・ 村の正面には海岸と平行して、30フィート(9メートル)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。そこに木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある」と記し、その描写と写真の風景がいつもだぶってくる。

 二番目は、運天森(源為朝公上陸跡之碑のあるところ)から撮影した『今日の琉球』(昭和34年)の写真である。中央部にトンネルへつながる道路があり、茅葺屋根と瓦葺屋根が半々に見られ、高度経済成長へと入っていく時代である。戦前に比べると、屋敷を囲む福木並木が大分少なくなっている。番所(役場)跡地には数軒の家が建ち、海上にはエンンジン付の船が見え、古宇利島との渡し船だろうか。

 三番目の写真は、昭和61年にウッパジの上にある運天公園から撮影したものである。海岸が埋め立てられ、護岸が積まれていたところは、強固なコンクリートの堤防ができ、現代的な整備がなされている。民家は、藁葺屋根から瓦屋根となり、さらにスラブの家へと移り変わっている。かつて、数本あったコバテイシの大木が一本残り、新しく植えられた木も見える。番所(役場)のあった周辺には福木の大木があり、かつての風情が僅かながら忍ばれる。

 運天のいくつかの写真をみていると、かつてあった古い風景が写し出された写真ほど胸をうつ。それは、なんだろうかといつも考えさせられる。単に懐かしさや思い出の風景があるというだけではない気がする。人工的な物が目立たない、あるいは自然がおりなす美しさ、さらには運天港が果たしてきた歴史的な背景が、語らずして私たちの胸に訴えているのではないだろうか。「開発も自然との調和だ」と叫ばれて久しいが、回りを見回すと、それとは裏腹に人工物の氾濫である。

 


5. 大正・昭和(戦前)の謝名の湧川家(平成2年10月号)

  今回の写真は、今帰仁村字謝名の湧川家(屋号イクマタ)の家族写真である。一家族の写真であるが、大正から昭和(戦前)にかけての今帰仁の一面をかいまみることができる。

  山原の今帰仁村で大正時代、あるいは戦前期に写真を写し、そして残せた家は数少ない。当時、写真を写すことができたのは、経済力があり写真に関心のある方がいたからであろう。

  湧川家は、明治から昭和(戦前)にかけて10名余りのインジャックヮ(奉公人)を使っていた、いわゆるウェーキ(富農)であった。

  一枚目の上の写真は、大正8(1919)年正月の記念撮影である。子供たちの手にお年玉なのか、袋物やリンゴを持っての写真撮影である。湧川家は明治末に、すでに赤瓦屋根の家を建てており、写真の後方の茅葺屋根はメーヌヤー(前の屋)である。

  後に立っている二人は、湧川喜福(明治16年頃生)と喜幸(喜福の弟)である(以下敬称略)。羽織袴に帯をしめ、明治人の気風が伺える。前列左からツル(南米へ移民)、喜正(明治42年生)、高一(昭和13年戦死)、カメ(喜福の妻)、ナエ、トキ、ウメである。子供を膝にのせているのはカメで、カンプーを結い琉装にゲタ履きである。隣のトキも、カンプーを結っているものの着物に帯は前結びをしている。子供達の服装も男と女では異なり、喜正と高一は断髪をし、ツルとウトは髪を日本髪に結い袴姿である。

  昭和15年の写真に、革グツやヒールなどがみえるが、大正時代の山原の湧川家には、まだクツが入ってきていなかったようである。前列をみると下駄履きと裸足がおり、履き物は一般的に裸足の時代であった。

二枚目の写真も、同じ湧川家(イクマタ)の昭和151940)年正月の写真で、大正8(1919)年から21年後である。前列左から、ウト、キヨ、ハツ子、スミ子、ミヨ子、セツ子、喜正、高一、後列左側からナエ、スエ子、ナヘ(喜正の妻)、カメ、喜福、喜正、高一である。20年後というと一つの家族が、世代交代してしまう時間である。喜正がナヘと結婚し、ミヨ子、セツ子、スエ子と子供をもうけ、湧川家も喜福から喜正へと世代交代しているが、喜福も健在であった(昭和40年に没す)。

   皆が並んだ後方には、赤瓦屋根の家があり、明治の末、国頭方面から材木を買い、斧で削りクギを使わず建てた家だという。その家は戦後も使われ、昭和50年代に取り壊された。

  服装をみると、袴、制服(セーラー服、ツメ襟)、洋服、背広あり、また履き物もゲタに足袋、クツやヒールに靴下を履き、さらにオカッパの髪型があり一人一人の服装に時代が反映している。このような服装は、経済的に恵まれ、裕福であった湧川家の晴姿である。昭和とは言っても一般的には、まだまだ裸足の時代であった。服装は、明治の中頃から急速に大和風に変わっていったという。琉装から和装、さらに洋装へと変化していくが、二枚の写真にその変遷が写し出されている。

  大正と昭和の二枚の写真をみていると、ソテツ地獄(不況)や十五年戦争と呼ばれる時代がだぶってくる。このような社会の動きの中で、湧川家がどのように生きながらえ、そして今時大戦をどのようにくぐり抜けてきたのか、大きなテーマへ引き込まれていきそうである。

 

6.仲原馬場(ナカバルババ)と松並木(越地)(平成2年11月号)

  ナカバルババ(仲原馬場)は別名マーウイとも呼ばれ、今帰仁小学校の西側に位置する。よく写真に写される場所であり、戦前、戦後の写真が何枚か残っている。仲原馬場は昭和34年に県の文化財(史跡)指定をうけている。馬場は距離にして約 250メートル、幅約30メートルあり、中央部に石垣が残り(上の写真の中央部の左側)アブシバレーや間切(現在の村)行事の時の来賓席だったという。  上の写真にみるように競走路の両側には松の大木が並木をなし、その風景は見る人の胸をうつ。それらの松は、別名蔡温松とも呼ばれ松の樹齢を感じさせる。大木の松が数少なくなったが、老松の間に30年余りの若松が勢いよく成長し、松の世代交代をみせつけている。馬場の左側にキビ畑がみえ、まだ運動場が移転する前(昭和30年代後半)の風景である。

  今帰仁村には、仲原馬場のほかに、今泊や天底にも馬場があった。馬場は人工的な施設であり、いつ頃つくられ始めたのかはっきりしないが、『球陽』の1695年の記事に首里に戯馬場がなく、各地に行き騎馬の方法を習って、馬場を西原郡(間切)平良邑に開いたとある。それ以前の『琉球諸島航海日誌』(161415年)にも競馬が行なわれていたことを記してある。今帰仁の仲原馬場の起源については、今のところ定かでない。

  『沖縄県統計概表』(明治13年)は、「馬場ナルモノハ毎歳収穫ノ時ニ至リ一間切ノ人民此相会シ各穀物ノ熟否ヲ較ヘ随テ平生労力ノ勤怠ヲ鑑別スル所ナリ」とあり、馬場は間切に人民が揃い原山勝負を行なわう施設であった。その余興として競馬が開催された。

  今帰仁村の仲原馬場は字の示す通り、仲原にある競馬場ということになるが、現在字越地の小字与比地原(ユピチバル)に位置する。越地は昭和12年に謝名と仲宗根の一部をあわせてできた字(アザ)である。馬場のある地が仲原という地名であったとみられる。それを証拠づけるように、明治13年の『沖縄県統計概表』に「仲原(今帰仁)」、明治31年の『琉球新報』に「今帰仁尋常高等小学校の新築工事請負入札広告」があり、「但、敷地は今帰仁間切謝名村字中原にして・・・ 」、同様に明治32年「今帰仁尋常小学校に高等科を併置し、今帰仁小学校と改称、敷地を謝名仲原二五三番地(現敷地)に新築移転」と記し、明治3132年頃は現在の今帰仁小学校あたりは字仲原であったことがわかる。仲原馬場と呼ぶのは、現在の馬場一帯が仲原という小字で、それにちなんで名付けられたと思われる。小字の組替がなされても、かつての呼び方を踏襲し、仲原という地名と人工的施設である馬場が連称され、「仲原馬場」と呼ばれている。その仲原馬場は、本来今帰仁間切の公共的な施設で、アブシバレーや原山勝負などを行なう施設で、競馬や闘牛・相撲などはその余興として行なわれた。

  下の写真は、昭和35年頃の県道沿いの松並木(一部仲原馬場)である。昭和33年の記録をみると、謝名から今泊に至る街道の両側にある琉球松の大木は約 410本あったと記している。写真の手前右側に運動場があり、バスが通っている場所は二又に別れていた記憶が今に残る。

  

※アブシバレーは間切(村)あげての行事で、その日はクージビ(公の休息日)で、最初の日は仲原馬場で馬二頭づつ
  競馬が行われた。翌日は天底馬場、翌々日は親泊(今泊)馬場で、同様なことが行われていた。


7.平敷公民館の棟上げ式(平成2年12月号)

 この写真は、今帰仁村のほぼ中央に位置する字平敷の旧公民館建設(昭和30年代)の棟上げ式の場面である。公民館建設に関わっているムラの人たちが屋根に11名、下に7名が写し出されている。当山清紀氏(字平敷在)が区長をして後に請負い建設したものである。

 写真には大城忠三(屋根右から五番目)や当山清紀(屋根左から三番目)、当山清勝(屋根左から四番目)、伊集万助(下右から四番目)、大城寿助(下左から三番目)などの顔がみえる。写真に出てくるセーク(大工)達のほとんどが平敷出身である。着ている洋服をみると、ほとんどが長袖で、季節は冬である。

 戦後、復興期に茅葺屋根の公民館、そして昭和30年代に瓦屋根の公民館(写真)を建て、さらに昭和52年にスラブの公民館を建設した。平敷の公民館も例にもれず、茅葺→セメント瓦→スラブの変遷をたどっている。

 今帰仁村内で使われている瓦屋根の公民館は兼次と与那嶺だけとなった。新しく公民館を建設し、旧公民館がそのまま使われずして残っているところは、仲宗根(平成5年取り壊し)と玉城と呉我山である。仲尾次の公民館が平成元年ハサギと一緒に取り壊された。 部落(字)の施設と言えば、共同売店やアサギなどがあるが、まず第一に公民館があげられる。その公民館は、ムラヤー(村屋)や事務所などとも呼ばれ、村内のどの字にもある施設である。昭和49年の平敷公民館の現況をみると「木造建設、広場は道が広がったような形であるが公民館や遊具・農機具格納庫(前は幼児園であった)に囲まれている。細長い方形の敷地を上手に利用している」(「今帰仁村基本構想」)と記している。公民館の間取りは、常会用と青年クラブ用に分けられるようになっていたという。公民館と農機具置場との間は広場となり子供たちの遊び場に利用された。

 現在の公民館は、旧公民館の老朽化にともなって、昭和52年に建設されたものである。棟上げ式は、建物をたてる工事の最大の行事だと言われている。一般的には建物を建てる部落(字)の施設と言えば、共同売店やアサギなどがあるが、まず第一に公民館があげられる。その公民館は、ムラヤー(村屋)や事務所などとも呼ばれ、村内のどの字にもある施設である。昭和49年の平敷公民館の現況をみると「木造建設、広場は道が広がったような形であるが公民館や遊具・農機具格納庫(前は幼児園であった)に囲まれている。細長い方形の敷地を上手に利用している」(「今帰仁村基本構想」)と記している。公民館の間取りは、常会用と青年クラブ用に分けられるようになっていたという。公民館と農機具置場との間は広場となり子供たちの遊び場に利用された。

  現在の公民館は、旧公民館の老朽化にともなって、昭和52年に建設されたものである。棟上げ式は、建物をたてる工事の最大の行事だと言われている。一般的には建物を建てる場合、屋敷御願→起工式(トゥンダティ)→柱建て→棟上げ式→屋根葺き→家移り→落成式の儀礼がある。棟上げ式は、その中で重要な儀式の場面である。写真をみると、二本の弓矢(メスと雄がある)を棟木の両端にたて、矢先を向かわせ、その中央にノボリが立ててある。そのような儀式はいつ頃から行なうようになったのか定かでないが、『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行)で「家造の際、柱梁桁等の組立をなして上棟式を挙ぐ、板の表に『紫微鑾駕』の四字を認め、其の裏に『霜柱氷軒雪桁雨棟上露之葺草』の十二字若しくは『福如東海広』の五字を横書きにして棟木に吊し、酒肴を供へて深更に式を行なふ」と記している。

 平敷の公民館の棟上げ式のときも、「紫微鑾駕」と記した棟札を打ち付けたという。平敷の公民館建設に使った材料の杉材は那覇で、セメント瓦は名護の宮城コーエイ氏から購入したものである(当山清紀氏談)。  下の写真は、幕が寄贈されたときの記念写真(昭和45年頃)である。後方に瓦屋根がみえるのは公民館で、まだ健在のころである。この建物も、今では姿を消してしまった。公民館の建物も時代とともに変わっていく。

 


8. 謝名・平敷のサーターヤー(謝名・平敷)(平成3年2月号)

  サーターヤー、つまり砂糖を製造する工場のことである。砂糖キビは今帰仁村の基幹作物であり、村内の至る所に砂糖キビ畑があり目につく。1月から3月にかけては、砂糖キビの刈り入れ時期である。

  昭和34年までは、各地にあったサーターヤーは、北部製糖工場に接収され姿を消してしまった。戦前、各字にいくつかのサーターヤーがあり、牛に引かして石車や鉄車で圧搾する原始的な工場であった。石車や鉄車は今でもいくつかあり、また、謝名にはアガリムエーサーターヤー(東の模合砂糖工場)やイリムエーサーターヤー(西の模合砂糖工場)やサーターヤーアジマーなどの地名が残り、かつて砂糖工場があった名残りをとどめている。昭和13年の今帰仁村の製糖工場の設置状況は、在来法(家畜による圧搾71)と水力(1)を合せて72件であった。また、改良法と呼ばれた石油発動機など機械による圧搾工場が11軒あった。

  戦後の今帰仁村での製糖工場(サーターヤー)の設立第一号は、湧川善三郎氏名義の「合資会社  三和興産」で、戦後の製糖工場の許可第一号である。その工場は、今帰仁村字謝名の小字頭原に建設された。昭和22年のことである。柱や壁板などは、乙羽岳 () から切り出した松を材木にして利用したものであった。

  謝名にあったサーターヤーは木造平屋建ての天幕葺きの圧搾機室(20坪)と窯場(30坪)、それに翌23年にトタン葺きの精米所(17.5坪)を併設した。一日に十五丁と二五丁の砂糖製造能力をもつ窯が二列あった。その当時は、原料となる砂糖キビが少ないため、精米や刻み煙草、それに澱粉・製粉機などの設備も備えていたが、すべてがうまくいくものではなかった。昭和25年後に木造平屋建ての瓦葺に改造し、機械も30トン級に切り替えた。写真はその建物である。

サーターヤーで思い出されるのは、あのなんとも言えないサーターの香りとサーターナンチチの味である。砂糖キビ畑からサーターヤーへは、馬車に積んで搬入した。馬車の後から砂糖キビを引き抜いてよくかじったものである。北部製糖工場が仲宗根(現在地)にできた間もないころは、馬に馬車を引かせて搬入していたが、その後はトラックとなっていった。

  下の写真は、北部製糖工場に合併吸収される直前(昭和34年)、ウンビ入口にあった平敷と越地共同の製糖工場での記念撮影である。瓦屋根の建物で左手にエントツがかすかにみえる。戦後、間もない頃は平敷も謝名にあった「三和興産」の製糖工場へ砂糖キビを搬入していたが、組合員の出資でウンビ入口に砂糖工場を設立した。その後、昭和34年に北部製糖工場に接収されてしまった。

  写真後方左から大城千和(平敷)、大城武生(平敷)、島袋徳吉(平敷)、仲里正吉(平敷)、岸本本秀(呉我山)、石嶺光永(平敷)、宮里政全(越地)、大城博弘(平敷)、玉城真常(越地)、中列左から仲村精助(平敷)、比嘉清雄(越地)、当山清紀(平敷)、前田義一(越地)、宮里政仁(越地)、前列左から与那嶺幸次郎(平敷)、大城重助(平敷)、仲里金正(平敷)、松田辰盛(越地)、大城幸助(越地)、大城甚正(平敷)、仲原英光(平  敷)、玉城真幸(越地)、大城忠蔵(平敷)、大城嘉英(平敷)の組合員の姿がみえる。

 


9. 一軍人の仲原馬場での村葬と墓 (平成3年3月号)

  この写真は昭和1311月7日、仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬の場面である。乙羽山の遠景がみえることから、祭壇のある場所は仲原馬場中央部の南側と見られる。石段の上にテント屋根の祭壇がつくられ、祭壇の中央部に写真がかざられ、下の段には果物が供えられている。祭壇の横には「村葬の式次第」が張られ、また両側には長い竹竿にノボリが20本余り数えることができる。 前方の看板には、兼次校・婦人会・字民・今帰仁校などとあり、村民あげて葬儀を行なったことがわかる。丸刈りの少年や大日本国防婦人会のたすき掛けの婦人の姿などがみえ、写真の左側には団体旗とみられる旗と、帽子に詰襟の制服姿がみられる。

戦時体制下の波が山原の隅々にまで行きわたり、一軍人の葬儀以上に全体を流れる軍事一色の不気味さが漂ってくる。大日本国防婦人会は昭和17年に愛国婦人会や大日本連

合婦人会などとともに大日本婦人会沖縄支部に統合された。婦人たちも映画会や講演会を開いたり、戦没者の報告や出征軍人の送迎から慰問品などの発送などの活動をした。また、生産の増強や貯蓄を積極的にするなど挙国一致運動を進めたりした(『沖縄近代史辞典』)。大日本国防婦人会のメンバーが、仲原馬場での行なわれた一軍人の村葬へ列席したり遺族に物品を贈るなどの活動をしたのである。
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    ・昭和6年  満州事変を引き起こす。
    ・昭和12  日華事変となる。
    ・昭和13  国家総動員法を公布する。
    ・昭和15  大政翼賛成会が発足する。
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  このような時代の流れの中で、昭和13年に仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬は単なる一軍人の葬儀ではなく、戦時下に組み込まれていった一時代を写しだしているのである。下の写真は、村葬を行なった一軍人である湧川高一の墓を造っている最中である。ピータイ(兵隊)墓とも呼ばれ、今帰仁村で外地で戦死した三人目が湧川高一であったという。その墓の前を通るときによく敬礼させられたという。その墓は今でも謝名のトーヌカ付近にある。

  墓を造っている中に右手後方の棒を持っているのが湧川喜正(故人)、諸喜田平吉(故人)兼次吉正(故人)、玉城徳助、大城善盛、湧川高信(故人)、幸地良徳(故人)、玉城権五郎(故人)、湧川喜福(故人)、大城文五郎(故人)などの顔ぶれが見られる。当時の墓づくりの道具の一端を写真にみることができる。バキに綱を通して二人で担ぐ、すでにセメントが出ている、スコップや三つ歯や一枚歯のクワなどがみられる。そのような道具で、当時としてはりっぱな墓を造っている。服装は個々まちまちで、年配の方々が着物、若者たちはズボンでほとんどが裸足である。モダンな帽子をかぶった方、ねじり八巻をした方、タオルをかぶった方など様々である。

  昭和13年頃の仲原馬場の松並木、この写真と比較してもわかるとおり、今では大木の松の数が少なくなっしまった。仲原馬場は、ある時代にあってはアブシバレーの会場であったり、そこで競馬をしたり、運動会をしたり様々な催物の会場になった所である。写真のように一軍人の葬儀の場としても利用された。イラン戦争が勃発している最中、仲原馬場の松はイヤな気持で世界の状況をながめているような気がする。 

 


10.渡喜仁から上運天にかけての風景(渡喜仁・上運天)(平成3年4月号)

 昭和36年頃、今帰仁村の多くのところに水田が広がり茅葺屋根のある家などがゆったりした風景をつくりだしていた。しかし、そのような風景が写し出された今帰仁の写真は以外と少ない。少ない茅葺屋根の家や水田のある風景写真の一枚が、今回紹介するものである。

 この一枚の写真の風景を特定するために、上運天から渡喜仁、勢理客、さらに運天へと何度も足を運んだ。ムラの方々の30年前の記憶を呼び起こすことは、そうたやすいことではなかった。調査で写真の風景場所を特定することはできなかったが、渡喜仁から上運天にかけての場所だろうと、安谷屋忠吉さん(勢理客)をはじめ大方の印象であった。

 昭和38年の大旱ばつで、今帰仁村の水田ばかりでなく、簡易水道が枯れ飲料水などに困ったことがあった。その影響で水田が放置されたり、あるいは畑に切り替えられていったことがあった。その後、今帰仁村の水田が急激に減少し、昭和40年代の前半には水田のある風景がほとんど消えてしまった。その風景を記録した写真が、これまでのところ非常に少ない。

 この写真の場所は、仲宗根から今帰仁中学校の側を通り運天に向う途中の渡喜仁から上運天にかけての風景だとみられる。が、まだ特定するには至らなかった。

 昭和36年に大洋漁業調査船が沖縄近海のクジラ調査で訪れたとき、運天港に寄港し上陸して周辺を撮影した東京在の方から提供を受けた写真の一枚である。渡喜仁から上運天にかけての風景写真の他に、運天港、大北墓、それに渡喜仁の伊是名墓の四枚の写真の提供を受けた。さて、写真に目を移すと、前面に水をたたえた水田があり、まだ稲の植付けがされておらず田植えの準備中のようである。水をたたえた水田風景は、見る人の気持ちを和ませてくれる。

 水田の向う側には、茅葺屋根の民家が二軒ある。前にある家は南向きの母屋と、向って右手に小さな茅葺屋根の小屋がある。山羊小屋や鳥小屋なのか、それとも薪や農具を入れておく小屋なのかはっきりしないが竹でできた壁があり、その前にはバキ(バーキ)が置かれている。二か所に長い竹竿があり洗濯物が干され生活の漂う情景である。小屋の東側(右手)には、イモか野菜でも植付けたばかりの畑がある。田のあぜや屋敷の周辺の草は、山羊がいるせいか刈り込まれている。南向きの家の前には島芭蕉が植えられ、屋敷囲いはなく開放的で質素なたたずまいである。

 さらに後方にも、茅葺屋根の母屋があり、その家には二軒の小屋がある。母屋の状況は見えないが、二つの小屋の壁は板が打ちつけられ、一つは家畜小屋のようである。もう一つの小さな小

のごとく移り変わっていく。その中にあって、ムラ・シマに生きる一人ひとりを記録していく作業の必要性を痛感する。



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