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カトリック新聞から

四旬節メッセージから学ぶもの

もうすぐ聖週間を迎えます

前教皇様の『2013年 四旬節メッセージ』
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/lent/13lent.htm
「愛を信じることが、愛を呼び覚ますのです」
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」(一ヨハネ4・16)

上記のメッセージについて
カトリック新聞2013年2月17日第4182号に
解説された記事がありました
よく理解するために助けとなるものですので
抜粋・編集して掲載したいと思います

真正の信仰は
  愛のわざ伴う


信仰と愛のわざは決して、互いに分かつことも、敵対させることもできず、まさに、信仰自体が愛のわざを伴わなければ真正とは言えない、と教皇は指摘している。 
「信仰とは、真理を知り、それに忠実であることです。愛のわざは、真理のうちに『歩むこと』です」
「信仰は愛のわざがその頂点にあって初めて真正なものとなります」

「信仰が優先されるべき、ゆるぎないものであることを強調するあまり、具体的な愛のわざを評価せず、ほとんど軽蔑し、人道主義のようなものとしてしまうのはあまりにも偏った考え方です」と教皇は書いている。
 それと同時に、「愛と愛のわざの卓越性を強調するあまり、その愛のわざが信仰に取って代われるかのように考えるのも、同様に有益ではありません」とも述べている。

 教皇メッセージを公表する記者会見を主宰した教皇庁開発援助促進評議会議長のロベール・サラ枢機卿によると、教皇メッセージが強調しているのは、信仰を抽象的で知的な営みと捉え、愛のわざを教会の具体的または実践的側面と捉えるか、両者の一方に重きを置こうとする考え方は誤っているということだという。

 教会内外の多くの人にとって、教会は実世界とはかけ離れていると考える方が都合がいいようだと同枢機卿は語る。そうした人々にとっての教会は、「ろうそくの芳香に酔いしれ、香部屋内の整備に忙しく、実際にキリストが語り掛けられた人間についてよりも、むしろ曖昧な神学論争や聖職者間の口論に明け暮れている」ように見えている、と枢機卿は説明している。
 もう一つの誤った見方は、教会の通常の慈善団体と同じように捉え、社会正義や人々の物理的な必要に応えることが第一の関心事で、「人々の核心にある神への渇望を忘れてしまっている」と考えることだと同枢機卿は指摘した。

「愛に動かされる」キリスト者の生活

 教皇メッセージのテーマ「愛を信じることが、愛を呼び覚ますのです」は一ヨハネの手紙(4・16)の「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」からとられた。
 教皇のメッセージは、「信仰年」にあって、自らの2005年発表の回勅『神は愛』でも扱った信仰と愛のわざの関係について説いている。
 全てのキリスト者、特に援助団体で働く人には信仰が求められ、それは、キリストのうちに神と個人的に出会い、キリストの愛を体験することで得られる、と教皇は指摘する。「キリスト者とは、キリストの愛によって捕えられ、その愛に動かされる人です」
 キリスト者の生活は、神からの信仰のたまものを「感嘆と感謝のうちに」受け入れることによって始まるが、その後も続く信仰の旅路で、神は「わたしたちを根底から変え」、よりキリストに似た者として、その愛を隣人と分かち合えるようにしてくださろうと努めておられる、と教皇は書いている。




日本にキリスト教が伝来し、
長崎を中心に栄えた頃
信徒たちは「ミゼリコルディア」という組織のもと
病院や孤児・老人のための施設などを創り
日本の福祉事業の草分けとなりました

宣教師によってキリストと出会い
信仰する中で湧き出る愛に突き動かされ
愛のわざとして、弱者に奉仕し
キリストの愛を他者と分かち合いました

明治維新後、キリスト教解禁となり
多くの宣教師・修道女が渡来し
各地で学校や孤児の施設などを開きました

そして現代も病院をはじめ
家庭環境に恵まれない子供、
障害のある人、高齢者など
社会的弱者のための福祉施設を運営しています

祈りのうちに個人的なキリストとの出会いを体験し
愛の衝動によって、他者への愛のわざとなります

ですから、各教会(小教区)においても
さまざまな福祉活動が行われています

ホームレスへの炊き出し
病者訪問
発展途上国の子供たちへの募金等々

でも、昔と違って、何かが足りないのです

指摘されているように、
教会は慈善団体の作業場と化してしまい
聖堂で聖体訪問をすることもなく
作業場に直行して作業し、
終わるとそのまま帰る・・・

祈りが軽んじられるにつれ
自己満足の危険性が強まり
愛のわざというよりも
機械的に作業して手早く終える・・・

しかし、いろいろと問題は抱えながらも
それは不完全な人間としての
「愛のわざ」であることは
間違いないのです

ある時、教会の福祉活動を
「あれは偽善だから、私は参加しない」と
切り捨てた信徒がいました

参加しないのは各自の自由ですが
他の信徒の活動を『偽善』と切り捨てては
いけないと思います

各人がどれほどの思いを
キリストへの愛を、他者への愛をこめているか
他人にはわからないのですから

活動をしていてもいろんな疑問を抱きます
ホームレスへの炊き出しといっても
夜間パトロールの際、手渡すおにぎりは
確実にホームレスの方々に届きますが
公園横での炊き出しでは
集まられるのは多くが元ホームレスの方々です

ホームレスを卒業して
生活保護を受けておられる方々が多いのです
本来ならば、炊き出しなど
必要のないはずの方々です

でも、人間的弱さから後先考えずに
食費分も使ってしまうのです

ただの甘やかしにしか
見えないかもしれません

しかし、私たちは
『餓死寸前の人を救えるかもしれない』
『一人でも立ち直ってくれれば・・・』
との願いを込めて奉仕するのです

たとえ、それが集まった中で
何か月、何年に
たった一人であったとしても・・・

ただ、食事さえ用意すればいいのでしょうか?

キリストとの出会いは、
奉仕するボランティアの姿を通して
ということだけでよいのでしょうか?
みことばを宣べ伝えなくていいのでしょうか?

彼らは何によって救われるのでしょうか?

そんな疑問を抱きながらも
社会活動委員会の方針に従っての
奉仕なのですが・・・
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