韓統連(旧韓民統)の民団破壊工作 |
戦後から一九五九年までの在日左翼による民団襲撃は暴力が主であった。 だが『韓国民主回復統一促進国民会議』(韓民統)は暴力のみか北で直接工作教育を受けた精鋭が民団と韓国に潜入し、包摂工作を水面下で実行していた。 北送拉致が始まると工作員たちが自由に日朝間を往来できるようになった。 在日や日本人、韓国から来日した工作員も頻繁に、北に行き教育と指令を直接受けていた。この大量の工作員が日本、韓国、民団の各界各層に潜入していた。 当時、ベトコンと表現していた民団に偽装潜入したスパイたちによる民団包摂工作が本格的に開始された。 一九六十年代から七十年代は郭東儀、「東湖らが民団組織に直接潜入し、暗躍していた時代であった。この民団破壊工作は、表面化することなく放置されていた結果、遂に恐るべき事件が引き起こされたのである。 韓民統は悪辣な秘密工作という牙を剥き出して民団潰しを実行してきた。 その牙は知らない間に、民団組織の奥深くまで確実に食い込み、気づいた時には各所でドロドロとした汚い膿を流出すまでに肥大化していた。 親北左翼の振り回す角材や鉄パイプの襲撃が続発した。 時には拳銃で暗殺される者もいたという。民団の役職員は、組織防衛のため必死に奔走していた。一九六二年、民団中央本部は親北左翼の民団潜入破壊活動を阻止断罪するために北の赤化統一路線に追従する郭東儀・大韓青年会(韓青)委員長を停権処分にした。だがスパイ潜入を阻止することはできなかった。 スパイ潜入の根は想像を絶するほど深かった。気付くのが遅かったのである。 民団は大混乱に陥り「北送在日拉致」開始後の一九七十年代には民団は崩壊の危機に追い込まれてしまった。一九六八年、鄭在俊が民団東京本部の団長に就任し金允鍾が民団神奈川本部議長に選出される等、全国の民団に多くの親北左翼人士が台頭していた。驚いたのは民団の傘下団体である在日韓国青年同盟、在日韓国学生同盟、大韓婦人会東京本部などは完全に包摂されていたのである。 いや傘下団体は民団包摂のスパイの巣窟、即ち工作拠点になっていたという関係者もいた。そして民団史上、最悪の混乱を招いた韓民統による民団撹乱事件が発生した。 民団東京本部襲撃事件(一九七一年八月二日)が引き起こされた。 この事件は八月二日の夜十時四十分、斐東湖ら百数十人が角材等で武装して東京本部を襲撃し、居あわせた民団役職員二十五名が武装ゲリラ達に殴打され負傷した。 大田区団長の張基洙氏と品川区団長の千順久氏は瀕死の重傷を負い、遂に首都本部である民団東京本部が韓民統の「東湖らに乗っ取られる事態に陥ったのである。 この非常事態収拾のために、民団中央本部は東京本部を直轄にする措置をとった。 だが親北左翼は一九七二年四月十八日の午後四時、郭東儀らを首謀者とする約七十名の暴徒達が民団中央本部に乱入し民団中央本部を暴力で占拠し、民団中央本部団長と事務次長に重傷を負わせたのである。 この事件の首謀者である郭東儀らは民団から追放処分されたのは云うまでもないが民団第20回中央委員会において事件に共謀した韓青・学同の民団傘下団体認定取消しも決定した。だが韓青・学同は「韓民統」に加わり、民団組織撹乱と破壊工作を水面下で激しく実行していた。 この民団潰しを影で指揮していたのは韓徳銖の姪の婿である朝鮮総連・筆頭副議長の金炳植であった。金炳植は当時、総連内部で絶対的権限を持ち「フクロウ部隊」を率いて日本人拉致事件や韓国へのスパイ潜入作戦等の秘密工作を指揮していたといわれる。次期の朝鮮総連議長になるのではと、いわれるほどの権勢を誇っていた。 現実に金炳植は日本の政治家やマスコミ関係者を引き連れ、銀座や赤坂で夜毎豪遊していたという。 韓徳銖は一九七二年の南北赤十字会談に金炳植を代表者にして平壌に送り出した。 金炳植は、そのまま北朝鮮に留めおかれて二度と日本に戻ることはできなかったという。朝鮮総連ナンバー2の筆頭副議長も北朝鮮で「粛清北送拉致犠牲者」になっていたという。当時、一九七0年の日本赤軍『よど号』グループの総会で、ハイジャック犯の田宮高麿は「金日成教示により日本を金日成主義化するために党創建準備委員会を設立し、工作活動を推進する」ことを表明していた。 日本人過激派を使って日本を占領支配する対南工作も遂行されていたのである。 同年、「東湖、郭東儀ら在日の親北左翼グループは「金日成教示」を学習し反民団組織を結成することに合意していた。 そして同年、郭東儀(後の韓民統議長)は北朝鮮のスパイ尹考同の案内で北朝鮮に密入国、対南工作教育と工作指令を受けたといわれる。(郭東儀は入北したことを否定している) 驚愕の史実は一九七一年に来日した金大中(後の韓国大統領)が在日左翼と秘密裏に接触していたという情報である。 一方韓国では在日韓国留学生の徐勝兄弟が北朝鮮のスパイ容疑で逮捕されている。 一九七二年十月十七日、韓国全土に非常戒厳令が宣布され、一九七三年五月、民団中央監察委員会は郭東儀ら多数の親北左翼の除名処分を公告した。 同年『韓国民主回復統一促進国民会議』(韓民統)が結成されたが、何と初代議長に金大中が就任していた。 この「韓民統」こそ北政権と朝鮮総連が放った民団潰しの精鋭部隊であった。 いや対南工作の実行部隊であったという在日左翼の精鋭部隊は『韓国民主回復統一促進国民会議』(韓民統)を結成する直前、来日した金大中と東京都内の会合で韓民統の結成と諸懸案に関して審議していたというのである。刻々と緊迫する対南工作の拡大阻止のために金大中拉致事件が起きたという情報が流れた。 事実、逮捕された金大中を救出する運動を最も積極的に展開したのは韓民統であった。金大中と韓民統の密接な関係だけでなく、当時は北の工作員や韓民統の関係者が工作船で日朝間を頻繁に往復していたといわれている。 そして、この時期に多くの日本人が拉致され、北送されていたことを見逃してはならない。 日本人拉致は韓日の共産主義化目的のために実行されていた現実を捜査当局だけでなく韓日の国民は厳しく見つめるべきである。忘却することは赦されない。 |