異端?
相変わらずの本田教です
「新大陸」さんという方から
情報提供を受けましたので、
そのブログ内容中心部のみ抜粋して
掲載させていただきます
本願の声に耳を傾ける
本田哲郎さんの「講座」のレポート①
http://blog.rongakusha.com/?eid=878377
――マリアはヨゼフ以外の男の子を生んだ。証拠は残っていないけど、強姦か、売春ではなかったのか。精霊が妊娠させたのでは決してない。
その子イエスは、生まれながらにして、この世に居場所がなかった。
就ける仕事はヨゼフと同じく石工(石切り)であった。じん肺になる危険労働。
虐げられ、蔑(さげす)まれてきたイエスは、30歳から意を決して、ひと前に立って、語りはじめた。意思的な離脱者として生きたのである。イエスに残された時間は少なかった。
《低く、小さくされてしまっているひとにこそ神から励ましがあるんだ。》
イエスはユダヤ人(ユダヤ教徒)だけに占有されていた神の励ましを解き放とうとし、解き放った。
そのことによって、激しい憎しみを宗教者たちに持たれ、33歳で殺された。
そんなイエスの思いをスルーさせて、後に成立したキリスト教会は「愛」を一般的に説く。
「隣人を、すべてのひとを、愛しなさい」と。
これは違う。そんなことはできない。
これでは偽善者を生み出してしまうではないか。
原語アガペーは、「そのひとをひととして大切にする」ということ。相手の立場に立つことはできないので、なるべくそのひとの下に立つ(under-stand)思いで、そのひとを大切にしていこうということなんだ。エロスではないのだ。エロスは特定のひとを深く愛し、子孫を残していくことだ。
イエスが言ったとおり、弱いところにこそ、神の励ましが在るのだ。
その励ましを現実化できるように、釜ヶ崎で日々私は暮らしている。――
以上400字でまとめてみた。その内容については、明快なのではないか。
非キリスト者はそのことに何らかのコンプレックスを持つ必要はない。
ただイエスの本願の声に耳を傾けるだけでよいのである。その本願が現実化できるように、私たちは努力しなければならない。何教であろうが、そんなことは気にすることはないのである。
本田哲郎さんの「講座」のレポート②
http://blog.rongakusha.com/?eid=878378
本田さんは、釜ヶ崎の問題に取り組んでいる。
野宿者や路上死者のこと、多くのひとびとにとって、まだまだ“壁”がある。“壁”の向こう側のことと思っている。
でも、「壁は同時に通路でもある」(シモーヌ・ヴェイユ)のだ。その“壁”を倒せば、きっと橋になるのである。橋をかけようと本田さんは動いている。支えたいと思っている。
飢えているひと。渇いているひと。難民として来ているひと。身にまとうもののないひと。病みおとろえているひと。――こういう社会でいちばん小さくされたひとたちの側に神はいる、こういうひとこそ神からの励ましがある、ということが本田さんが繰り返して語っているポイントだ。「心底貧しい人たちは、神からの力がある」(マタイ5、本田哲郎訳:「心の貧しい人々は幸いである」というのは誤訳)。そのひとが、クリスチャンであるか否か、宗教があるかないか、国籍民族も関係なし、なのである。全くないのだ。神からの力はキリスト教教会のメンバーかメンバーでないのかに関わりなく、平等に照らされているのである。
そういう聖書の解釈に基いて、釜ヶ崎の「ふるさとの家」の毎週日曜日の「労働者のミサ」を本田さんは行なっている。洗礼を受けていない労働者のおっちゃんにも、無教会派仏教徒の私にも、パンとブドウジュース(アルコール問題があるのでワインではない)を与えられている。「これはイエスの体である」「イエスの血である」と。聖体拝受だ。
これはふつうのキリスト教教会では非クリスチャンにやってはいけないこととされている。
ローマのカソリック本部から文書が届き、指導を受けることになる。審問(裁判)も開かれた。本田さんは堂々と解釈を述べ、「除名するならしてくれ、私から辞することはない」と――。その後、なぜか不問に処せられているそうだ(笑)。
こんな話を7月29日(日)の「講座」が始まる前に私は本田さんから聞いていたからである。
こんど、いっしょに「労働者のミサ」に行こう――。支えよう――。
*******<転載終了>**************
このような司祭が未だに講演会の講師を
大手を振ってしていることに耐えられません
九州のある司祭黙想会の講師の人選の際に
この本田神父の名もあがったとかで
この神父の釜が崎の活動が
カトリック司祭としての評価を
ミスリードしているようです
鹿児島の市民クリスマスという
キリスト者も非キリスト者も集まる席で
マリア様のレイプ説を仰るような非常識極まりない司祭は
カトリック司祭として講演などしていただきたくないというのが
多くの信徒の気持ちです
バチカンからの審問があったようですが
それさえも開き直って言いふらすというのは
どういう神経でしょうか?
大阪教区長はご病気療養中ですが
これは、大阪教区だけの問題ではなく
フランシスコ会の問題であるといっても
過言ではないと思います
メジュゴリエのフランシスコ会司祭同様の処置が
一日も早く修道者聖省から言い渡されるように
願っております
大阪大司教様と一緒に訪問した際
「水による洗礼なんて意味がない」と仰っただけでなく
私に、「そう思いませんか?」と
ご自身の考えを押し付け、
ミスリードしようとした方です
同じ修道院の方々の心配もどこ吹く風で
このような講演会を続けることは
大きな躓きです
神戸のバイブル・ハウスは
キリスト教諸教会の運営ですが
毎年この方の講座を開いています
このバイブル・ハウスには神戸地区カトリック教会が
全面的に協力しているのですが
本田教とも言えるような聖書解釈が広がっています
この方の聖書学の根底には
解放の神学があり、
心の平安を得られるようなものではなく
闘争のための神学です
平和を求めるのではなく
解放?闘争のための神学です
神様の遍在
神様は富める者にも貧しき者にも
常にいてくださる
これは基本中の基本です
貧しき者ではなく貧しくされた者という言葉で
加害者と被害者を作り上げ
貧しくされた者の側に神様がいらっしゃると
他者を切り捨てる・・・
故意に相手を貧しくした者の側にも
常に神様はいらっしゃって
富の公平な分配を選択するように
導いていらっしゃるのですが
それに気づく・気付かない
選択する・しないは本人次第で
本人の責任です
この影響で、私たちの教会では
裕福な家庭は何かしら
白い目で見られるような感じで
違和感を口にされる方もいらっしゃいます
こつこつと実直に
タレントを生かし働いて得た財産を
後ろめたく思わなくてはならないのは間違いで
それをどのように使うかが
課題なのだろうと思います
解放の神学は逆差別の神学なのでしょうか?
情報提供を受けましたので、
そのブログ内容中心部のみ抜粋して
掲載させていただきます
本願の声に耳を傾ける
本田哲郎さんの「講座」のレポート①
http://blog.rongakusha.com/?eid=878377
――マリアはヨゼフ以外の男の子を生んだ。証拠は残っていないけど、強姦か、売春ではなかったのか。精霊が妊娠させたのでは決してない。
その子イエスは、生まれながらにして、この世に居場所がなかった。
就ける仕事はヨゼフと同じく石工(石切り)であった。じん肺になる危険労働。
虐げられ、蔑(さげす)まれてきたイエスは、30歳から意を決して、ひと前に立って、語りはじめた。意思的な離脱者として生きたのである。イエスに残された時間は少なかった。
《低く、小さくされてしまっているひとにこそ神から励ましがあるんだ。》
イエスはユダヤ人(ユダヤ教徒)だけに占有されていた神の励ましを解き放とうとし、解き放った。
そのことによって、激しい憎しみを宗教者たちに持たれ、33歳で殺された。
そんなイエスの思いをスルーさせて、後に成立したキリスト教会は「愛」を一般的に説く。
「隣人を、すべてのひとを、愛しなさい」と。
これは違う。そんなことはできない。
これでは偽善者を生み出してしまうではないか。
原語アガペーは、「そのひとをひととして大切にする」ということ。相手の立場に立つことはできないので、なるべくそのひとの下に立つ(under-stand)思いで、そのひとを大切にしていこうということなんだ。エロスではないのだ。エロスは特定のひとを深く愛し、子孫を残していくことだ。
イエスが言ったとおり、弱いところにこそ、神の励ましが在るのだ。
その励ましを現実化できるように、釜ヶ崎で日々私は暮らしている。――
以上400字でまとめてみた。その内容については、明快なのではないか。
非キリスト者はそのことに何らかのコンプレックスを持つ必要はない。
ただイエスの本願の声に耳を傾けるだけでよいのである。その本願が現実化できるように、私たちは努力しなければならない。何教であろうが、そんなことは気にすることはないのである。
本田哲郎さんの「講座」のレポート②
http://blog.rongakusha.com/?eid=878378
本田さんは、釜ヶ崎の問題に取り組んでいる。
野宿者や路上死者のこと、多くのひとびとにとって、まだまだ“壁”がある。“壁”の向こう側のことと思っている。
でも、「壁は同時に通路でもある」(シモーヌ・ヴェイユ)のだ。その“壁”を倒せば、きっと橋になるのである。橋をかけようと本田さんは動いている。支えたいと思っている。
飢えているひと。渇いているひと。難民として来ているひと。身にまとうもののないひと。病みおとろえているひと。――こういう社会でいちばん小さくされたひとたちの側に神はいる、こういうひとこそ神からの励ましがある、ということが本田さんが繰り返して語っているポイントだ。「心底貧しい人たちは、神からの力がある」(マタイ5、本田哲郎訳:「心の貧しい人々は幸いである」というのは誤訳)。そのひとが、クリスチャンであるか否か、宗教があるかないか、国籍民族も関係なし、なのである。全くないのだ。神からの力はキリスト教教会のメンバーかメンバーでないのかに関わりなく、平等に照らされているのである。
そういう聖書の解釈に基いて、釜ヶ崎の「ふるさとの家」の毎週日曜日の「労働者のミサ」を本田さんは行なっている。洗礼を受けていない労働者のおっちゃんにも、無教会派仏教徒の私にも、パンとブドウジュース(アルコール問題があるのでワインではない)を与えられている。「これはイエスの体である」「イエスの血である」と。聖体拝受だ。
これはふつうのキリスト教教会では非クリスチャンにやってはいけないこととされている。
ローマのカソリック本部から文書が届き、指導を受けることになる。審問(裁判)も開かれた。本田さんは堂々と解釈を述べ、「除名するならしてくれ、私から辞することはない」と――。その後、なぜか不問に処せられているそうだ(笑)。
こんな話を7月29日(日)の「講座」が始まる前に私は本田さんから聞いていたからである。
こんど、いっしょに「労働者のミサ」に行こう――。支えよう――。
*******<転載終了>**************
このような司祭が未だに講演会の講師を
大手を振ってしていることに耐えられません
九州のある司祭黙想会の講師の人選の際に
この本田神父の名もあがったとかで
この神父の釜が崎の活動が
カトリック司祭としての評価を
ミスリードしているようです
鹿児島の市民クリスマスという
キリスト者も非キリスト者も集まる席で
マリア様のレイプ説を仰るような非常識極まりない司祭は
カトリック司祭として講演などしていただきたくないというのが
多くの信徒の気持ちです
バチカンからの審問があったようですが
それさえも開き直って言いふらすというのは
どういう神経でしょうか?
大阪教区長はご病気療養中ですが
これは、大阪教区だけの問題ではなく
フランシスコ会の問題であるといっても
過言ではないと思います
メジュゴリエのフランシスコ会司祭同様の処置が
一日も早く修道者聖省から言い渡されるように
願っております
大阪大司教様と一緒に訪問した際
「水による洗礼なんて意味がない」と仰っただけでなく
私に、「そう思いませんか?」と
ご自身の考えを押し付け、
ミスリードしようとした方です
同じ修道院の方々の心配もどこ吹く風で
このような講演会を続けることは
大きな躓きです
神戸のバイブル・ハウスは
キリスト教諸教会の運営ですが
毎年この方の講座を開いています
このバイブル・ハウスには神戸地区カトリック教会が
全面的に協力しているのですが
本田教とも言えるような聖書解釈が広がっています
この方の聖書学の根底には
解放の神学があり、
心の平安を得られるようなものではなく
闘争のための神学です
平和を求めるのではなく
解放?闘争のための神学です
神様の遍在
神様は富める者にも貧しき者にも
常にいてくださる
これは基本中の基本です
貧しき者ではなく貧しくされた者という言葉で
加害者と被害者を作り上げ
貧しくされた者の側に神様がいらっしゃると
他者を切り捨てる・・・
故意に相手を貧しくした者の側にも
常に神様はいらっしゃって
富の公平な分配を選択するように
導いていらっしゃるのですが
それに気づく・気付かない
選択する・しないは本人次第で
本人の責任です
この影響で、私たちの教会では
裕福な家庭は何かしら
白い目で見られるような感じで
違和感を口にされる方もいらっしゃいます
こつこつと実直に
タレントを生かし働いて得た財産を
後ろめたく思わなくてはならないのは間違いで
それをどのように使うかが
課題なのだろうと思います
解放の神学は逆差別の神学なのでしょうか?
コメント
本田神父
「その後、なぜか不問に処せられているそうだ」
私は、教会関係者の者ではありませんが、本田神父の本は読んだことはあります。
神父が破門されなかったということは、黙認されたと考えていいのではないでしょうか。
私は、教会関係者の者ではありませんが、本田神父の本は読んだことはあります。
神父が破門されなかったということは、黙認されたと考えていいのではないでしょうか。
Kさんへ
本田神父様のなさっていることは、カトリック教会が看過してはならないという重大な過ちに入るものです。
破門というのは、最終的なもので、それが出るまでに、さまざまな機会が与えられ、回心(改心)を促していると思います。
私が耳にしたのは、同じ修道院の修道兄弟が退会になるかもしれないと案じているというものです。
しかし、修道会を退会したとしても、カトリック教会として許されることではないのは確かです。
回心のための猶予期間をいただきながら、あのようにうそぶかれる姿は、多くの信徒を躓かせます。
破門というのは、最終的なもので、それが出るまでに、さまざまな機会が与えられ、回心(改心)を促していると思います。
私が耳にしたのは、同じ修道院の修道兄弟が退会になるかもしれないと案じているというものです。
しかし、修道会を退会したとしても、カトリック教会として許されることではないのは確かです。
回心のための猶予期間をいただきながら、あのようにうそぶかれる姿は、多くの信徒を躓かせます。
No title
私のような部外者には、本田神父という方は、しいたげられた貧しい者につくという点では、むしろ、修道会の始祖であるフランチェスコの精神に戻っている一面があるのではないかという印象を受けてきました。もちろん私の見方を一般化することはできませんが、教会の内部と外部では、印象が異なるということがあるのかもしれませんね。
どうかくれぐれもご自愛ください。
どうかくれぐれもご自愛ください。
Kさんへ
あの方がカトリック司祭でなければ、特段問題にすることはありませんでした。
フランチェスコの精神と本田神父の解放の神学とは異質のものです。
フランチェスコの精神の根本部分が狂ってしまっています。
主への愛(:聖体)+聖母への信心
→そこから、清貧の生活が生まれます。
清貧と平和の使者と言われる聖フランチェスコの弟子である本田神父は、釜が崎暴動の時、どちらにいらっしゃっていたのでしょうか?
警察と暴徒の間に立って、仲裁をされたんでしょうか?
その暴動に参加した方に伺いましたが、お姿はなかったようです。
あの釜が崎暴動はホームレスVs警察のように見えて、実際は、労組系団体Vs警察だったと後から判明しましたが・・・
フランチェスコの精神と本田神父の解放の神学とは異質のものです。
フランチェスコの精神の根本部分が狂ってしまっています。
主への愛(:聖体)+聖母への信心
→そこから、清貧の生活が生まれます。
清貧と平和の使者と言われる聖フランチェスコの弟子である本田神父は、釜が崎暴動の時、どちらにいらっしゃっていたのでしょうか?
警察と暴徒の間に立って、仲裁をされたんでしょうか?
その暴動に参加した方に伺いましたが、お姿はなかったようです。
あの釜が崎暴動はホームレスVs警察のように見えて、実際は、労組系団体Vs警察だったと後から判明しましたが・・・
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